第70話 挑戦者、踏み込む
* * *
七月最初の金曜日。四限が終わってから例の美魔女講師によるセミナーを受け、織音はぐったりと講義テーブルに突っ伏した。
「就活って、こんっ……なに気ぃ使ってやるの?」
彩葉と美桜がうんうんとうなずいて、げんなりして背もたれによりかかる。
「前髪の流し具合すら理想型があろうとはね」
「いやー、永遠に学生してたい。あと二年でとことんカラー楽しも」
美桜はピンクバイオレットにハイライトを入れたこだわりの髪をなでて顔をしかめた。
「アパレル系とかなら自由度高いとこない? 美桜ならおしゃれだしいけそう」
「聞いて、織音。アパレル行って新商品出るたびに買わなきゃで、入る金より出る金が多くて辞めた先輩がいてね」
「ひぇっ!」
美桜の脅しにぶるるっと身を震わせる。社会の厳しさをぎゅっと濃縮したような話だ。
そこに、大講義室のドアがこんこんと叩かれる音が入ってきた。
三人が顔を向けると、先程まで教壇で就活の教えを説いていた講師、
「ごめんなさいね。落とし物を探させてもらっていいかしら」
「は、はい! もちろんです!」
だらしなく突っ伏していた身をシャキンと起こして、織音はこくこくとうなずいた。
美魔女は歩く姿も美しければしゃがむ姿も麗しく、教卓付近をうろうろとして困ったように息をついた。
織音は立ち上がり、教卓へ近づく。彩葉と美桜も速足で後を追ってきた。
「お手伝いしましょうか?」
「あら、ありがとう。ボールペンなのだけれど、印鑑がついてしまっているものだから回収しておきたくて」
三人でうなずいて、姿勢を低く、あちこち探し回る。
探すこと五分。講義室と隣接する控室の扉の前で、織音は「あっ」と声をあげた。床まで届く目隠し用カーテンの裏に、ボールペンが落ちている。
けれど拾って見れば、側面に刻印されたイニシャルがハズレと教えてくれた。
「織音、あった?」
彩葉の声に首を横に振る。
「違ったぁ。おかじまさんだった。あとで学生課に届けとくよ」
「あら! それだわ。ありがとう!」
美魔女が顔をほころばせて織音の元へやってくる。
「え、でもこれ」
「旧姓の頃のものなの。印鑑としては滅多に使わないのだけれど、ボールペンはこれがいちばん馴染むものだからいまだに愛用しているのよ」
「……え、じゃあ……おかじま、さあやさん?」
織音が忙しくまぶたを上下させると、美魔女講師は慎ましやかにうなずいた。印鑑のキャップを外して織音に見せてくれる。
確かに、左右反転した『岡嶋』がそこにある。
「あの……もしかして大阪にお住い、なんてことは」
「あら! 方言でも出てしまった? 講師として来ているときは気を付けているつもりなのよ?」
「い、いえ。なんかそんな気が、はい」
たどたどしく返した織音に、かつて岡嶋で今は土田となった五十オーバーの美魔女がふふっと笑う。
「格好つけているけれど、普段はお手本みたいな大阪のオバチャンなのよ」
「ええ!?」
「装いは武器だから、良ければ味方につけて。私もここまでたくさんの失敗をしてきた身です。皆さんもぜひ、恐れず挑戦してくださいね」
そんな素敵な言葉を残し、美しい講師は去っていった。
「はー……さすがに素敵が過ぎた」
「ねぇ。カリスマ講師だ」
ふたりがうっとりしている横で、織音は混乱して固まっていた。
岡嶋 紗綾である。
大阪在住の、おかじま、さーやなのである。
五十歳を超えて、結婚して土田と姓を変えている美魔女の名前だ。
「い……いやいやいや。ない、ないって」
樹生はいまいち恋バナに乗ってくれない。彼女の話を振ると、いつもは軽快な彼の口が一気に重くなる。連絡を頻繁に取っている様子も、大阪に会いに行く気配もない。
高校最後の文化祭のとき、織音は樹生に尋ねた。
恋は素敵かと。彼は、悪いものじゃないと言った一方で、そっと言葉を付け足したのだ。
――ええことばっかりでも、ないですけどね……。
暴走しだした想像に待て待てと首を振っていると、美桜が織音の顔をのぞき込んできた。
「織音、どしたの?」
「……大阪に『おかじま さーや』って、どれぐらいいると思う?」
「へぇ!? そりゃあ……いっぱいいるんじゃないの? 大阪だよ?」
「だよ、ねぇ。だよねぇ! うん!」
さすがにないだろうと、描いてしまった想像をぎゅっと丸めて頭から放り投げた。
あの樹生が。道ならぬ恋なんて。いくらなんでもあり得ない。
帰り支度をして正門を出たところで、織音はとんでもないことを思い出した。今日は蒼大と約束をしている日だったのだ。突然の『おかじま さーや』降臨で、すっぽりと頭から抜け落ちてしまった。
ふたりに手を振って、イノハラコーヒーへ走る。セミナーで遅くなるからと断ったら、蒼大はわざわざこちらまで来ると言った。そんな彼をすでに三十分以上待ちぼうけさせている。
店に入って中を見回したら、織音に気付いた蒼大がほっとした顔で手を振ってきた。
「ごめん! セミナーのあと話し込んでて」
「全然。何かトラブルとかじゃなくて良かった」
織音が席につくと、あれっと眉を跳ね上げた蒼大が自身の頭を指でつついた。
「なんだろう。ほこりか、紙くず?」
「あ。探しものしてたから付いたのかも」
織音が頭をぺたぺたと触ると、じれったくなったのか蒼大が手を伸ばす。その手は織音の顔の前で一度きゅっと拳を作り、ゆっくり開いた。
「取るだけ。いい?」
「うん、どうぞ。今日の一回兼ねて」
「それは後であらためてカウントするよ。ちょっと頭下げてもらえる?」
言われるまま、織音は頭を下げた。蒼大の指が織音の髪をつつく。樹生と違って、その指先はあまりひんやりとしない。
「あれ。待って。うわわ、入るな入るな。えー、俺、意外と指先不器用かも。あー……せっかくの可愛いアレンジが」
ぶつぶつと焦りをこぼしながら、蒼大の指がつんつんと髪をいじる。彼があまりに焦るからだんだん可笑しくなってきて、織音はふっと吐息だけ吹き出した。
このワタワタした感じは誰かに似ている。少し考えたら、友人――結衣の顔が浮かんだ。
「っあ! 取れ、たぁ……良かった。いや、良くない。ちょっとぐしゃってなってる。ごめん」
崩した部分が気になるのか、蒼大が地面でもならすように指でなでる。
「もういい?」
織音が問いかけると「あっ!」と声を張って蒼大は手を離した。悪意がないと示すように、降参のポーズで両手を挙げる。
「……あれ。大丈夫、そう?」
言われて初めて、織音も気付いた。七月になってさすがに半袖にした腕は、嫌悪のサインをひとつも出していない。
「ほんとだ。全然……」
すると、蒼大はテーブルに両肘をついて、口元をぽふっと両手で覆った。はぁ、という大きな安堵の息が聞こえる。
「良かった。少しは効果出てるんだ」
「みたい、だね」
「これで何の進展もなかったら、三原さんをただただ不快にしてるだけだから。うわぁ良かった、ほんとに」
「あり……がとう」
「や。気にしないで欲しい。俺がやりたくてやってるんだし、これで印象良くしようなんて……ゼロでは、ないけど。でもそれより三原さんが人の手に怯えずにいられるようになるのが、俺はいちばん嬉しい」
頬のあたりをほんのり上気させて、そんなことを言われる。
「いちばんって……そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃなく。三原さんがこの先ずっと高砂さんだけを特別にしているのは、つらいだろうって思ったから」
そう言ってから、思い出したようにメニュー表を差し出してくる。けれど織音は、受け取ることなく蒼大を見つめた。
「……誰が、つらい?」
「え? それはもちろん、三原さんが」
「なんであたしがつらいの?」
織音の毎日は、とてつもなく充実している。樹生のとなりで日々を過ごし、ヘアアレンジを教わってお礼にご飯を作る。ときには一緒にキッチンに立って、スーパーへの買い出しも一緒に行って。織音のいちばん好きなカフェオレは樹生が知っているし、樹生のいちばん好きなココアを織音は知っている。
樹生の好きな梅じゃこご飯は、いつだって織音が作る。
「だって三原さん。彼のこと、好きだろ?」
「好きだよ。いちばんの友だち」
「いや……そうじゃなく」
「じゃなかったら、何? え、ごめん。ほんとに意味がわからない。樹生より仲良い友だちなんて……あぁ、地元に帰ったら朱莉と結衣がいるけど」
「じゃなくて。男性として、恋愛として」
「……違うけど?」
一瞬呆気に取られてから、織音はゆるゆると首を横に振った。
「そういうのじゃない。だって恋愛だったら、もうとっくに終わってないと。樹生には、それはそれは大好きな彼女がいるんだから。いま、となり同士で楽しくやれてるのは、あたしと樹生が友だちだからじゃん」
「だけど。三原さんの本音は、友だちの域を超えてる。違う?」
「あたし、友だちほとんどいないから。域とか言われてもわかんない」
心がざらざらと砂を吐く。どうしてこんな話になったのだろうと、苛立ちまで湧いてくる。
「ごめん。今日の一回、今すぐ終わらせていい? 帰りたい」
「……わかった」
向かいにいた蒼大は立ち上がり、織音のとなりに座る。周りの目に配慮してか、自分の体を盾にするようにして。スマホのストップウォッチを動かすと同時に、そっと織音の髪に触れてくる。
カウントが積み上がる。
十秒、二十秒、三十秒と。
半袖になった腕では何も隠せない。体が蒼大の手を拒否していないのだと明らかにしてしまう。
まだ一ヶ月も経っていないのに。結衣に似ているなんて思ってしまったからだ。
五十秒を越える。一分を越える。
このままでは蒼大が樹生に並ぶ日が来る。
織音の特別が、樹生だけではなくなる。
「……ごめん。今日はここまでにしたい」
織音がつぶやくと、蒼大は手を離してスマホのカウントを止めた。一分三十二秒。長時間と呼ぶに足る記録だ。
「俺のほうが、ごめん。急に変な話したから」
「だいじょうぶ。うん。全然。大した話じゃないのに、あたしが熱くなりすぎた」
織音は会釈すらせずに店を出て、逃げるように駅へ向かった。
ほどなくして、後ろから蒼大が追いかけてくる。お互い無言で改札を通り、背中合わせでホームに立った。電車の到着を知らせる音楽が流れたところで、蒼大の手が織音の指先を軽く握ってきた。
「もし、高砂さんが本当に友人なら。三原さんの彼氏の席は当面埋まる予定がないってことなら。だったら俺、その席に立候補したい」
驚いて振り向いたら、蒼大が乗る電車がホームに入ってきた。
「織音さん。少しだけ、考えてみて欲しい」
あいかわらず、織音を威圧しないように少し姿勢を悪くして縮こまって。蒼大は微笑んで手を離し、電車に乗り込んだ。
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