第77話 はじまりにあった嘘
* * *
八月の第一金曜日。
十一時前、織音は俊也の美容室へやってきた。俊也はいつもどおりの笑顔で迎えてくれたが、ソファに樹生の姿がないだけで織音は少々緊張気味だ。
「今日も伸びた分ぐらい?」
「それがねー、俊也さん。スタイリストさんがいなくなっちゃったから扱いに困ってる」
セット椅子でカットクロスを着けた織音がくるりと振り向くと、俊也は苦笑いだ。
樹生が部屋を出たことを、家族なら知っている。彼は全て遮断して周囲に心配をかけるような性格ではないから。だから今日まで、織音は誰にも連絡しなかった。もうすぐ一週間になる。
「転居先、知りたい?」
俊也の問いに、必要ないと首を振る。
思い返せば、どれもこれも別れの挨拶だった。事前に業者の出入りだってあったはずだ。そんなことにも気づかなかった暢気な自分を呪う。
何も告げずに退去してしまった理由なんて、ひとつしかない。
樹生は何でも見抜いてしまうから。織音の想いが友情の域を越えてしまったことを、彼に知られたのだ。看病中にあんなイタズラをした自分が悪い。
俊也の手が腕に触れた。伸びた髪が今どこまで届いているかを、いつもそうやって教えてくれる。髪に触れる時間をできる限り減らそうという気遣いがありがたい。
「どうする? 少し長さ変えてみる?」
「樹生がいろいろ置いていったから、アレンジの練習はしたいんですよ」
「伸びた分プラス五センチぐらい、いってみようか?」
この辺り、と。肩下に指を当てられる。織音が了承すると、俊也は櫛を手に大きなため息をついた。
「あれー。俊也さん、お疲れ?」
「もうねぇ。弟が頑固で困ってる」
「えぇ? 弟、柔らかいじゃん」
「そう思うだろ? ところが、いちばん根っこのとこはコンクリートでさ。世間話だと思って聞いてくれる?」
「ほいほい。さらーっと右から左に流すの、ちょっと得意技なんですよ。数学の授業で鍛えた」
ははっと笑った俊也は、織音の髪をクリップで留めてハサミを出す。
「うちの末っ子ね、父親違いなんだ」
反射的に振り向いて、俊也の顔を見た。樹生に似た垂れ目ながら、虹彩はまごうことなき焦げ茶色だ。
「……ぁ、ほんと……だ。全然、違う」
「さすがに知ってた?」
「見せてくれたから」
「へぇ。織音ちゃんの前なら眼鏡外した?」
うなずいたら、顔を正面に向かされた。
「産まれたときはもっと色素薄くて、もう一目瞭然。それでも父はタツを受け入れたんだけど、夫婦関係は駄目になった。タツの親権、父は欲しがったんだけどね。まだ二歳なら母親のほうが必要だって理屈で押し切られた」
「それで、ひとりだけ関西風に」
「そう。こってりとした関西風に」
シャキンと切ったサイドの長さを、これで良いかと視線で問われる。織音は指で『もう少し』とリクエストしてみた。まとまった髪束がクロスを滑るたびに気分が晴れていく。過去にこの椅子で変身を試みた結衣と朱莉の気持ちが、ようやく織音にもわかるというものだ。
「母はどうも、タツを説得材料にして交際相手と再婚する気だったらしくて。相手に逃げられた途端、子育てより自分のキャリア形成に走ってさ。今じゃけっこう名の知れた起業家。その陰でタツはほとんど放置されてた」
織音はおずおずと手を挙げた。
「お父さんは? 何も知らなかった?」
「離婚後一年ぐらいで母が面会拒否。タツのメンタルを理由にされて深追いできなかったみたい。あいつが中三になるまで、そんな状況だなんて誰も知らなかった。家族になろうにも、いろいろ遅すぎたとは思ってる」
「……そっかぁ」
織音が引き下がると、ふっと俊也が笑った。
「そのひと言で受け入れるんだね」
「だって、今さらしかたないじゃん」
「おっしゃるとおり。だらだら後悔してたってしかたない。だから、初めて踏み込んでみた」
「踏み?」
「引っ越しなんて大きなこと、勝手に決めるなって。もう大喧嘩」
「ほう!」
「そしたら逃げられた。たぶん大阪だろうなぁ」
「はーっ!?」
またも織音が振り向いたら「危なぁっ!」と俊也が両手を挙げる。
「さすがに前向いてて。髪なくなるよ?」
「おおぅ。すいません……んじゃぁ今ごろ樹生、さーやちゃんとデート中かぁ」
「いやいや、さすがに母のところになんか行かないよ」
「……母?」
織音がしぱぱと瞬きしたら、鏡の中の俊也が動きを止めた。
「え? いま、紗綾って言ったろ?」
「うん。四月に話したじゃないですか、樹生の彼女。大阪在住のさーやちゃん。えっと……そう、おかじま! おかじま さーやっていうんだって」
途端、俊也の手からヘアコームが滑り落ち、カンッと高い音をたてて床を跳ねた。
「……いくらなんでも……下手すぎるだろ」
「えっ、なにが?」
俊也はその場にしゃがみ、セット椅子の肘掛けを掴んでだはぁと音声付きのため息を吐いた。それからぱんぱんと首裏を叩き、織音を見上げてくる。
「あのね。岡嶋 紗綾は、母です」
「……ふぃ?」
「今は確か、土田で」
「…………五十オーバーの美魔女起業家?」
「あれ、知ってる?」
「大学で、女性が社会で輝くためのメイクとヘアアレンジ教えてもらった」
「自分ひとり輝かせといて良くもまぁ」
一緒にボールペンを探した上品な講師の顔を思い出す。そして、いやいやと手を左右に振った。
「セミナーのチラシ見せたけど、たっつ何も言わなかったよ!?」
「……言ったら、織音ちゃんについた特大の嘘がバレてしまうと思ったんだろうな」
「嘘?」
俊也は落としたコームを拾って、ようやく立ち上がった。
「大阪に彼女なんていない。あいつは全部捨てたくて高砂の姓を選んだから」
「捨てる?」
「岡嶋 樹生という人間を消してくれって、僕の手を取った」
気落ちしたように俊也が言うから、織音は慌てて首を横に振った。それではまるで、樹生の十数年が空っぽだったみたいだ。そんなはずはないのに。
「樹生は、そんな寂しい人じゃないよ?」
どうして母親の名前なんかで嘘をついたのかはわからないけれど。
意地っ張りで器用でなくて、頑張り屋で。警戒心が強く、なんでも怒って発散してしまうような。笑っていてくれればいい、出会えただけで幸せだとまで言わせる彼女が、樹生にはちゃんといる。
自分の恋を語った樹生の目にはひとつも嘘なんかなかった。自慢じゃないが、そういうことはわかるのだ。
「好きなものも大事なものも、樹生はちゃんと持ってる」
指を折りながら、ひとつひとつ挙げていく。ヘアアレンジに、アクセサリー集めに。すみっちょも、苦めのココアも。それから、意外とロマンチストなところがあって、サプライズも好きそうで。
「あと、梅じゃこご飯。あれすごい。梅じゃこご飯を幸せそうに食べる選手権とかあったら世界取るから! だから樹生は大丈夫!」
樹生に似た顔で気落ちされるものだから、徐々に勢いづいてまくし立ててしまった。
はっと息を切らせた織音を、俊也が呆気に取られたように凝視してくる。熱く語ってしまった自分が恥ずかしくなってきて、織音はあわあわとカットクロスを揺らした。
「そんなに心配しなくても、きっと今ごろ彼女と笑ってるよ。元気になって帰ってきたら仲直りできるって!」
ひひっと笑ったら、鏡の中の俊也は眩しいものでも見るように目を細める。
「……タツの中学時代は到底褒められたものじゃない。だからタツは嘘をつき続けたんだろうし、僕らも織音ちゃんに頼るのは駄目だと思ってきた」
悔いるようにそう言って。けれど、長いため息のあと。覚悟を決めたような視線を、鏡越しの織音に向けてきた。
「僕も知ってる。その大事なものを見つけたのは、高砂 樹生になってからだ」
「え、さーやちゃんってこっちの人?」
「うん。初めから、やたらに波長の合う友だちだった。こういうの、縁とか相性とかって言うんだろうね」
やっと、『さーやちゃん』が形になっていく。
本当は、樹生の言葉で聞かせて欲しかった。そして、今の織音には苦い。それでも俊也が嬉しそうに語るから、織音も精一杯頬をゆるめてみせる。
「面白かったよ。違うって言いながら、日に日にその子の話しかしなくなって。放課後はよく高架下の公園で会ってた。あれ、バレてないと思ってたんだろうな」
「健全デートじゃん。こっそりしっかり青春してたんじゃんかぁ、樹生めぇ」
「冬になったらお宅にお邪魔して。そのうち、家庭教師しだしてね」
なぜか、どこかで聞いたような話になっていく。はてと首をかしげそうになったら、きゅっと両手で止められた。いまだヘアカット進行中だ。
「俊也さん。これ、誰の話?」
「さーやちゃんの話」
「だよねぇ?」
俊也が正面に回り込んで、前髪に取り掛かる。目を閉じたら、ハラハラと細かな髪が鼻頭をかすめた。
「おとなりさんになるって決まったときの顔がもうね。澄ましてても本音は全然隠せてない。あんな嬉しそうなとこ初めて見た。こっそり都美と大笑いしたっけ」
「あの……俊也さん。あたしは織音ちゃんなんだけど」
「……そうだね。下手な嘘だよ、ほんと」
織音の前髪をくしゃくしゃと揺らして切った髪をはらい、俊也はドライヤーのプラグをコンセント口に挿した。
「タツは怒るだろうけど。知ってやって欲しい。兄として僕ができるのは、これぐらいしかないから」
カチンとスイッチを入れると、あとは送風の音だけになる。
温風に煽られながら、鏡に映る自分をまじまじと観察する。今、肩下まで切った髪を、高校時代には背中半分を越えるまで放ったらかしていた。
その頃だ。訓練を始めてまだ一週間ほどしか経っていなかった。
彼女持ちの自分なら安心できるだろうと樹生が笑って、織音はそれもそうだとうなずいた。
高架下の公園で毎日話した。寒さを理由に家の玄関に場所を変えて、そのうちに、受験勉強を手伝ってくれるようになった。部屋探しに乗り遅れた織音に、不本意そのものの顔で物件情報を差し出して。それでも、引っ越しの日も近所への挨拶まわりも、家具選びだって。当たり前のように樹生がとなりにいた。
ずっと、一緒にいた。周りが首をかしげるほど近く、自分たちはそばにいた。
それでも『さーやちゃん』がいる限り、樹生にとって織音は友人で、織音もそうであろうとしてきた。
カランとドアベルが鳴り、「こんにちは」となじみのある声がふたつ響く。
結衣と朱莉が笑顔で入ってきた。俊也が織音のカットクロスを外して、セット椅子を回す。
「早めについたから迎えにきてみたよー」
「けっこう切った? いいじゃない、織音」
ふたりの顔を見たら、今ここは間違いなく現実だなと頭が追いついてきた。
「あのさ。あたし、意地っ張り?」
唐突に尋ねたら、ふたりは顔を見合わせて、うぅんと織音から目を逸らす。
「まぁ……そう、ね」
「ちょっとだけね? ほんと、ちょっとだよ?」
「警戒心強い?」
「あー……そう、ねぇ」
「ガード硬いのは大事だよ」
「そんで……不器用じゃん? え、あたしってなんでも怒るの?」
「だいたい叫んで発散するわね、織音は」
「そういう表に出せるとこ、私は良いと思うなぁ」
ぎゅっと硬く、拳を握りしめた。
「だったら、あたしじゃん。それ、みんなあたしのことでしょ? なのに、なんで樹生が出ていくの?」
結衣が目を瞠り、朱莉が何かを察したように眉を寄せる。
織音の肩に俊也がそっと手を置いた。
「臆病な弟で、ごめん」
「なん……で?」
「あまりに大切になりすぎたんだと思う」
「わからない。全然、だって!」
自分たちの間にあったものが、恋だったなら。何を躊躇うこともなかったはずなのに。
「樹生が気づかないはず、ないのに! あたしが何考えてたかぐらい、樹生はいつだって、全部、全部っ!」
胸の奥底から迫り上がるものを抑えることができない。まともな文章にする間もなく、ひたすら声に換えて吐き出し続ける。そうしなければ耐えられない。
――いつも笑って、元気で、泣かんとおってくれたら。それだけで、オレはええと思う。
樹生が自分の恋を教えてくれた夜、織音はそれを献身のようだと思った。
ようやくその意味に気づく。
高砂 樹生の恋には――彼自身の幸せがひとかけらも入っていない。
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