第76話 二十歳のキミへ

 七時半を過ぎて外が暗くなってきた頃、満を持して樹生はケーキの箱を出してきた。


「二十本立てる?」

「んや、立てるスペースが無いって止められた。着火棒こっちにあったよな?」

「あるある」

「ほな貸して。ほんで、ええて言うまで後ろ向いとって」

「ほ! わくわくするじゃん!」


 キッチンから着火棒を持ってきて座卓に置く。言われたとおりベランダのほうを向いて、そわそわしながらケーキの準備を待つ。


 カチカチとろうそくを灯す音がしたと思ったら、照明がぱちんと落ちた。


「ええよ」


 くるっと回れ右して、織音は息を飲んだ。

 丸いホールケーキの上面に花が咲いている。淡く着色した生クリームにアラザンを乗せた小さな花が集まって、ケーキ全体がまるで花束みたいだ。長いろうそくは二本。チョコレートのお祝いプレートには、織音の名前と、おめでとうの字と――。


「ありがとう?」

「あんまり言う機会ないやろ。お世話になっとります」

「い、いや! それはあたしのほうじゃん!」

「そうでもないんやけどな。ほい、ろうそく消してー」


 どうぞどうぞと樹生は笑うが、織音はそんな彼をじっと見つめた。


「樹生ちゃん。何か足りないと思わん?」

「……何が?」

「織音サマは美声で歌って差し上げたはずだが?」

「…………ぁー、うん。あれな。あれ」


 あからさまに目を逸らす樹生に、織音は四つん這いでぐっと近づいた。こんなに長い付き合いなのに、よくよく思い返せば彼の鼻歌ひとつ聞いたことがない。


「たっつ?」

「あの、な」

「ふむ」

「……絶妙に……歌ヘタでな?」

「バースデーソングに上手いも下手もない」


 じりじり詰め寄ると、観念した樹生が大きく咳払いして、ぺちぺちと手を叩く。


「はっ……ぴばーすでー」


 過去いちばんの照れ顔で彼が歌うものだから、途中で織音も加勢する。ほっとしたように樹生が苦笑して、定番ソングを歌い切った後に拍手をくれた。


「一回で消したら何か叶う。一回で」

「いけるで、二本や。めっちゃ間詰めといたし」


 気合を入れてふっと息を吹いたら、一本も消えなかった。


「織音ぉ!?」

「んぁぁ! あたしこれ苦手なんだもん!」


 二度目のトライは一本しか消えず、間髪入れずに樹生のヘルプで二本目が消えた。


 真っ暗になった部屋で、お互い吹き出した。


「今のはどうなの!」

「二十歳記念やから多少オマケきくやろぉ」


 くっくっと笑いながら、樹生が照明をつける。明るいところで見ても、やっぱりケーキは華やかで可愛らしい。


 織音は樹生を手招いて、ケーキと彼を一緒に写真に収めた。


「えー、オレ顔面コンディション最悪やのに」

「大丈夫よー。オトコマエたっつーに加工しといてやる」

「そこは目ぇ腫れててもイケメンですよー言ぅてください」


 ケーキは真ん中で切り分けて、あえて皿を出さずにそのままフォークで攻めていく。


「土台、ハート型もあったんやけどな。分けるときの図考えたら微妙でな」

「まっぷたつは……悲しい、うん」

「やろ。あれは切れんなぁて思た」


 ケーキ半ばぐらいで口直しが欲しくなり、電気ケトルで湯を沸かす。何かのお試しでもらったちょっといい紅茶を淹れて座卓に戻ったら、樹生は持ち分の三分の二以上を攻略していた。


「お腹足りる?」

「コンビニ出るか迷っとる」

「冷凍ご飯で梅じゃこする?」

「ええの!?」


 きらきらと瞳を輝かせる。梅じゃこご飯を世界一喜ぶ男はおそらく彼だ。


 ケーキをじっくり最後まで堪能したあと、織音は冷凍庫から冷やご飯玉をひとつ出した。


「これぐらい?」

「じゅうぶん!」


 ちりめんじゃこと梅干しを冷蔵庫から出して、ミニフライパンをコンロに乗せる。

 樹生がいそいそとキッチンに入ってきて手を洗う。それから、織音が出しておいた梅干しを刻み始めた。


 織音はごま油でちりめんじゃこを炒め、みりんと醤油を回しかける。カリカリに仕上がるよう、念入りに水分を飛ばして火を止める。


 温めたご飯に、刻んだ梅干しとカリカリじゃこ、かつお節、それから白だしをほんの少し混ぜて、最後に胡麻をぱららと散らしたら完成。何の秘伝もない、ごくごく普通の梅じゃこご飯である。


「握る?」

「そのまんまで。皿も要らん。すぐ食いたいっ」

「ひひっ。どーぞ」


 ボウルと箸を持って座卓に戻った樹生が、うやうやしく手を合わせる。織音はティーバックの緑茶を湯呑みに淹れて座卓に届けた。梅じゃこご飯に夢中の樹生が、幸せ満面で会釈してくる。


「そんな好きなのに、梅じゃこのレシピだけは聞かないねぇ」

「これに関しては、作ってもらうのがええねん」

「何そのこだわり」


 レシピというほどたいそうなものでもなく、樹生なら見よう見まねで会得できそうなのに。彼は唯一、梅じゃこご飯だけはマスターしようとしない。


 樹生は最後のひと粒まで惜しむように食べて、ほふぅと息をつく。しみじみと「ごちそうさま」を言い、手を合わせて頭まで下げた。


「美味しかった?」

「めっ……ちゃ旨かった」


 はぁーと天井を見上げ、そのまま樹生はラグに大の字になった。


「おもろかった、今日」

「人の誕生日をとことん堪能してるじゃん」

「せやなぁ。去年もこれぐらい全力尽くすべきやった」

「じゃあ来年もぜひ。それから近々お酒会しようよ」


 くっくっと笑いひとつで返した樹生は、人差し指をくいくいと曲げて織音を呼びつける。なんとも無礼な呼びかけにも、二十歳の織音は大人の余裕で近づいた。寝転んだ樹生のそばに膝をつく。


「何事ですかー?」

「もうちょい、下」

「うん?」


 首をかしげて、少し身を屈める。樹生の手は織音の下ろした髪をそっと手のひらに乗せた。


「ほんっまに。よぉ出来た、オレ」

「自画自賛タイム!?」

「二十歳のキミへ、とかプレートつけて飾りたいわ」


 何が起きるのかと身構えた心臓に謝ってほしい。ぺちんと樹生のひたいを叩いて、座卓の上を片付け始める。身を起こして手伝おうとする樹生を手ぶりで制し、織音はキッチンへ移動した。


「そういや、最近中条さんとはどない?」

「試験で忙しかったから会ってなーい」

「そぉか。夏休みは会うんやろ?」

「……ちょこちょこ。結衣たちと旅行するし、バイトもぱんぱんだし忙しいから」

「旅行いつ? どこ行くん」

「八月のラスト二日。日本最大のテーマパークぅ。行きは前泊して朝いちばんの入場スタンバイ!」

「ええやーん。オレもこざと行こかな、すみっちょランド」

「え、そっち?」


 織音が片付けを終えたのを確かめて、樹生は大きめの鞄とボディバッグを手に立ち上がった。気がつけば十時近くなっている。


「よしゃ。ぼちぼち帰ります」

「あ、待って」


 織音はぱたぱたと玄関まで見送りに行く。

 スニーカーのかかとを引っ張っている樹生のつむじをつついたら「これっ」と叱られた。


「ちゃんと鍵閉めてな」

「うん……樹生。その、ね」

「ほん?」


 織音は一度バレッタに触れて、落ち着かない指で宙にくるくると二度円を描いた。

 何を言っても足りなくて、いちばん伝えたいことは絶対に口にしてはいけないから。

 最適な言葉を探して。

 探して。

 結局シンプルにこれしかなくて。


「今日、すごく嬉しかった。ありがとう」


 ひひっと笑ったら、樹生の手が織音の肩を掴んだ。そのまま、彼の胸にぐっと引き寄せられた。


「た、たっつ!?」

「親愛のハグ」

「あー! おー! そういうな! びっくりするじゃん、予告して!?」

「ほな、予告つける。オレ、誕生日にろうそくちゃんと消したやろ。願い事、一個叶うんよな?」

「叶う叶う! ちょっとオマケだけど」

「それ、今ここで叶えさしてもらうわ」


 きょとんと顔を上げた織音の前髪を、樹生の指が左側に避けた。あらわになった織音のひたいに、彼の唇がそっと触れてすぐに離れた。


「た、つき?」

「二十歳の織音が喜びに満たされますように、とか。こういう海外ドラマ感ある祝い、一回やってみたかってん」

「そぉ、かぁ……叶ってなによりだぁ」


 樹生は織音の体を離し、眉を下げたいつもの笑みを浮かべた。


「きっと、ええことあるし。織音、めっちゃ幸せんなって」

「う、ん」


 呆然とする織音を残し、ドアが閉まる。同時に織音は膝から崩れ落ちた。

 ひたいが溶けたんじゃないかと、おそるおそる指で触れた。なんとか固体を維持していた。樹生が熱を置いていった後を指先で軽くなでて、同じ指先で、震えだした自分の唇を押さえた。


「なんっ、てこと……するかな!」


 樹生の瞳はヘーゼルで、今日は眼鏡を外していたから。彼の中にいくらかでも流れる異国のノリが急に活気づいたに違いない。


 そんな無茶苦茶な納得をつけないと、ここから立ち上がれそうにない。



 * * *



 ひたいには祝福の唇を。鼓膜には、幸せにという優しい願いの声を。

 そんなおまじないをかけられた織音の翌日は、のんびり八時半の起床で始まった。


 洗面所で顔を洗い、妙な寝癖のついた前髪を手のひらで押さえた。昨日のおまじないの威力で、前髪がとことんひねくれてしまったではないか。


 この寝癖はストレートアイロンに頼るしかない。洗面台下の扉を開け、中にある三段引き出しの下段を引っ張る。

 いつもはスムーズに開く引き出しが、何かに引っかかって止まった。


「ぅん?」


 しゃがんで、開いた隙間から引き出しの中に手を突っ込む。引っかかっていたのは、見覚えのない袋だった。なんともミステリアスな展開に首をかしげて袋を開ける。中からリボンが二本と、飾り付きのヘアゴム、ヘアクリップなんかがいくつか出てきた。みんな床に並べて、しばらくそれをじっと見つめる。


 みんな、織音の知っているヘアアクセサリーだ。一年と四ヶ月の間に樹生が好き放題買いそろえていったものが、みんなまとめて織音のところにやってきた。


 玄関を出て、隣室のインターホンを押す。何度か押しても反応がなく、諦めて部屋に戻る。今度は鍵とスマホを手に外に出た。


【 おと >> バイト? 】


 隣室の玄関前で送ったLINEは、いつまで経っても既読にならない。階段を下りてエントランスのドアを出て、ずらりと並んだポストを眺める。


 そういえば昨日の樹生は、ずいぶんおかしかったなと。今さらそんなことに気づく。今日になってからでは、何ひとつ間に合わないのに。


 織音の隣室のポストは、投函口に養生テープでぴたりと蓋が施されていた。

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