第74話 頼れない

 * * *



 喉の痛みと自分の咳の音で目が覚めた。体を起こしてチェストの上の時計を睨んだら、針は五時を指している。外の明るさからして夕方だろうと思い、樹生は部屋をぐるりと見回した。それからふと耳たぶに触れて、さっと血の気を引かせた。枕周りに手を這わせ、肌掛け布団の上も慎重に探る。


 ベッドを下りて床をのぞき込んでいたら、鍵が回る音がして玄関のドアが開いた。


「え!? たっつ、どうしたぁ!?」


 保存容器を大量に抱えた織音が仰天の声を上げる。キッチンの作業台に荷物を下ろして駆け寄ってきた彼女は、樹生の背中に手を添えてさすさすと上下させた。


「気持ち悪くなっちゃった?」

「ピアス。ない」

「ピアスぅ?」

「織音がくれたピアスやのに……なくしてもた」

「あぁ! 引っ掛けそうだから外しといた。ベッドのとこに置いといたよ」


 織音はヘッドボードからひょいとピアスを摘み、樹生のそばに膝をついて「ほら」と手のひらの上で転がした。取り返そうとしたら、織音の手はピアスを握って逃げた。


「まだ寝るんだから、これはあとで」


 そう言って、またサイドボードに乗っける。


「ここにあるからね」

「……ん」


 うなずいたら、ひんやりとした織音の手がひたいに当たった。


「んー、ちょっとは下がったかな?」


 離れていく手を咄嗟に掴んでしまう。そんな樹生に織音は目を丸くしてから、ふわりと微笑んだ。


「どこも行かないよ。ごはんと薬を用意するだけ」


 ひひっと笑って、彼女が樹生の手の中からするりと抜ける。かと思えば、汗で湿った髪をなでてきた。いつもより髪が短くなった分だけ、自分より小さく柔らかな手を強く地肌で感じ取ってしまう。


 樹生は頭から蒸気を吹かせた心地で、ベッドにぼすっと顔を伏せた。


「……恥ず、オレ何やっとんの」

「なんで? 熱出ると心細くなるじゃん。わかるわかる」


 キッチンに向かった織音は持ち込んだ保存容器をせっせと冷蔵庫に入れて、小さな器とスプーンを手に戻ってきた。持たされた器には、大根おろしと思しき白っぽいものが汁気もろとも入っている。


 食欲は皆無だ。けれど渡されたからにはひと口だけでもと、はむりとスプーンをくわえた。ひんやりとした水気と甘さが口に広がって、喉にすっと溶けこんでいく。


「旨い。何これ」

「はちみつ大根。食べれる分だけでいいからね」


 腫れた喉でもすんなり飲み込めて、あっという間に完食する。タイミングを見越したように織音がやってきて、器とスプーンを回収して座卓に置く。今度は水を渡されて、手のひらには三種類の薬が一錠ずつ乗せられる。


 風邪をひいたぐらいで、こんなに構ってもらえるものか。不覚にも涙腺がむずむずと疼く。


「全快まで生きれるように、冷蔵庫に作り置き突っ込んどいたし。はちみつ大根もまだあるし、すりりんごもあるから。食欲戻ったら、ちょっとずつね」


 ちょっと待て、と。樹生は薬を手のひらに乗せたまま、ローチェストの上の時計を見る。

 冷静に考えたらおかしい。織音が夕方五時に、抱えるほどの作り置きを用意してここにいる。彼女は大学で三、四限目の講義を受けているはずなのに。


「織音、授業は」

「サボった。あ、もし梅がゆ食べれそうなら出すけど、どんな感じ?」


 何食わぬ顔で、サボったと言われる。

 途端、自責と怒りに頭が沸いた。織音が自身よりこちらを優先したとわかったら、滝から落ちるみたいに気分が下がっていく。


「要らんことすんな」


 かすれ声で放ったら、咳がいくらかついてきた。ままならない我が身がもどかしく、薬をまとめて一気に飲み込み、水を空にした。


「帰れ」


 織音の肩を強く押して、ふらつきながら立ち上がる。のたり、のたりとキッチンに向かい、はっと熱い息を吐く。もう一杯水を飲んでいたら、クローゼットが開く音がした。


 織音が中を物色して、部屋着上下と、あろうことか下着にまで手を付ける。


「織音!」


 声を張るとみんな咳に化けた。ごほごほとむせて涙を滲ませていると、すぐそばに織音が来て着替え一式を差し出してくる。ご丁寧に、下着がてっぺんに乗った状態で。


「そういうことは、熱が下がってから言え」


 気遣いを勢い任せに突っぱねた樹生に、織音がにこりと笑いかけてくる。笑顔と裏腹に、声音は氷点下だ。


「何を優先するかはあたしが決める。要る、要らんはあたしのものさしで測る。要らないんなら、冷蔵庫の中身は熱下がってから返すなり捨てるなりして。そこは樹生の自由だから、文句は言わん」

「……ぁ」

「そんで、今は帰んない。熱高いうちは怖いから、ひとりにしたくない。わかる? あたしの安心のために、あたしが勝手にサボったの」


 織音が樹生の手を引っ張って洗面所に向かう。キャスター付きワゴンの上段に着替えを置いたら、フェイスタオルを出して濡らし、ぎりぎりと苛立ちを込めるように絞った。


「これ使って体拭いて。もし、拭くよりシャワーがいいならサッとにしといて。樹生の服なさすぎて着替え足んないから洗濯もよろしく」


 タオルを押し付けて、織音はこちらに背を向ける。

 ひと眠りする前も同じようなことで揉めたのを、うっすらと覚えている。タオルを手に、学習しない自分に呆れた。


 昼間の織音は頼らない樹生に怒っていた。今はどうだろうかと、彼女の背中を見つめる。

 織音は焦りやもどかしさや苦しさを、みんな怒りで発散しようとする。油断すると簡単に見誤る。

 笑顔を貼り付けて本音を隠そうとしたから。かすかに華奢な肩が震えるから。傷つけたのだと、嫌というほど実感する。


 織音の背中に、手の甲で軽いノックを二回。咳を何度か挟んでから、かすれた声をかけた。


「手伝ってくれん?」

「自分でやればぁ」

「お願い、織音。洗濯も助けて」

「……熱下がったらカフェオレ淹れてくれる?」

「なんぼでも」

「んじゃあ手伝ったげる。あたし優しいから。いっぱい感謝しろ」

「せやな。ありがとな」


 振り向く直前、彼女が指で涙をはらったのがわかる。


 織音にタオルを預けてTシャツを脱ぐ。樹生の手からそのTシャツをひょいっと取り上げるのは、もういつもの笑顔に戻った織音で。樹生はくるりと背を向けて「お願いします」とつぶやき、その場に座り込んだ。


 汗でべたついた体を嫌がりもせずに、織音の手が直接肌に触れてくる。


「……ええお母さんになるなぁ」

「へぇっ!?」

「織音の家族になるやつは幸せやろなて」

「んー。ただいま無料体験サービス中だけど。ご感想は」

「熱出して得することもあるんやなぁて思いました」


 小さく笑う織音の吐息が肩をなでた。

 背中も首も耳の裏も丁寧に拭って、離れる直前。肩甲骨のあたりに柔らかな感触がひとつ、置き土産みたいに残された。それがタオルでも彼女の指でもないと、どうしてかわかってしまった。

 たまらず強く眉間を押さえる。いまこの瞬間で何もかもを止められるなら、喉の痛みも全身の怠さも、ずっと抱えていてかまわないのに。そんなどうしようもないことを考えてしまうから、熱は厄介だ。


 もちろん、そんなことは叶わなくて。あぐらをかいた膝にタオルが落ちてきた。


「下着だけは自力で洗濯機入れといてー。あとは織音サマに任せるがよい」

「おーらぃ」

「ふらふらするなら手伝うからちゃんと呼んでー」

「へぃ」


 洗面所の引き戸が閉まる音を聞く。

 立ち上がって、洗面台のシャワーヘッドを伸ばし、雑に頭を流した。手探りでフェイスタオルをもう一枚出して、濡れた髪を拭く。


 下も全て着替え、洗濯機にタオルも合わせて放り込む。あとは洗剤を入れて回すだけという状態まで作り、織音に頼める作業を残す。


 ドライヤーを洗面台のコンセント口に挿そうとして、思い直して洗面所から出た。ゆっくりとキッチンに向かい「織音」とかすれ声で呼ぶ。樹生がドライヤーを掲げて見せたら、織音は陽だまりでも宿したみたいに顔をほころばせて、指でオーケーサインを作った。



 * * *



 樹生がすっかり回復した水曜日、織音は蒼大とイーヨンモールにいた。レストランエリアにある抹茶と日本茶がテーマのカフェで、抹茶白玉パフェを食べる。これまでの、訓練後に少しコーヒーでも飲みながら雑談をという時間より、格段にデートらしさが出ている。


 蒼大が本気で関係性を切り換えようとしているのがわかる。気まずい織音は白玉に救いを求めて、つるんと口に放り込んだ。


 こんな自分が、つい先日までは合コンで彼氏を見つけようとしていたのだ。彼氏という存在について、本気で向き合って来なかったのがうかがえるというものである。


「そういえば、もしや今月が誕生日だったりする?」

「二十九日だけど」

「そっか……って、あと二週間無いのか! 俺、聞くの遅すぎる!」


 蒼大はあたふたをスマホを叩き、日数を数え始める。彼は織音にずいぶん素を見せるようになった。あいかわらず結衣を思い起こさせる、可愛いところのある男性だ。交友を深めるだけなら、きっとうまくやっていける。


「ちなみに……二十九日のご予定は」

「友だちとケーキ食べる」

「もしや、高砂さんですか」

「うん。ホールケーキをふたりで一気する予定」

「じゃあ、翌日は?」


 三十日なら大学は夏季休暇に入る。九月中旬まで、一ヶ月半の休みだ。樹生のところの休暇のほうが一週間早く始まって一週間遅く明ける。去年は散々羨ましいと愚痴をこぼした。


「今んとこ、予定なしかな」

「じゃあ、俺もお祝いしていい?」


 白玉を喉に詰めそうになった。こふっと軽く息で押し返し、口に戻ってきた白玉をもきゅもきゅと咀嚼する。


 咀嚼する。

 まだ咀嚼する。

 微塵と化すまで噛んでいたら、ふはっと蒼大に笑われた。


「そんなに悩ませてしまうかぁ」


 粉々の白玉をこくっと飲み干し、抹茶アイスで口を整える。


「あのね。樹生はやっぱり友だちなのね」

「うん。そこは変わらないんだ?」

「変わらない。ただ、あたしの中で、彼氏より友だちのほうが高い」


 スプーンを置いて、左手をテーブルの際に、右手を頭の上に。天と地の差があるのだと、視覚的に示す。


「こう。これを百倍ぐらいして欲しい」

「なるほど。すごく高い」

「けど一般的には、こうなんでしょ?」


 織音が左右の手の高さを入れ替えたら、蒼大は同じように両手を使って二十センチほどの高低差をつけた。


「俺だと、こんな感じかもしれないな。上が彼女」

「そこに温度差があるわけ。この差がアレ。えーと……価値観?」

「価値観の違いは、まぁ、大きいか」

「でしょ。だから駄目だと思うんだよね」


 緊張で口が渇くから、アイスをどんどんスプーンで削る。食べるペースをぐんぐん上げていたら、蒼大に白玉をひとつ奪われた。


「俺のほうが先に見つけたんだけどなぁ」

「何? 白玉?」

「……なんでもない。こっちの話」


 笑って首を振ったあと、蒼大は頬杖をついて、からかうような視線を投げてきた。


「その理屈でいくとさ。織音さん、一生彼氏ができない気がしない?」

「別に困んないよ。ハムスターとか飼って名前を『カレシ』にする。はい、できた!」

「たくましい」


 快活に笑われてしまった。こちらに気を遣わせない、気持ちのいい反応だ。彼はどこまでも良い人なのだと再確認する。


 パフェを空にしたところで、織音はテーブルに手をついて深々と頭を下げた。


「ご協力ありがとう。中条さんの気持ち、嬉しかった。でも、これっきりにさせてください」


 罪悪感を叩きのめしてから顔を上げたら、満足そうな笑みに出迎えられた。


「わかりました。いっそ清々しいです。こちらこそありがとうございました……三原さん」


 屈託のない蒼大の笑顔を前に、惜しいことをしたと言われる類いの決断だろうと思える。時間をかけたらきっと、織音なりに彼のことを好きになれるはずだ。


 けれど、駄目だった。

 看病のどさくさに紛れて樹生の背中に唇を当ててしまったら、自分の中に他の選択肢はなくなった。


 きっと大学を出たら、樹生は大阪に行くなりするのだろう。彼はおとなりさんではなくなる。


 その日まで。

 友人なんてうそぶいて、樹生のことをいちばんに考える。満足いくまで、彼を大事に思っていたい。


 三原 織音は、いつか終わりの来る、このまやかしの友情を愛している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る