第71話 十人十色
* * *
ぼんやりとした頭でアパートに戻った。
二階に上がって外廊下を歩く。とぼとぼと進んで、自分の部屋のひとつ手前で足を止めた。
そして、インターホンをぷしっと押す。
【はい?】
「織音サマですー。いーれーてー」
【ちょい待ち】
少しして、ドアが開く。
「ほい、お待ち……」
「よー」
よっと手を挙げるなり樹生に手首を掴まれて、ぐっと玄関に引き込まれた。
ドアをばたんと閉めて、鍵はかけない。織音がこの部屋を訪ねるとき、樹生はいつもそうする。
「どないした」
「ちょっと人間のあり方について本気を出して考えた」
「……それはもう、天寿まっとうする間際までわからんやつとちゃうか」
「うん。なので、髪いじって」
「いや、接続おかしいけども。今から? どっか行くんか?」
「部屋帰るだけ」
返事を待たずに靴を脱いで、とととっと奥に進む。座卓の前にぺたんと座って卓上にあごを乗せ、溜まった疲れをふぃぃと肺から放流した。
樹生はしばらくそんな織音を見守るようにしてから、チェストを開けてアレンジに必要な物をあれこれ用意し始めた。
ノー眼鏡に部屋着でリラックス状態な彼の左耳に、織音が贈ったスクエアのピアスがある。それだけで、心のささくれがほんのりと大人しくなった。
「帰るだけやんな? コンビニとか出ぇへん?」
「出ない」
「よっしゃ。ほな触るしな」
樹生は織音のアレンジを一度ほどいて、オイルを少しだけ髪全体になじませる。昼間のアレンジでついたクセをそのまま活かすらしい。高等テクニックにもほどがある。プロか。
樹生の指先はいつもどおり少し冷たくて、その感触に織音はまぶたを閉ざした。この指だけでいいのに。どうして自分の体は感情を置いてけぼりにして、温かな別の指を受け入れてしまうつもりなのか。
「あんね、樹生」
「なんやぁ?」
「例の、元カレフレンド。中条 蒼大さん。克服できちゃいそう」
よどみなく動いていた樹生の手が、一瞬止まった。
「何秒?」
「一分半」
「また、急に成長したな。良かったやん」
「そうなんだぁ。良かったんだよ。良かった」
さらりと言われて、織音はオウム返しみたいに良かったと繰り返した。
「ええニュースやのに、なんでしおれた顔しとんの」
「なんだろ。変な感じ。ずーっとこの辺が気持ち悪い」
ちょうど胸のあたりをぽんぽんと叩いたら、樹生がブラシを座卓に置いた。
「中条 蒼大さん、やっけ? どんな人? 思ったまんま言うてみ」
「いい人ぉ。あたしがびっくりしないように背中丸くしてくれるし。触るときは樹生みたいに絶対声かけてからにしてくれる。あと樹生のプレゼント選ぶとき、すっごい前のめりで相談に乗ってくれて。それから、三十分待ちぼうけても嫌な顔しない。LINeは九時越えないようにくれる」
「できたお人やなぁ。ほんまに元カレくんの連れ?」
「あのときの合コンのあとから、あんまり関わらないようにしてるって言ってた」
「英星大やっけ。学部どこ?」
「工学部。応用化学科だってー」
「ほぉか」
そんな話をしている間に、両サイドに三つ編みが二本ずつできている。樹生は三つ編みをところどころ摘まんで崩したあと、織音の前に鏡を置いた。新しいアレンジの工程でも見せてくれるつもりなのだろう。
片側二本の三つ編みは、それぞれロープみたいに絡めあいながら頭の後ろに。下ろしたままの後ろ髪は、昼間のアレンジの名残りでふわふわとしていて。我ながら妖精のようだと、恥ずかしげもなく思った。樹生の手は、いつも織音を実力以上に飾ってくれる。
「織音、中条さんのこと嫌いやないんやなぁ」
「そうかも。でも……わからん」
「何がわからん?」
「樹生みたいな友だちにって思ったら、違うってなる」
「……彼氏には?」
樹生に訊かれたくなかった。一度きゅっと唇を噛んでから、また口を開く。
「立候補、してくれるって」
「そぉか」
「でも。あんなに合コン行ってたのに、いざ今ってなったら。あたし、彼氏がわかんない」
アレンジ途中とわかっていながら、ぐるんと振り向いた。
「たっつ! 恋とはなんだ!?」
「はぁん!?」
「たっつは中学生から一途な恋プロじゃん! ほれ、答えれ! 恋とはなんだ!」
「……なぁんで、みんなしてオレに訊くんやろなぁ」
「うん?」
「いや。あかりんちゃんにも昔訊かれたなぁて思て」
「もしや、高三のクリスマス?」
樹生は微笑を返事に替えて、織音の頭をくりっと回した。ぴん、ぴんと髪をあちこち摘まんで引き出す。
「恋とは、なぁ。十人十色ですってとこやな」
「答えになってなぁい!」
「解があったら誰も悩まん。ゆいこちゃんとあかりんちゃんで、散々見て来たやんか」
「うぅぅ……見たぁ」
「な? 織音の恋がわからんのやったら、自分でやってみるしかないて」
立ち上がった樹生はまたチェストを開けて、リボンを三本持って戻ってくる。この部屋にあるヘアアクセサリーは一年余りでずいぶん増えた。それがみんな織音ひとりに使われてきたのだから、アレンジ沼はおそろしいところだ。
リボンをひとつずつ髪に当てて、樹生は鏡に映る織音を背後から確認する。光沢のある深い青のリボンを選び、織音の髪に結んできゅっと締めた。
「こっち向いて」
言われるまま、織音はラグの上でくるっと回って樹生と向かい合う。あぐらをかいた樹生は、いつものように真剣な目で、織音の顔周りの髪を調整しに入る。
「試してみても、ええんちゃうか」
「中条さん?」
「嫌いやないんやったらって。そういう前提でな。あとは織音が決めたらええ」
優しく突き放すように言ってから、樹生は「完成」と笑う。鏡を横目に見たら、複雑な三つ編みでハーフアップになった、本当に妖精みたいな自分が映っていた。
樹生の手が、胸元に下りた織音の髪をすくう。
「ええやん……可愛らしな」
ふっと笑って手を離し、彼は片づけを始める。織音は咄嗟にその腕をぐっと掴んだ。
「樹生。ちゃんと答えて欲しい」
「なんや急に」
「十人十色だったら。樹生の恋は、どんな?」
まさか本当に、彼が恋をしているのがあの美しい講師だとして。いや、そうでなかったとしても。彼はどんな目で、どんな思いで自分の彼女を見ているのか。
織音の吹っ掛ける恋バナに、樹生が乗ってくれたことなんかほとんどない。いまも一瞬、彼は目を逸らそうとした。
けれど、織音が掴んだ手に力を込めたら、樹生は手にしたアレンジグッズを座卓に戻した。見上げる織音に横顔だけを見せて目を伏せる。
「高校の頃、言ぅたっけな。出会えただけでって」
「聞いた」
「いつも笑って、元気で、泣かんとおってくれたら。それだけで、オレはええと思う」
「……
「織音が訊くからやろ」
「そーでした」
樹生の腕を離して、織音は立ち上がる。鞄を持って帰ろうとしたら「ちょい待ち」と止められた。
「そこ立って」
「どこ?」
「壁んとこ」
織音は樹生に言われるまま、これといって何もない壁を背景に立つ。樹生はスマホを構えて、にかっと笑った。
「はい、織音ちゃん
「えぇ!? 急なリクエストは追加料金を頂きませんとぉ」
「そのリボン差し上げますんで。ちょい笑ぉてください」
「んじゃあ樹生が面白いことしてー」
「え、待って。関西人がみんな即興でボケれるとか思わんといて」
「ひひっ」
「あ、ええやん」
カシャンとカメラのシャッター音がする。
「なんで撮ってんの?」
「めっちゃ上手いこと出来た記念」
「作品扱いさーれたー」
呆れて笑い、織音は玄関へ向かう。靴を履いてそれじゃあとドアを開けようとしたら、またもや樹生に止められた。
「今まさに彼氏作るか悩んでるとこ、ほんまに申し訳ないんやけど。二十九日。織音の誕生日だけは予定空けとって」
「もしかして、ホールケーキ返し来る!?」
「今回はひと晩で食べ尽くしたる」
「贅沢食いだぁ! おっけいおっけい!」
壁に寄り掛かり腕を組んで、樹生はくっくと含んだような笑い声を聞かせてくる。
今度こそドアを開けて、織音はほんの三秒先の自室に入り、カタンッと鍵をかけた。
そのままドアを背に滑り落ちて、玄関のたたきにしゃがみ込んだ。
馬鹿なことをした。
恋にするなと言って欲しくて、いくつも問いを重ねた。これは特別なものにはならないと断じて欲しくて、樹生にすがってしまった。
――いつも笑って、元気で、泣かんとおってくれたら。
そんな献身のようなものが樹生の恋だと突きつけられた。織音に向けるものとは違うのだと、はっきりと線を引かれた。
伏せたまぶたの裏に彼が描くのは、織音じゃない。
「つらくない」
恋にしたら終わってしまう。織音が樹生を恋にした瞬間、ヘアアレンジを教わる時間も、一緒にご飯を食べる時間も、みんな幻みたいに溶けて消える。
とうの昔に蓋をして釘まで打ち付けたものを、何も知らない蒼大に掘り起こされて腹が立った。たかだか一分半を越えたぐらいで、わかった気になって心を測られたのが癪に障る。
「友だちの何が悪いの。ほっとけ」
終わってしまう恋より、どこまでも変わりない友情のほうがいい。この一線を越えない限り、ずっと樹生のとなりにいられる。
だから、いちばんの友だちでいい。
そうやって。これまでも、これからも。自分自身を騙しているのが最善なのだ。
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