第72話 釣り合いの取れた男
* * *
七月、第三日曜日。
樹生と織音がいま住んでいる辺りより、地元は山に近くて体感がいくらか涼しい。
休日もカフェ『ねこだまり』はいつもと変わらず、ゆったりと落ち着きのある空間だ。地元といっても高校の三年間しか
店に入ってきた男の顔を見て、なるほど、いつぞやの合コンで見た顔だと思い出す。爽やかな好青年という印象の中条
樹生は立ち上がり、軽く会釈した。
「応じていただいてありがとうございます。あらためまして、
「中条です。びっくりしました。まさかあの
あの古澤くん、である。蒼大の口ぶりからして、
「織音にバレるわけにはいかんかったんです。すいません、ほんまに」
「いえ。俺も高砂さんとはちゃんと話してみたかったから。良かったです」
オーダーを通すと、アイスコーヒーふたつがすぐにテーブルに運ばれてくる。
「単刀直入に。織音の元カレさんとは今も交友続けてます?」
「いえ。
「そら何よりです。ほんなら、いま織音と会っとるんは五年前の
樹生が問うと、蒼大は少し返答に詰まる様子を見せた。
「そんな純粋なものではないです。どうしても好意がしっかり絡んでいるから。ですが、自分の責任は自覚しています。彼女のトラウマを払拭したい気持ちは本心です」
「ほな、織音と付き合いたいのは同情半分ですか」
「違います……もともと、織音さんを見つけたのは祐慎より俺が先だったんです。最低な話を聞かせてしまったことも、自分が祐慎に従うばかりだったことも後悔してきた。再会できたなら今度こそと。そういう気持ちでいます」
真っ正直に何もかもつまびらかにしてみせる。その言葉のどこにも嘘はないとわかっている。この男に嘘があれば、警戒心の強い織音がこんなに早く一分半を許せるはずがない。直に確かめにきたのは、ただ自分を納得させたかったからだ。
「了解です。それだけ聞けたら、オレからお尋ねすることはもう何もないんで」
さっさとコーヒーを空にするかと、ストローも挿さずに口をつける。何度か『ねこだまり』には来ているが、ここのコーヒーは美味しい。本当ならもっとゆっくり味わいたかった。
「じゃあ。俺からも質問、いいですか」
「どうぞ」
「なぜ織音さんとこんな半端な関係を続けてるんですか」
「半端、ですか。分厚い友情をはぐくんどるつもりですけど」
「俺はあの夜、織音さんを迎えに来た高砂さんを彼氏なんだと思いました。それぐらいの熱が高砂さんにあると感じたから」
ぶはっと吹き出して、樹生は手の甲で口を押えた。
「な、何かおかしいですか!?」
「いや、どストレートやなぁて。すんません。もうちょいオブラートに包むタイプか思てた」
「す……みません?」
「いや。織音相手やったら、それぐらいのほうがええです。
まだ収まらない笑いを堪えながら言うと、蒼大は戸惑った様子で、落ち着きなく右手をぱたぱたと動かす。
「あの……」
「はい?」
「すいません……やっぱり高砂さん、織音さんのこと」
「好きですよ。友人として」
「いや、でも! 織音さんのこと、そこまで理解して。そのピアスだってわかっててつけてるんですよね? それ、結構な値段の……」
「ほんま。となりで見てたんやったら止めてくださいよ。なんぼなんでも張り過ぎや」
「止めましたよ! それでも、どうしてもって言うから」
「頑固なんです。ほんで走り出したら止まらんとこあるんです。喧嘩したら売り言葉に買い言葉で長丁場になります。冷静に切ったってください」
まるで、織音の取り扱い説明でもしているかのようだ。身内でもあるまいに。
「友人のことを語るにしては、重すぎませんか」
もどかしそうに言う蒼大の顔に、人の善さが滲む。こんな場でも相手を案じるようなところは、織音の友人である結衣に似ている気もする。だったらきっと、織音と上手に噛み合っていける。
黙って目を伏せた樹生に、納得できないとばかりに蒼大がさらに言葉を積み上げた。
「彼女がいるって――本当のことですか?」
「いてますよ」
「全く会われていないと聞きましたが」
「人の自由やないですか、そんなもん。だいたいオレに彼女がおらんかったとして、何か変わります?」
「……織音さんの気持ちを、受けとめられるじゃないですか」
コーヒーの苦みが、わずかに増したような気がした。グラスを揺らしてからからと氷を鳴らし、誠実そうな視線を真正面で受け止める。
蒼大が遠慮する必要は何もない。安心してかっさらえばいいのだ。それをわかって欲しいから、樹生は少しだけ手札を表返す。
「このピアス、いつ開けたと思います?」
「え? それは、大学に入ってからでは? あ、もしかして高校で?」
「中学です」
「それは……まぁ、早いなとは思いますが」
今どき、突出して珍しいことでもないだろうにと。そう言いたげな蒼大に、もう少し鮮明な絵が描けるよう補足する。
「中学二年の夏。夜中に公園でよろしくない年上のお仲間と盛り上がりまして。ほかにもまぁ、荒れとる中学生て聞いてイメージするようなことをいくつか。成人女性にひと晩ご厄介になったこともあります。ああ、さすがに警察沙汰になるようなことはしてませんけども」
ぽかんと口を開けた蒼大が羨ましい。きっと彼の頭には、荒れた中学生像がまだ仕上がらない。上品な有名私立高にいた彼と自分の、住んできた世界の明確な違いが浮き彫りになってしまう。
樹生は片端だけ口角を持ち上げて、手品の種明かしみたいに両手を広げる。
「人間、釣り合いって大事やないですか。まぁそういうことです。オレが織音とどうこうなんてありえへん。せやから、オレのことは何も気にせんとってください」
「そ、れは……その」
「これ以上は勘弁してください。まぁまぁ惨めなもんなんで、織音には黙っとってもらえたら。お時間くださってありがとうございました」
残りのコーヒーを飲み干して、伝票を手に立ち上がる。まだ席を立てずに頭を抱えている蒼大を見て、樹生は笑みを消し、『ねこだまり』を出た。
気の重い要件を済ませたその足で、兄、俊也の元へ向かう。予約時間には余裕があるから、のんびりと住宅街を抜けていく。
朱莉の下校に付き合って一時期使っていた裏道を通ると、今日も肉屋は盛況だった。そのまま緩やかな下り坂を抜け、三原家の近くを通り、懐かしの高架下公園に出る。日曜の昼下がりとあって、小さな公園には親子連れが多い。まだ歩くのがおぼつかない幼児も、ようやくブランコに乗れるようになった園児ぐらいの子どももいる。みんな笑顔で、ときおり自分の成果を見せるために母親の手を引きに駆け寄る。
そんな公園に背を向けて、踏切を渡る。
住宅街の中にある隠れ家じみた美容室のドアを開けると、兄姉がそろって「おかえり」と言うから面食らった。
「なんで姉貴までおんの」
「たまたま予約を入れたら、樹生の前でした。以上」
「ほん」
「どして今日は織音ちゃんがいないのかな? お姉ちゃんは楽しみにしていたのですが」
「別に、いつもいつもセットで動いとるわけやないよ」
「そうなの……残念。織音ちゃぁん」
待合ソファに座って眼鏡を外し、背もたれに体重を預けて天井を仰ぐ。カットを終えた姉、
「なんぞお悩みかな? 弟よ」
「いや。なんもない」
「なんもない顔じゃないですけど? ねーねー、姉に話してくださいよぉ。久しぶりに会ったんだから」
「うざぁ……ほんま姉うざい」
「
「都美がうざ絡みするからだろ。ほら、タツの番」
「あーぃ」
先に髪を流してもらって、セット椅子に座ってカットクロスに袖を通した。俊也が背後に立って鏡越しに尋ねてくる。
「いつもどおりでいい?」
「なんでも。兄貴に任すわ」
雑なオーダーに軽く眉を上げた後、俊也が仕事を開始した。
目の前に置かれた雑誌は無視して、兄の手仕事をじっくり観察する。アレンジも沼だが、カット作業も見ていて面白い。その道に進めれば、はまったのかもしれないと思うことはある。樹生には進みようがなかったけれど。
「せや、兄貴。オレの合鍵返してもらわなあかんねん。今日持っとる?」
「アパートの? あるけど、急にどうした」
「やっぱりあの部屋出るから」
ジャキンと、妙に重い音がした。
「……今やらかしたことない?」
「……巻き返せる、うん」
「ほどほどにあかん反応やん!」
らしくない兄の失敗に笑ってしまう。深刻そうな顔の俊也は樹生の後頭部を何度かなでつけるようにしてから、サイドワゴンの上段にハサミを置いてため息をついた。
「もう少し考えろって言っただろ」
「あれから熟考を重ねた結果やねんて」
「タツ、まさかまだ織音ちゃんにあんな嘘――」
さらに言及しようとした俊也を、樹生は手振りで止める。四月にもぶつかった後だ。兄の言いたいことぐらいわかっている。
「今日は説教勘弁して。わりに落ち込んだから」
俊也がまたハサミを手にする。黙って作業を再開した兄から役目を引き継ぐように、ソファにいる都美が立ち上がった。こちらにやってきて、カットクロスの袖から出た左手を掴んでくる。
「っ! やめっ……!」
ばしん、と。強い音をたてて、樹生の手は都美を撥ねのけた。
一瞬にして噴き出した冷や汗と、せり上がった嘔吐感をぐっと飲み込んで抑える。
「いまも、織音ちゃんしか……駄目なんでしょう?」
「そんなもん、織音に背負うてもらうようなことやないし、困ってもない」
樹生自身が明かさなければ誰も気づかない。ヘアアレンジに精を出していれば、なおのこと。希少な友人ですら、この先も見抜きはしないはずだ。
「……ねぇ、いったん家に帰っておいでよ。それで、もう一回話し合おう? 夏休みも来るし、大学だって通えない距離でもないんだから」
「高砂で世話になるのは三年だけやて、初めに決めたことやったやん。そこまで蒸し返さんとって」
都美が唇を引き結ぶのが、逸らした視界の端でもよく見えた。良い弟になれなくて申し訳ないと、ただそればかりを思う。
五年をかけて、中条 蒼大はずいぶん変わったのだろう。言葉で人を傷つけるような男だったなどと、今の彼からは想像もつかない。
同じ五年を与えられて。過去の傷に自ら挑んでいく織音のとなりで、その姿を見守ることまで許されて。
それでも結局、自分は何も変われなかった。だからこうして、歩み続ける彼女に置いていかれてしまう。
「兄貴」
「……なに」
「もしオレも
直後、きつく眉根を寄せた俊也の手に、思い切り頭をなで回された。
「だぁ! 兄までうざぁ!」
「……ごめんな、タツ」
なで回す手をぴたりと止めた俊也が、その手を自身のひたいに当ててうつむいてしまう。樹生は慌てて兄の方へと振り向いた。
「え、いや! 兄貴が謝るとこちゃうし!」
「いや……そうじゃなくて。ほんと、ごめん」
弱々しい謝罪に続き、俊也が「あー」とうめきながら再び顔を上げた。
「すっごい短くなる」
「…………巻き返し、無理めな感じなん?」
兄のひきつった顔をしげしげと眺め、樹生は苦笑して鏡に向き直った。重い話は時と場所を選んだほうがいい。学びというのは得てして、失敗と後悔から生まれるものである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます