第73話 頼られたい
* * *
月曜日、織音は久しぶりに寝坊して、飛び起きるなり真っ青になった。
あわあわとスマホをつついて樹生に応援要請を飛ばす。当然メッセージを打つ余裕はなく、ハンズフリーにした通話モードだ。
コールを十回待っても繋がらない。珍しいなと思いながら顔面だけは塗っていって、二十回を過ぎたところでようやく樹生が応答した。
【……ぁい】
「……ん?」
聞き慣れないしゃがれ声にぎょっとして、画面に表示された名前を確かめる。
【ぉはよ……さん】
「は? たっつ? 今さら声変わり!?」
【ちょい、声張らんで。頭いたい】
織音は慌てて声量を落とす。
「風邪、かい?」
【やと思う。鍵、開けとくし……マスクとか】
「ある! 行く!」
織音は通話を切って、キッチンに常備している経口補水液のペットボトルを手に居室に向かった。
発熱時の強い味方、おでこがひんやりするシート。それに手持ちの解熱剤など、使えそうなものをあれこれ紙袋に詰める。この際髪などどうでもいいとゴム一本で適当に縛り、マスクを着けた。
隣室に入ってキッチンを抜け、奥まで進む。居室には、ローチェストの引き出しを開けたまま座り込む樹生がいた。思わず大声を上げそうになって、一度大きく深呼吸して感情を鎮めた。
「なんで寝てないの」
「……織音の、髪。やる」
「いいよ、そんなの」
熱で潤んだヘーゼルの瞳が、きょとんと織音を見上げてきた。
「ほな、何しにきたん」
「具合見にきたに決まってんじゃん」
なぜか不思議そうに首をかしげて、樹生がずるずるとベッドに戻る。そんな樹生の姿にどこか違和感を覚えつつも、織音は開いたままの引き出しに手をかけた。中をのぞいたら、織音が贈ったピアスのケースと綺麗に畳まれた包装紙にリボンまでが、オブジェみたいにしまわれていた。
少々照れくさくなりながら引き出しを閉めて、ベッドに倒れ込んだ樹生に布団をかける。
「寒い?」
彼のひたいに手を当て、首元にも手を添えた。それだけで高熱とわかる。
「何度ある?」
「測ってへん」
「体温計持ってきたし使って。絶対熱あるからシート貼るし、おでこ出し……んぁ? 待って、たっつ、髪の毛すんごい減ってない?」
樹生の体調にばかり気を取られ、寝癖にも騙されて、違和感の正体にたどり着くまで時間がかかった。
前髪をぺたりと押さえても眉に届かない。後ろも横もぐっと短くなっている。彼の定番である、左サイドの髪を耳後ろに流すセットができる長さは残っていない。
「え、いつ?」
「昨日……兄貴んとこ」
「なにぃ!? あたし誘われてない! 抜け駆けするからバチが当たったんじゃないかっ!」
「おとぉ……声……さげてぇ」
「おおぉ、すまぬ」
ピピッと鳴った体温計を樹生から受け取った。体温計は八度九分と、かなりの高記録を叩き出してしまっている。
「水飲めてる?」
「水道……とおい」
「わかった。一回体起こすよ」
樹生が起きるのを、背中に手を添えて手伝う。経口補水液のキャップをはずして口元に持っていく。織音の手に重なる樹生の手は、指先まで熱い。
こきゅ、と彼の喉が上下して、熱の籠もった息が織音の手にかかる。
「飲める? これ、美味しい? まずい?」
「旨い……甘い気が、する」
「んじゃ、ゆっくり飲み。服は? 汗かいてる?」
左右に振れる頭を、よしよしとなでる。ぐっと短くなった上にノーセットな髪のせいか、いつもより幼く感じる。やんちゃな男の子、という雰囲気だ。
「解熱、飲んどこっか。このまま起きて待ってて」
「……おと、がっこ……」
「行くよ。今日の一限はレポート出さないと単位即落ちだから」
「ほ、ん」
弱っていても相づちは「ほん」なのかと笑って、水と薬を準備する。無事に飲み干すのを見届けて、織音は腕時計を確かめた。
「今日の二限休講だから。一回帰ってきて病院連れてくからね。それまで寝てれ」
「いい……行かん」
赤い顔でふやふやと否定する樹生の両頬を、織音はぺちっと軽く手のひらで挟んだ。
「うちのおとーさんは、出張中に風邪こじらせたきりだった。病院は行く。わかった?」
かくんと首を落とすように樹生がうなずいたから、織音はもう一度横になるのを手伝う。それからローチェストの上に置いてある鍵を借りて、樹生の部屋を出た。
一限が終わり大急ぎで引き返してきたら、樹生のベッドはもぬけの殻だった。鍵は閉まっていたから、本人が合鍵を持って出かけていったのは確かだ。
焦って転げるようにアパートを飛び出したら、駅方面からふらふらと歩いてくる樹生が見えた。
「たっつ! 何やってんの!」
樹生はあごに下げていたマスクをしっかり鼻まで引き上げてから、がさりとレジ袋を掲げた。
「病院……行った」
「あたしが連れて行くって言ったじゃん」
「LINe、送った」
慌ててスマホを確かめたら、病院へ行く旨をどうにか読み取れる怪文書が樹生から届いていた。
「ちゃんと、行った。大学戻りぃ」
「だから休講なんだってば」
「午後からも、あるんやろ」
「樹生のお昼用意してから行く」
「要らん」
織音からふいっと目を逸らし、樹生はアパートへ入っていく。
その背中に蹴りのひとつでも入れてくれようかと思った。
織音はエントランスのドアが開くなり、樹生より先に強引に身をねじ込んだ。そのまま一段とばしで階段を上がり、樹生の部屋に入る。
ざかざかと手を洗い、キッチンに行って勝手に冷蔵庫を漁ってみる。冷凍ご飯と梅干しというパーフェクトな備えにぐっと拳を握り、鍋で湯を沸かす。
少しして、ガタンと派手な音をたてて樹生が入ってきた。キッチンの壁に寄りかかり、艶っぽさすらある息遣いで「織音」と呼びかけてくる。腹立たしさを破裂寸前の風船みたいに膨張させながら、織音はレンジで解凍したご飯を鍋に放り込んだ。
「さぞ、あたしは頼りないんでしょーね」
「ちゃうて」
「こんなときに助けても言えない友だちなんだもんね」
「おーと」
「うるさい。寝てろ、ばーか」
「口悪ぅ」
ふいっとそっぽを向いてから、注意を鍋に戻す。菜箸でぐるぐる混ぜて吹きこぼれに気をつけていたら、織音の肩にぽすっと樹生の頭が乗った。
「風邪んとき、ひとりで耐えてた覚えしかないんや」
「そう、なの?」
「織音が頼んないとか、ちゃう」
「……わかった。とりあえず寝て」
「ありがとな」
キッチンをよたよたと出て、樹生はそのままベッドにダイブした。これはいけないと織音は火を止め、樹生を追いかける。
「こりゃ、パーカー脱ぐ脱ぐ。あー、汗かいてんじゃん」
「……着替え、そこ」
「クローゼット開けるよー。全取っ替えする?」
「上だけ」
「ほんじゃ、Tシャツな。で、汗拭くから脱ぐだけ脱いで待て」
キリキリと指示を飛ばして、洗面所の流し下からフェイスタオルを出す。このあたりはもう、勝手知ったるなんとやらだ。
熱めのお湯で湿らせたタオルを手にベッドに戻ると、Tシャツをまだ腕から引き抜ききらない状態の樹生がぼんやり織音を見ていた。
なんとも心細そうな顔をするものだ。
「自分で拭く?」
尋ねたら樹生はこくりとうなずいて、織音に背を向けてからタオルで体の前側をゆるゆると拭いていく。
後ろ手に背中を拭こうとするから、有無を言わせずタオルを引き継いだ。初めて目にした彼の背中の筋肉の付きや肩甲骨の張りに、目の前にいるのが男の人なのだと急激な実感が湧き起こる。気恥ずかしくなって目線を逃がし、切りたてな彼の髪に意識を移した。すっきりと刈り上げられた襟足を逆なでしてみたら、昔近所にいた柴犬の手触りを思い出す。
「なんか、思い切ったね」
「兄貴が……ミスった」
「めっずらしい」
「……平凡顔、丸わかりやろ」
「そんなことないって。カッコいいじゃん、似合うよ」
「そら、ありがと……さん、です」
うとうとしてきたらしく、応答がにぶい。急いで替えのTシャツを頭からかぶせ、どうにか腕を通してもらう。すぐに横になろうとする樹生を止めて、背中にタオルを一枚挟み、端を襟から出してマントみたいに折り返す。
「これ、なに?」
「保温と汗取り。汗かいたらこれ引っこ抜いたら良いからね」
「すご……三原家の医学」
「梅がゆ作っとくけど、まだ無理には食べないで。お腹すいたなと思ってからどーぞ」
「はぃ」
大人しく布団に入る樹生の頭をなでて、ひたい同士をこつんと当てる。すると、彼の閉じかけたまぶたが薄く開いた。
「それ、は?」
「あ……元気になれの、おまじないみたいな」
織音の体調が悪いとき、母が必ずこうしてくれる。
「……えぇな」
なんだか泣きそうな顔をして樹生が言うから、織音はしばらく彼に見入ってしまった。
俊也も都美も、病気の弟を放ったらかしにするような人とは思えないのに。ホールケーキもそうだった。樹生はときどき、家族と過ごす時間を知らないのではないかと思えるような話をする。
すぅ、と樹生の寝息が聞こえてきて、織音はキッチンに戻った。もう一度火をつけて、鍋を見守りつつ梅肉を細かく叩く。鍋に入れるか別添えするか考えていたら、突然、大発見が頭に降ってきた。
兄弟三人の中で、樹生にしか関西なまりがない。
火を止め蓋をして、結局梅肉は別添えにした。綺麗に保たれたキッチンと、ちっとも物が増えない居室をぐるりと見回し、もう一度樹生のそばに行く。
「あたし、樹生のこと何も知らないね」
織音と樹生の間には、見えないけれど境界線があって。織音はずっと、その線を越えずにきた。踏み込まれることを樹生はとても嫌がるから。そういう直感だけは冴えていると自負している。
それに。踏み込む資格なんて、織音は持っていないのだ。時々そんな事実が石になって、ごろっと胸に落ちてくる。溜まった石はどこにもいけずに、落ちてくる石は年々大きくなった。
溜めこんだ石を重いと感じることが増えた。
友人としてなら、いつか、彼の内側を共有できるのだろうか。かつて期待という名だったこの疑問は、不安へと名を変えつつある。
まだ、重いだけだ。痛くない。
織音は自分の胸を強く二度叩いて、息を吐ききってから笑顔を作った。
「ちゃんと、さーやちゃんには頼りなよ」
こんなに体調が悪いのに、彼の左耳には織音が贈ったピアスがある。寝ている間に引っ掛けそうで怖ろしい。
こわごわとピアスを外して、ベッドのヘッドボードに乗せる。座卓のそばに置きっぱなしだった鞄からスマホを出して、LINeアプリを起動した。
【 おと >> 三限四限休むー 】
【 彩葉 >> おっけ。代返狙ってみるね 】
スマホを鞄に放り込み、ベッドに寄りかかる。寝苦しくないだろうかと樹生のマスクを外し、織音は彼の熱い頬をゆっくりとなでた。
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