第75話 誕生日の過ごし方(計画性ゼロ)

 * * *



 七月二十九日。織音の誕生日。

 待ちに待った夏季休暇到来である。


 大学二年前期の単位もどうにか取得して、これから一ヶ月半、何をしようかと心が踊る。


 八月の終わりには結衣と朱莉と一緒に日本最大のテーマパークに行くことが決まっている。彩葉たちとも近場で遊ぶし、九月には母と新しい父と温泉に行くなんて話も浮上中だ。


 となれば、頑張らなければならないのは、どうあってもバイトだ。レジャーの散財から戻った自分を慰めてくれるだけの給与を確保せねば。後顧の憂いのない充実した夏のため、カレンダーにシフトを書き込んで、キュッとペンの蓋を閉めた。


 そこでインターホンが鳴った。

 ドアを開けたら、大きめの鞄と普段使いのボディバッグを持った樹生が立っていた。今日は朝から眼鏡なしモードだ。


「織音ちゃん、いーれーてー」

「えっ、こんな朝からケーキ?」

「んや。今からハタチの織音ちゃんを盛大にデコる」

「何だとぅ!?」

「めっちゃ乙女に仕上げるから、それっぽい服着て。五分やる」

「そういうことは先に言っといて!」


 織音が叫ぶと、樹生が笑って外廊下に出た。

 大慌てでクローゼットを開け、吊ってあるワンピースを順に見る。夏のおでかけにと早期セールで買った一枚をハンガーから外して袖を通し、姿見で全身を確かめる。そしてうーんと唸った。


 女子大生だから、合コンにも使うんだからと、ウエストのキュッとくびれた上品な服ばかり愛用してきた。この一枚は、結衣と朱莉と楽ではしゃげる旅にするために買ったものだ。襟付きの半袖シャツをそのままマキシ丈まで伸ばしたようなワンピース。背中にギャザーが多めに寄せてあって、全体的には、裾が広がったAラインなシルエットになる。


 ワンピースは可愛い。ただ、ナチュラルかつカジュアルで、いいところのお嬢さんぶってきたこれまでと全く傾向が違う。女性平均身長より小柄な自分が着ると幼く見える気もする。

 変に飾るより、これからは自然体の自分を磨いていこうとか。例の残念な合コンを経て、突然の意識改革をした末に選んだ。結果、色味もおとなしいブラウンベージュだ。


「……ら、らしからぬぅ」


 やっぱり他をとクローゼットを再び漁っていたら、せっかち極まりないペースでインターホンが連打される。近所迷惑だ。


 今日の樹生はいったい何なのだと、バンッとクローゼットを閉めて玄関に走る。そもそも、誘っておいて約束の時間すら告げなかったのは向こうなのだ。まだ九時半なのに顔面の色塗りが完成していただけで奇跡である。朝のうちにスーパーに行こうとしていた自分を褒めたい。


 ぶすっとふくれっ面でドアを開けると、樹生は有無を言わせず入ってきた。さっさとスニーカーを脱いで奥に向かう。大きめの鞄にはいつものヘアアレンジ道具が入っていて、彼は家主の許可も待たずにアイロンを用意し始める。


「ねー! せめてこの服でいいのか駄目なのか先に反応くれ! 着替えさせたの樹生じゃん!」

「けっこう時間ギリギリなんやて。映画行こ」

「そんなの聞いてないって! なんで昨日言っとかないかな!」

「今朝思いついたからに決まっとるやんけ」

「はぁ!?」


 座卓の上に愛用道具をセットした樹生は、ようやく振り向いて織音を見た。そして、あんぐりと口を開けた。


「……初めて見るけど」

「初めて着たから! 感想!」

「……よ、ろしいよ」

「あー! 今つっかえた! 絶対つっかえた!」

「ちゃう! 脱ぐなアホ!」


 勢いでボタンに手をかけた織音を、樹生が暴言で止める。


「ほんまに。そういうの、もっと着たらええよ。可愛らしぃわ」

「ほんとにぃ?」

「織音ちゃんの梅じゃこ飯に誓う」

「熱心な梅じゃこ教徒め。信じてやろう」


 機嫌を上向かせて座卓前にさぁっと滑り込むと、樹生が素早く織音の背後についた。


「映画、なに?」

「『すみっちょ日暮らし・路地裏ねこは迷子っちょニャン』」

「可愛いな!」

「見たかってん。すみっちょ、めっちゃ好きでな。でも野郎ひとりで行ったらあかん聖域やんか」

「聖域!?」

「ぬいぐるみ欲しいんも我慢しとんねんて。あれはオレが持ってええもんと違う」


 濃厚なすみっちょ愛を語りつつ、樹生の作業は進む。

 アイロンで髪全体を巻かれ、サイドの髪は避けてハーフアップに結ばれる。今日は鏡がないから、それ以上は何をされているのかよくわからない。


 樹生がたびたび壁の時計を見るから、本当に時間に余裕がないのだろう。


「何時から?」

「イーヨンモールシネマ、十一時」

「カツカツじゃん!」

「昼飯はポップコーンを食え」

「計画性……」

「すんません。チュロスもつけるから」

「おっと、それは許しちゃうな。チョコとシナモン両方買って交換してくれたらもっと許すなー」

「へい。心得ました」


 気を良くした織音の前に、ぽすっとプレゼント袋が置かれる。


「ハッピバースデー」

「やた! 開けていい?」

「今から使うからすぐ開けて」

「開ける前からネタばらしはどうなのさ」


 中身がヘアアクセサリーとわかってしまうじゃないか。

 袋からはしっかりしたジュエリーボックスみたいな箱が出てきた。ぱかりと蓋を開けた途端、織音は声も出せずに目を瞠った。


 淡い青の硝子細工みたいな花に、小さなパールを散りばめて。まるで細い銀を糸にして編んだレースのような、凝ったデザインのバレッタが入っている。

 さすがにパールもシルバーも本物ではないだろうが、高級感がある。けれど派手でなく、全体の雰囲気は慎ましやかで可愛らしい。

 そして、どう見ても安物じゃない。


「……た、樹生。これ、どしたの」

「どや?」

「いいの? こんなの……」

「気に入らん?」


 樹生がぐっと身を乗り出して、織音の表情を確かめに来る。ふるふると首を横に振ったら、自分の顔面に喜びが噴き上がってくるのを感じた。


「嬉しぃっ! これ今からつけてくの!? ええ、ほんとにいいのかな。こんな綺麗なの…………え、あたしこんなおめかしして……すみっちょ見んの?」

「すみっちょに会いに行くのに最善尽くすんは人類の義務やろ」

「すみっちょって、そうなの?」

「そう」


 樹生は織音の手からバレッタを取り上げて、頭の後ろでぱちんとはめてくれた。


「っぁぁ! オレ天才」

「え、何、待って! 見てくる!」


 織音はばたばたと洗面所に駆け込み、三面鏡の左右を開いてアレンジを確かめる。この間のような三つ編みハーフアップかと思えば、三つ編みではない。ノーマルな編み込みでもない。編み目が異様に細かいのだ。


「たっつ! たっつ、これは何だ!? 三つ編みじゃないな!?」

「フィッシュボーンていいますー」

「知らぬぅ!」


 左右からやってきた三つ編みならぬフィッシュボーンが頭の後ろで合流して、もらったばかりのバレッタで可愛らしく留められている。よそ行きの妖精である。もう、自分で自分を妖精と言いきってしまう。


 居室に戻るなり、スタイリストの前でぴょこぴょこ跳ねた。


「ありがとう! 樹生ちゃん天才!」

「写真撮らしてー」

「いーよー! 動画でもいいのよっ!」

「っは! ついでに撮っとくわ」


 天啓を得たとでもいうような顔の樹生が、しばらくスマホで織音を追いかける。今が写真なのかムービーなのかわからず、織音はとりあえず回ったり跳ねたりお澄まししたりと、あれこれやってみた。


「おっけ。では行く。すみっちょが呼んどる」

「そうだった! 鞄用意するから待ってて」

「四十秒で支度せぇ」

「鬼っ!」




 

 同日、十二時三十分

 イーヨンモールシネマ、館内ロビー。


 二十歳を迎えたばかりの女と、二十歳を一ヶ月過ぎた男は、タオルハンカチを握りしめてぐずぐずと鼻を鳴らしていた。


「兄ねこが迎えに来るのは反則じゃん」

「せやな。あと、姉ねこがへったくそなハンバーグ作って待ってんのな」

「でもやっぱり父ねこの『ずっと待っていたんだニャン』がいちばん、いちばん」

「やめぇや……オレここから動かれへんなるやろぉ」

「路地裏ねこ、幸せになるんだよぉ」


 親子連れが「あらあら」という目で微笑みながら、前を通り過ぎていく。織音たちは今、この感涙をどう収めてイーヨンモールを出るか、深刻な問題と向き合っている。時間ギリギリになってポップコーンもチュロスも買えなかった。ただいま空腹絶頂なのに、涙のせいでこのロビーを離れられない。


「お昼ごはん……」

「せやなぁ。夜は織音んとこで何か一緒に作ろかなーとか思てんけどな。遅なるとケーキが食えん」

「お昼しっかり食べて、夜はケーキをしっかり食べる!」

「せやな。作るんは諦めて、どっかで食お」

「うん。ごちそうはまた今度織音サマが作ったげようじゃないか」


 へへんと胸を張ったら、樹生がふいに織音の前髪を指で跳ね上げた。


「なんか付いてた?」

「……ほこり」


 言われた瞬間、織音はまたじわりと涙を滲ませた。


「野良ほこりがさぁ。いつでも帰ってこいよって言うの、あれもヤバすぎて」

「せやねん。野良ほこりの愛も深すぎんねん。あんなもん、実質もうひとりの父親やんけ」


 ぶんぶんと頭を振った樹生が、すんっと鼻をすすって立ち上がる。


「あかん、動いて切り替えよ。昼ピーク過ぎるん待ってどっか入ろや」

「あそこは? パン取り放題のとこ」

「あ、ええやん。ケーキ分は腹空けといてな」


 織音が立ち上がろうとしたら、樹生が手を差し伸べてくる。あまり彼がやらない紳士仕草で、織音はわずかに緊張してその手を取った。


 立ち上がったらパッと手を離し、樹生はポケットに手を突っ込む。織音がその手ひとつに揺さぶられることを知りもしないで、涼しい顔をして。





 昼食後もイーヨンモールをぶらぶら散策し、帰り途中で樹生が予約してくれていたケーキを引き取る。

 アパートに戻ってきたら夕方六時を過ぎていた。


 まだろうそくをつけるには明るい空を見上げながら、エントランスドアをくぐる。樹生の手にはケーキの箱があって、織音は今から楽しみでならない。織音の知らないケーキ屋だったし、引き取りの際は頑なに見せてもらえなかった。


 軽くステップを踏みながら部屋の鍵を開け、まずは洗面所に直行して手を洗う。鏡を見たらすみっちょの尊さに敗北したまぶたが赤くて、ふひっと笑ってしまった。


 ケーキを持った樹生が洗面所を通り過ぎるから、おーいと呼びかける。


「あたし顔ひどいんだけど、どうしてくれるのー」

「気にすんな。オレも大概やと思うわ」


 樹生はケーキを冷蔵庫にしまい、織音と入れ替わりで洗面所に入る。すぐさま「うぉ!」という声と爆笑がキッチンまで飛んできた。


「織音、ちょ、保冷剤とかない? さすがにオレひどい」

「あるある。タオルそっちにあるからふたつ取ってぇ」


 冷凍庫から保冷剤を取り出して、樹生が持ってきたタオルにくるんで渡す。もう一枚は濡らしてラップで包み、レンジで温める。


「何しとんの?」

「冷やす、温める、繰り返したらいいんだって。高校の時、ゆいこのアレでぎゃん泣きしたあと知った」

「何事も経験やなぁ」

「結果はこれからに活かしてなんぼっていう、ありがたいお言葉があってですね」

「誰や、そんな偉そうなこと言うたん」

「高砂 樹生センセーっていう高名なおかた」


 しらばっくれているのかと思って答えたら、樹生は「うぇっ」と喉を絞めたような声をこぼした。どうやら過去の自分の発言を完全に忘れているらしい。


「騙されたらあかんで。そいつ、自分のこと棚上げしてそれっぽく言うとるだけやしな」

「そうなの!?」

「せや。七割聞き流しとき」


 織音に多大な影響を及ぼしてきた長年の師は、ばつが悪そうに口をひん曲げた。

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