第79話 鬼イケメン、襲来

 * * *


 ベッドのきしむ音を遠ざけたくて、夜はいつも音楽なりラジオなりをかける。暗闇の中で肌を滑る誰かの手を思い出すから、必ず常夜灯をつけて眠る。高砂家に移ってからはこれでしのげていた。


 けれど伊澄の住まいに戻ってきたら、樹生の心は五年分巻き戻されたらしい。ひどい寝汗とともに飛び起きた。スマホで時刻を確かめると、まだ深夜一時にもたどり着いていない。夜が長すぎる。

 

 部屋を出たら、リビングの灯りが付いている。廊下からのぞいてみると、ビール片手の伊澄がスマホで通話中だった。

 こちらに気付いた伊澄は、ビールの缶を軽く揺らして通話を終えた。


「すんません。起きてしもて」

「えーよー。それより、飲むか?」

「あー、いや。酒は……」

二十歳ハタチなったやろ。試してへんの?」

「あんまり旨かった記憶がないんで」


 伊澄が立ち上がり、冷蔵庫から新たな缶ビールを出してくる。テーブルに戻ると缶を開けて、樹生の前にトンッと置いた。


「ま、お試し」


 そう言って、飲みかけの自分の缶をこちらに突き出してくる。樹生は仕方なく、軽く缶を当ててから口をつけた。

 直後、こくりと嚥下して口を離し、缶をまじまじと見つめる。


「合法の酒、旨ぁ」

「せやろ。悪酔いせん程度に飲んで寝れ。しばらく店休みやし、付きぅたる」


 すっかり日付感覚を失っていたが、早いところは明日の土日から盆休みだ。伊澄の気遣いに感謝して、またビールに口を付ける。テーブルの上で伊澄のスマホが震えて、彼は何かしら返事を打ち始めた。そんな姿を、樹生はぼんやりと眺める。


 兄の俊也より、ふたつほど上だったように記憶している。三十歳に乗るか、越えるかしているはずだ。


 五年前に樹生と俊也を繋いだのは伊澄だった。

 俊也は仕事関連の研修会で大阪に来て、会場で出会った伊澄と意気投合し居酒屋へ。そこで、伊澄が路地裏で拾った中学生の話になった。その中学生が樹生だ。


 なんでも、雨の夜中、美容院裏口すぐにある大型ゴミ箱の陰で座り込んでいたらしい。そこに到った経緯を樹生はぼんやりとしか覚えていない。直前にひと晩厄介になった女性が彼氏持ちで。その彼氏に腹部を三度殴られ、四度目は勘弁願いたいと逃げ出したあたりまではわかる。走っているうちに朦朧としてきて、意識がはっきりしたときにはもう伊澄の部屋にいた。


 樹生と俊也の顔が似ている、と。伊澄は酒の肴ぐらいのつもりで話したが、聞いた俊也は真っ青になったという。


 それから何度、俊也がここに足を運んでくれたことか。交通費総額を考えると目がくらむ。そんな兄の誘いに乗って、樹生は大阪を離れることを選んだ。岡嶋から高砂に変われば、全て帳消しになると思った。


 現実は甘くない。岡嶋 樹生だった十三年がふとした瞬間落ちてきて、行く先がまるでわからなくなる。


 伊澄がスマホを置いた音で、樹生は思考の落下から引き戻された。知らぬ間に詰めていた息を緩める。


「電話、兄貴からですよね」

「せやで。LINeも見てくれへーんて、トシ泣いとったでぇ。かわいそーに」


 さすがに兄が泣きはしないだろうが。

 確かに樹生のスマホは新たなメッセージをどんどん溜めこんでいる状態だ。兄以上に熱心な送信者が都美で、未読件数はついに七十件に達した。これを開くときのことを考えると頭が痛い。


「夏休み明ける前には帰りますて、伝えといてください」

「九月までおる気かぁ? えー、狭いの嫌やぁ。タツキ、デカなったもん。邪魔ぁ」

「いやいや。連れて帰ったん、伊澄さんやないですか」

「ほんまそれ。ついつい拾ぉてまうわ。性分やな、これは」


 カラカラと軽快に笑って、伊澄は持ち上げた缶でこちらを指した。

 

「なんか、ええピアスしとったやん。自分でぉたん?」


 指摘されて、ついからの左耳を触る。就寝時はさすがに外しているが、日中はここに無いと落ち着かないぐらいに馴染んだ。 

 

「貰いもんです」

「そぉか」


 何を納得したのか、伊澄は満足げにビールをあおる。五年前はこうやって差し向かい、根掘り葉掘り聞かれた覚えがある。今日何も聞かれないのは、俊也からおおよそが報告されているからだろう。


 それだけ、樹生には縁が増えた。毎夜家を空けても誰にも気づかれなかった五年前とは違う。十日ほど行方をくらますだけで、誰かから心配されるような身になった。


「繋がりが増えるて、怖いですね」

「身が重たくなるやろ。気持ちはわかるわ。けど、全部は断ち切ったらあかんで」

「わかっとる、つもりです」


 本音を言えば逃げたい。

 岡嶋樹生はいとわしかった。高砂樹生は息苦しい。縁は蜘蛛の巣に似ている。


 ビールを飲み干した伊澄が、椅子から腰を浮かした。身を乗り出し、樹生の髪をくしゃりとかきあげてくる。


「ほんま、大きくなりましたねー、タツキくん」

「うーわ腹立つ言いかたぁ」

「いやいやぁ! 感動しとるんやてぇ、素直に受け取りぃや」

「顔に面白おもろいわぁて書いてあるんやて!」


 深夜のしっとりした雰囲気で忘れかけていたが、彼はこういう人だった。五年前も散々おちょくってきて、けれど、こちらが本気で拒絶するライン手前で驚くほどあっさりと引いてくれる。それが心地よかった。


 何だかんだと言いながら、今度もきっと、伊澄なら適切な距離を保って樹生に時間をくれる。


 そんなことを思った。

 このとき、五年で組み上がった蜘蛛の巣のことはすっぽりと樹生の頭から抜けていた。



 * * *



 居候三日目。盆の入り。

 午後四時前。


 樹生は近場のスーパーで買い込んだ食材を手に、マンションの階段を上がる。宿泊費を頑として受け取らない家主と、滞在中の家事全般を担うことで折り合いをつけた。


 ドアを開けてキッチンへ直行し、仕入れた食材を冷蔵庫に放り込む。


 いつもならソファに寝そべって美容雑誌を読んでいる伊澄が、洗面所のほうから気怠げな低音で「おけぇーりー」と声をかけてきた。そのまま洗面所と冷蔵庫前で会話する。


「タツキ。まーたスマホ置いてったやろ」

「ミュートかけとるし邪魔はせぇへんでしょ」

「ちこちこ光るから気になるんやて。どうせ居場所知られとるんやし、トシとミヤちゃんのLINeぐらいは見たれ。反抗期やるにはデカすぎるで」

「ハタチかて分類は青年なんやから、反抗期もありやないですか」

「えー、ほな三十路は?」

「壮年です」

「壮年てなにー。反抗してええ?」

 

 そんなことを言いながら、伊澄がリビングに入ってきた。服も髪も、どう見ても外出仕様に仕上がっている。


「あれ? どっか行く予定ありました?」

「急遽お呼び出し。ええやろ、美女とおデートやで」

「マジか。ほな、カレー中止」


 ひとり飯なら、適当に。もういっそお茶漬けぐらいで済ませるかと、伊澄と入れ替わる形で洗面所に向かおうとした。


「いや、今から客来るし。カレー作って」

「ほん? 伊澄さん、出かけるんやろ?」

「俺の客やなくて、タツキの客。せやからタツキがもてなして」

「……え、まさか兄貴やないでしょうね」


 なんてことを言っていたら、インターホンが鳴った。伊澄が少々期待感を滲ませる足取りで動き出す。それからカメラモニタのスピーカーに向かって「入って」と声をかけ、エントランスのオートロックを解除する。


 客人が部屋まで上がるには少し間があるだろうに、伊澄はさらにうきうきとした足取りで玄関に向かう。サンダルを引っ掛け外に出たかと思えば、半開きのドアから「エグいレベルのイケメン!」と叫びが飛び込んできた。


 そっちかと。

 顔を見る前から訪問者の正体を察して、樹生は「あー」と声をあげた。たとえ伊澄が放っておいてくれても、蜘蛛の巣の中にいれば誰かしらに捕まるのだ。縁とは怖ろしい。反面、彼で良かったなとも思う。


 果たして、エグいレベルのイケメンは、その遺伝子を余さず発揮した笑顔で樹生のシェルターに侵入してきた。五年来の友人ながら、ここまで眩しかったかと樹生は極限まで目を細くして出迎えた。


「こざぁ……見逃してくれん?」

「結衣さんの頼みとあっては無理」

「もぉぉ、ゆいこちゃん強過ぎんか!?」

「あと、LINe無視されすぎて俺がそろそろ泣くからきた」


 希少な友人、古澤こざわ はるの言葉に、伊澄が腹を抱えて笑う。


「なんやねん! ちゃんとオトモダチおるやんけ」

「おらんとは言うてません!」

「頼る宛てがないんですぅみたいな顔して彷徨っとったくせに」

「ほっとけや!」


 がうっと言い返していたら、悠がすすっと寄ってくる。


「何、こざ。近すぎて照れるやん」

「でこ出して」

「は? こう?」


 前髪をくっと持ち上げたら、思い切りのいいデコピンが飛んできた。


「っだぁッ!」

「三原さんから。ご依頼は腹に一発だったけど、俺に心得がないからこっちで」

「……あざーす」

「あと、朱莉が見たことないぐらいキレてるんだけど。おかげで兄までご機嫌斜めなんだけど。樹生、何したの?」

「あかりんちゃんには……へぃ。そら、そうなるやろ思います。むかーし、偉そうなこと言いまして」


 わかったような顔で恋愛アドバイスなどしておいて、自分はこのザマである。

 はぁーあと後悔を手近な壁に吹きかけていたら、背中にどんと伊澄の腕が乗り、そのままぐっと体重をかけられた。まるでテーブル扱いだ。


「お、重っ……」

「なぁ鬼イケメン、ちょい。タツキにピアスくれたのって、どの子? えー……ゆい? あかり? で、みはらさん?」

「ピアス、ですか?」


 悠が顔をのぞき込んでくるから、樹生はふいっと顔を背けた。


「まぁ、どう考えても三原さんか。それはそれとして結衣さんは俺の彼女です」

「ほぉー。三原、なに?」

「三原 織音さん」


 悠の声に目を伏せる。もう二週間以上、その名前を口にしてこなかった。

 ぶひゃひゃと笑った伊澄が、さらに体重をかけて樹生を押し潰してくる。そのまま耳元でささやかれた。


「昨日、寝言で呼んどったで」


 樹生は敗北に膝を折った。その場にしゃがんで眼鏡を外し、肘あたりに顔を埋める。


「……信じられん。恥っず……」


 追い打ちをかけるように、伊澄がべしべしと背中を叩いてくる。


「ハタチかて青年やもんなぁ? 青春するわなぁー甘酸っぱァァ」

「ほっとけやぁ……」

「おう、ほっとくで。後はご友人に任すし。鬼イケ、ごゆっくり」


 伊澄が鞄を掴んでひらひらと手を振った。バタンといつもどおりの荒っぽさでドアが閉まり、樹生は脱力して友人を見上げる。


「カレー……食う?」

「食うよ。手伝う」

「ほんで、こざ」

「何?」

「わざわざ、ありがとぉな」

「……あと百回ぐらい言って。大阪駅ほんとダンジョンだった。地下迷宮すごい。複雑すぎて意味がわからない」

「すまん、あそこオレの都市計画やないねん」


 声をたてて笑った悠は、やや大きめの鞄をどすりと床に下ろした。

 どう見ても、日帰りの手荷物ではない。

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