第3話 距離感故障気味
駅から坂を上り続ける通学路を、当たり障りのない会話をしながら歩くこと十五分弱。改札前でもたついた分だけ到着が遅れ、八時を五分ほどすぎてようやく学校に入った。
その遅れがまずかった。
本校舎二階の廊下で、朝練終わりの初々しい彼氏彼女と鉢合わせになってしまう。
ひな子は中学から変わらずの合唱部。木田はテニス部。音楽室のある芸術棟はテニスコートの傍だから、一緒に教室へ移動してきてもおかしくない。
結衣は高校から帰宅部を選んで、ひな子とはすっかりご無沙汰だった。けれど、久しぶりにしっかり顔を合わせたひな子は、人好きのする愛らしい笑顔で結衣に手を振ってくる。ひな子のとなりにいる木田は気まずそうな顔もしなければ、挨拶するそぶりもない。ただ、結衣と並んで悠が立っていることに驚いたのか、軽く目を
ひな子が結衣めがけて足を速める。ご丁寧に木田もペースを上げる。
目が合った今、彼女を避けて教室に逃げ込むのはあまりにも態度が悪い。
ひな子は知らないのだ。今彼女のとなりにいる男子が、昨日まで結衣の彼氏だったことを。
結衣が木田と並んで歩いたことはない。名前で呼んだことも、呼ばれたこともない。思春期男子は重度の照れ屋で、校内で堂々と貝合せのように手を繋ぐなど考えられないことだった。
ひな子は何も悪くない。結衣に避けられるいわれがない。
顔に笑顔を貼り付ける。無理やりに口角を持ち上げて、幼なじみを出迎えるための顔に自分を塗っていく。
すると、結衣の手が思い切り引っ張られた。
悠はまるで結衣をふたりから隠すように、自分の傍に引き寄せた。結衣の視界から幼なじみと元彼が消え失せて、代わりに悠のポロシャツの襟が見えた。
――背、高っ。
高身長の悠が、わざわざ顔を結衣の耳に寄せて、内緒ごとみたいにささやく。
「昼は別のほうがいい? いつも
声が近い。テノールが結衣の鼓膜から溶かしバターみたいに全身へ広がる。肌がぶわっと粟立つような感覚が走って、あわてて耳を押さえた。彼は初日から絶対に距離感を間違えている。
「そそそそう!」
盛大につっかえた。うんんっと咳払いしながら一歩さがる。
そこで、はて、と疑問を抱いた。
どうして彼は、結衣の昼食メンバーを把握しているのだろうかと。
「よく知ってるね」
「そっちの教室でいつも集まってるから」
「いや、古澤くんは九組さんだし、こっちに来ることってあまりないのにと思って」
疑問をそのままぶつけると、悠は肩をすくめてから苦笑した。
「廊下から教室のぞくぐらいする。なにせ、こっちは佐伯さんに好意を持っておりますので」
今なら脳天で湯が沸かせる。直球を投げつけられて、結衣はあわあわと池の鯉みたいに口をぱくつかせた。
「じゃ、また」
とん、と。やや強く背中を押された。その勢いで、結衣は八組の教室に滑り込む。
振り向くともう悠の姿はなくて、代わりに友人がヌッと視界に入ってきた。
肩に届くセミロングを揺らし、じとりと結衣を見てくるのは
「いろいろ聞きたいことはあるけど、おはよう」
今すぐアナウンサーに転身できそうな美声で、朱莉がにっこりと口角を上げた。
「おはよう……もう、だめ。朱莉ぃ……助けて」
「おうともよ。昼まで耐えなさいな」
友人に頭をなでなでされながら、結衣はぐったりと自席にたどり着いた。
* * *
昼休みに入るなり、どだだだと激しい足音が八組に向かってくる。
勢いそのままズバンと扉を開けて、艶やかなロングヘアを振り乱した女子がぜっぜと息を切らす。
肩で息をしながら上げた顔は、ひたいから落ちる汗すら麗しい。立てばシャクヤク、座れば何とやら。
ただし。
「ゆいこぉぉぉ! 泣かないでぇ!」
口を開けば完熟ホウセンカ。少々、否、なかなかパチンと騒々しい。
五組の
一年次、朱莉、織音とは同じクラスだった。
結衣と朱莉は向瀬に同じ中学出身者がほとんどおらず、織音は出身中学こそ高校の真ん前ながら、過去いろいろあって同中女子とやや疎遠。そんな三人が意気投合して、去年一年をたいへん愉快に過ごした。
二年からは織音とクラスが離れてしまったが、昼は変わらず集っている。
「織音ちゃん、落ち着こう。まず私、泣かされてないし」
「物理の話じゃないの。概念の涙!」
「なにさ、概念の涙って」
結衣はひと足先に母の愛情たっぷり弁当をいただきながら、となりの椅子を引いた。
そこにストンと落ち着いた織音が、机三つをくっつけた即席食卓に、パンの入った袋を置く。
「こっちでも朝から話題になってたんだよ。なんで木田が川上さんと付き合ってるの? いつから?」
「私が知りたい」
「てか、ゆいこはいつ別れたの。織音サマに挨拶なかったけど」
「それも私が知りたい」
織音がクリームパンを思い切り掴むから、たっぷりクリームがにゅっと飛び出す。
「……処す?」
「処さない処さない。冷静に考えたら、春ぐらいからLINeは既読スルーされたりしてたしね? そこで不審に思わない私が鈍かったのかなとか。夏休みなんか一度も顔合わせてないし……って言ったら春休みもなんだけど。なんなら冬休みもだけど。ひな子とは手繋いでるわけだから、限界照れ屋説も怪しくなってきて。え、これ大丈夫? 十ヶ月間、私が妄想抱いて生きていただけでは!?」
「結衣、落ち着きなさい」
「はい」
朱莉の指摘で口を止める。混乱してくるとダバダバと喋り続けるご近所のマダム風になってしまう。結衣の悪い癖だ。
織音は肺を空っぽにするようなため息をついて、あわや落下寸前のクリームを救出した。
「でもさ。ゆいこにはゴメンなんだけど、あたしとしてはホッとしたとこある。木田と付き合ってても全然良いことないじゃん」
「そこは朱莉さん的にも同意見」
ふたりが口をそろえるのもしかたのないことだ。
木田との交際はどんなだったのかと言われると、返すエピソードがない。
一緒に登下校した回数、ゼロ。
デートした回数、ゼロ。
LINeは数え切れないほど使った。朝が弱い木田の頼みで、モーニングコール係に任命されたからだ。返信はない。そんなLINeすら、クラスの離れた四月で終わった。他愛無いメッセージのやり取りが続かなくなった時期はもっと早い。
清き男女交際だったことは間違いない。清らかすぎて、ポジションは目覚まし時計と同値だ。彼氏ができたら、結衣は人類からはみ出した。
「付き合うって、本来何するもの?」
結衣が尋ねると、苦い顔をした織音ははむっと大口でクリームパンをくわえた。しばらくもきゅもきゅと
「昨日まで彼氏がいた人のセリフじゃないじゃん。うぅ、ゆいこの言葉があたしの心に痛い」
「え、大丈夫? 保健室いく?」
「この痛みは現代医術では取れないのよ、ゆいこ」
「なんで私より織音ちゃんが痛がるかなぁ」
そこで朱莉が、ぱんと両手を合わせてから弁当箱に蓋をした。
「渦中の人ほど、感情が
文学めいたことを言う朱莉の声は、朝よりずっと
「まぁ、今の結衣の場合。失恋に落ち込んでる場合じゃないんでしょうから?」
「……うぅ」
「え、何? 何の話?」
「それがね、織音――」
結衣は椅子から立ち上がって、朱莉の口に手のひらでばふっと蓋をした。
「待って!」
「何よ、織音に言わないつもり?」
「まだ公開許可取ってない!」
「許可ぁっ!?」
思い切り眉をひそめた朱莉に、結衣は顔を引きつらせてうなずく。
木田と付き合う時、結衣は初手で大失敗した。浮足立って朱莉と織音に交際を打ち明けた直後、木田から完全秘匿を言い渡されたのだ。
最後まで、ふたりにすでに報告してしまったことは明かせずじまい。その罪悪感は結衣の中でずしんと重い石になって今も残っている。
「許可とかいる? 向こう、堂々としてたじゃないの」
「堂々って何さ。ただ廊下で話してただけだよ」
「……あれが、話してただけ、ねぇ」
物言いたげな朱莉はそっとしておいて、結衣はLINeを起動した。
真っ先に確かめておかなければならないことだったのに。また浮かれていたのだろうか。
それは苦い。恥ずかしい。十ヶ月を経て、結衣は何も学習できていない。
【 ゆい >> 今いいかな 】
一瞬で既読マークがついて、しゅぽんとメッセージが更新される。
【 こざわ >> どうなさった? 】
【 ゆい >> 付き合ってること、黙っといたほうがいいよね? 】
【 こざわ >> 佐伯さんは隠したい? 】
悠からの問いかけに、一瞬指が止まる。問いに問いが返ってくるとは思わなかった。
【 ゆい >> 古澤くんからしたら、隠したいことだよね? 】
こちらからも、さらに問いを重ねる。
既読マークがついたきり、画面が動かなくなった。
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