第78話 雨の中の再会

 * * *



 世間は夏休み真っ只中だが、大阪とはいえ観光地から外れたこの辺りは平素と変わりない。


 樹生がこども心に広いと思った私設図書館は、記憶しているよりずっと規模の小さなところだった。午後三時過ぎにしては利用者が少なく閑散としている。この図書館は昔からこんな具合だったなと懐かしむ。


 少し離れた場所に蔵書が二百万冊を超える大型図書館もあるが、小学校低学年の樹生が入り浸るには不向きだった。初めからそちらに足を運んでいたら、然るべきところに通報なりされていたのかもしれない。



 カウンターに座る司書に声をかけ、菓子折りを差し出した。


「昔、ここでお世話になった者なんです。里帰りのついでにご挨拶をと思いまして」

「……あれ? もしかして、タツキくんやない?」


 中年の女性司書はパンッと手を叩き、奥の部屋に向かって「ねぇー!」と声をかける。


 奥から女性ふたりと、ほとんど白髪の男性が出てくる。その男性の顔にハッとして、樹生は頭を下げた。とうに引退しただろうと思っていた館長はいまなお現役だった。


「やぁ……これはこれは。すっかり大人になって」


 この館長が、樹生を多くの本と出会わせてくれた人だ。


「ご無沙汰してます。まだいらっしゃると思てへんかったから、びっくりしました」

「はっは! もう実務はなかなか。でも居座ってみるもんだ。タツキにもう一度会えるとはねぇ」


 館長は二十歳の樹生の頭を昔と同じになで回して、温かく笑う。目尻とひたいに寄るしわが、歳月をぐっと深く感じさせた。


「おかげさまで、オレいま、大学通えてます」

「そうか……ちゃんと三食、食べられているか?」

「もうね、むちゃくちゃええ暮らししてますよ。世界一旨い梅じゃこ飯食わしてもろてます」

「そりゃあいいなぁ!」


 はっはっと豪快に笑う館長の脳裏にはきっと、特売の菓子パンをかじる樹生の姿があるのだろう。逆に樹生は、いつか館長がくれた梅じゃこの握り飯を思い出す。


「しばらくこっちにいるのかい? 泊まるところは」

「知り合いんとこで世話になってます」

「そうか。奥でゆっくりしていったらどうだい」

「いえ。ほんまに、ちょっと寄ってみただけなんで。これで」


 しっかりとお辞儀をしてから図書館を出ようとすると、館長に呼び止められた。


「タツキ。帰るところは、ちゃんとあるな?」

「……まぁ、大丈夫です」


 苦笑交じりに会釈して、樹生は歩き出した。



 私設図書館からしばらく歩いたところにあった古めかしい長屋が姿を消して、真新しい戸建て住宅が整然と並ぶ。子どもたちの声が賑やかな小さな公園もできている。まったくなじみのない景色を少しばかり味わい、その向こうに当時と変わりなく立つ、明るいグレーのマンションを無感情に眺めた。


 毎日この道を通って図書館に行き、浴びるように本を見た。

 読んだわけじゃない。見ただけだ。一度見ればだいたいのものは記憶できる。記憶したものを繰り返し繰り返し、ひとりの夜に思い出して噛み砕く。噛み砕いて理解して、また新しく記憶して持ち帰る。


 そこにずっと楽しみを見出していられたら、あんなことにはならなかった。


 中学一年の終わりに有名大学の過去問を解いた瞬間、すべてが褪せた。こんなものかと急激に冷めた。


 そこからは転がり落ちるだけだった。



 オートロックのない古いマンションのポストには知らない苗字が掲げられ、リボンをつけた猫のホログラムシールが貼ってある。


「草の戸も住み替る代ぞ……やっけ?」


 エントランスを出て、マンションの五階を見上げる。下からではどの部屋か分からず、自分の感傷に呆れて背を向けた。


 マンションからどんどん離れて、広い公園にたどり着く。カラフルな複合遊具が新設されて、街灯が各所に増えている。


 当時、ここには街灯ひとつきりしかなく、真夜中の集会所になっていた。


 中学二年の夏休み。名も知らない大学生の手で強引にピアスの穴を開けられた。腹の目立たないところに煙草を二度押し当てられて、集会への参加を許された。


 母は夏休みという給食の不在を忘れていたか、あるいは気に留めていなかったかで。気まぐれに帰ってきて置いていかれるわずかな小遣いでは、切り詰めても腹が満たせない。光熱費を好きにできる自由はない。ガスを使ったと知られては電気を止められかねず、夏場なら生死に関わる。そうして、自炊に望みをかける道も塞がれた。


 だから、年上の女性らに乞われるまま部屋についていった。確実に夕飯にありつけるのだ。


 樹生の仕事は、声を出さず耐えることだけ。アルコールと煙草の匂いが染み付いた部屋のベッドに沈んで、そうやって落ちて、どこまでも落ちて。気がついたときにはもう自分の全身が泥々に見えて、どんなに洗っても綺麗にならなかった。



 公園を出る頃、雷が鳴り出した。樹生の足はそこそこに速いが、夏の空のせっかちさには負ける。駅へ駆け込むのは諦めて近場のコンビニに避難した。前髪からほたほたと雨粒がしたたり、ひたいに貼り付く。鬱陶しいとまではいかないから、短めにしておいて正解だった。七月の兄の失敗に感謝しつつ、濡れた髪をかきあげる。


 せっかく立ち寄ったから夕飯の確保でもと、おにぎりコーナーを物色する。残念ながら梅じゃこはこのコンビニのラインナップに存在しない。あったとしても、三原家の味には負ける。


 無難に鮭かと、棚にある最後のひとつに手を伸ばす。すると、横から鮭を奪われてしまった。


 同時に、樹生の肩に筋肉質な腕がぐっとかけられる。


「よぉ、失踪青年」


 さっと血の気が引く心地がした。顔はおにぎり方向に固定したまま、樹生は眼球だけをじりじりと右に動かす。こちらの視界にきっちり入るように、肩組み状態の男性は顔をのぞき込んできた。しっかりセットした黒髪短髪のアップバング。ダークグレーのカジュアルジャケットの上からレインコートを羽織っている。

 

「何……しとるんですか、平日ですよ」

「我が美容院も時代のニーズにお応えして、出張カットサービス始めまして。その帰り道」

「で。サボっとる、と」

「ちゃうわ。店戻るとこやったのに、なんや見覚えある顔がコンビニ入ってくし。そら、追うやろ」


 男性は鮭おにぎりを樹生に持たせ、代わりにスマホを手にして画面を見せてくる。


「捜索願、届いてるしな」


 画面には、兄、俊也からのLINeメッセージが表示されている。樹生はぐっと眉を寄せて目を閉じ、だはっとため息をついた。


「ま、諦めや。俺は雨の日にタツキを拾う星の下に生まれとんねん」

「ほんま、運命的にもほどがありますて」

「惚れたらあかんで?」

 

 愉快愉快とにんまり目を細める男性は、野上のがみ 伊澄いずみ。縁とは不可思議なもので、樹生はまたしても五年前の恩人に拾われてしまった。



 コンビニで傘を調達し、駅のコインロッカーに寄って荷物を引き上げる。連泊していた格安のゲストハウスが今日は満室で、ネットカフェでしのぐかと思っていたところだった。そろそろ金銭的に厳しくなっていたから、渡りに船ではある。

 

 大通りから一本裏手に入ると、五階建てマンションの一階に伊澄の勤める美容院がある。自転車を店の前に停めた伊澄は、樹生に鍵を渡してきた。


「とりあえず、風呂入っとけ。ちなみに俺、合鍵持ってへんから。ポストに鍵入れとくとかも無しやからな?」

「わかってますて。逃げへん……けど」


 俊也に連絡するのは待って欲しい。そう言いかけて、樹生は口をつぐんだ。十日以上も行き先がわからなければ確かに失踪だ。樹生自身、騒ぎを起こしたかったわけではない。俊也にあらかじめ連絡すべきだったと、頭ではわかっている。

 

 ただ、それでも。自分で答えを出すために時間が欲しかった。


「トシには俺から連絡入れとく」

 

 そんな樹生を見透かすように伊澄が言う。


「気ぃ済んだら自力で帰れるやろ。迎えは要らんて言うといたる」

「……すんません、世話かけます」


 伊澄が片手を上げて店に入っていくのを見届けてから、樹生は美容院の横手にあるエントランスに入った。エレベーターは無視して階段で三階へ上がる。借り物の鍵でドアを開けて、五年ぶりに伊澄の部屋に入る。


「なんも変わってへん」

 

 ひとり暮らしには贅沢なリビング。ゆったり二人掛けのソファは、拾われた日の樹生の寝床。美容雑誌が山と積まれた隅は、学校が休みの日の居場所。


 中学三年の五月から三月まで、樹生はここで暮らしていた。

 伊澄からは、絶対に戻ってくるなと言われたのに。


「帰ってきてしもたなぁ」


 壁際のチェストの上に鍵を戻す。案の定、鍵置き場も変わっていない。五年前に逆戻りした心地で、樹生は風呂場へ向かった。

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