第79話 自分の価値

 三原家直伝のカレーは、ココアとオイスターソースを隠し味に使う。伊澄の住まいにはどちらも常備されておらず、今日のカレーはどことなく物足りない味がした。


 片付けを終えてコーヒーを淹れ、ひと息つく。


「毎日、こんな感じ?」

「家政夫しとります」

「昔ここにいた頃も?」

「いや。勉強と、あとはひたすらアレンジの練習。道具も練習用のマネキンも使い放題の素晴らしい環境でな」

「じゃあ、さっきの人が師匠か」

「そう。中三の春に拾ぉてもろて、いろいろあって一年近くほぼ住みついとった。拾われんかったら、どうなっとったかなぁ」


 全国統一模試の一位という華々しさで教師陣の覚えをめでたくして、裏ではあれこれと褒められないことに手を出した。

 そういう汚さを伊澄は許さなかった。ここに住むなら名前も知らない奴らとつるむなと言われ、午後六時を門限にされた。学校以外で出かけるときは、伊澄の職場である一階の美容院に顔を出してから。そのうちにスマホを持たされて、居場所を常に伊澄から把握される状態に。ただ、本当に伊澄が監視していたのかは知らない。


『ちゃんとおまえのこと見とるからな』


 当時の伊澄の口癖だ。


 門限六時では夜が長すぎて退屈で、図書館通いを再開した。それでも時間を持て余していてたら、伊澄は樹生にヘアアレンジを学ばせ始めた。

 ここが分岐点だった。伊澄との出会いがなければ、落ちるところまで落ちていた。


「まぁ、オレはそんな感じやった」

「そういう中学時代だったから、三原さんとは付き合えないってこと?」

「なんや。こざにしては、はっきり首突っ込むやん」

「高校のとき言ったはず。恋になったら話聞くぐらいするって」

「……言われたな。懐かし」


 悠がマグカップに口をつけて、緊張した面持ちで目を伏せる。

 たっぷりと時間を置いてから、彼はようやく口を開いた。


「俺、樹生がいてくれて良かったし。こいつ俺のこと全然名前で呼ばないなとか思うぐらいには……壁作られてるのが、寂しかったりもしたし」

「はぁ? んなこと思とったん?」

「思ってた。だから、俺からノックしにきた。思いのたけ聞くまで居座るつもりで」

「アツいこと言うなや。照れるやん」


 樹生がコーヒーに逃げようとしたら、悠の手がマグに蓋をして止めた。


「過去のことで、三原さんが嫌うとか思ってる?」


 悠がまさにそうだった。中学三年当時の自分を結衣に明かせず、長らくじたばたしていたのを見てきた。

 今うなずけば、悠なら納得してくれる。励ますなりして、明日には帰ってくれる。


 中条 蒼大の前で、過去を悔いる善人の面をかぶった。自分には資格がないのだという気持ちも確かにあるから、織音への思いやりを装うのは容易たやすかった。


 同じことを悠にもすればいい。外面を貼り付けて顔を上げた。そのとおりだと笑ってごまかそうとしたら、射抜くような悠の視線とまともにぶつかった。


 うなずくだけで逃げられる。

 けれど。逃げたらもう、悠とは埋めようのない溝ができる。


 織音から逃げて、悠からも逃げたら。

 高砂 樹生になって手に入れたものが、何ひとつ残らない。


「……オレより、ちゃんとしたやつが、とか。ふさわしくないとか。そんな、お優しいもんなら良かったんやけどな」


 マグの取っ手にかけたままだった指を離した。何かを掴んでいないと頼りなくて、両手をぐっと組む。


「織音は器用やないから、時間かかるけど。普段のアレンジはもう、ほとんどオレに頼ってけぇへん。体質のことかて、いつか誰に触られても平気になるんやと思う」


 組んだ指にどこまでも力を込める。そうやって怖れを押さえ込みながら本音を吐露する。


「そうなったら。オレ、織音に要るんやろか」


 悠が目を瞠り、ぐっと眉根を寄せた。


「それだけが樹生の価値じゃないだろ? そんなの、これから先で三原さんと一緒に」

「その先が見えん。仮に付き合ったとして、結婚がどうとか、子どもがどうとか。まともに育ってへんから何ひとつイメージ湧かん。次の価値を作れる気がせん」

 

 テーブルに肘を立て、組んだ両手にひたいを押し付ける。こんなとき思い出すのは、どうしたって母だ。母が樹生という存在を厭う。おまえは何の役にも立たなかったと、怒りすら含んでくれない無感情な声が告げる。まだ小さかった自分の手が、パンッと渇いた音とともに弾かれる瞬間を。

 何度も、思い出す。


 経験は心を鈍くして、その鈍さが自分を守る。今誰かの手に撥ねつけられたとしても、少しばかり落ち込んで、またそれなりに自分はやっていける。


 撥ねつける手が、織音のものでさえなければ。


「嫌われたほうがマシやて。無価値になるよりよっぽどええ」 



 * * *



 樹生の荒れていた頃のこと。それから、中学三年になってからの暮らしぶりを聞いたところで、織音は三杯目のオレンジジュースを飲み干した。ごく普通のジュースがあまりに美味しくて、いつかの合コンのように熱があるのではと心配になったほどだ。

 大阪の夏を甘く見ていた。熱気も人の多さも異世界だ。


 そんな織音を、正面に座る野上 伊澄がビール片手に呆れ顔で見てくる。


「もうちょい動じへん? 女絡みとか聞きたなかったやろ」

「想定内でーす。盗ったり殴ったりしてなかったんだって安心したし。あ、ごめん俊也さん。前通りまーす」


 となりでふるふると肩を震わせ続けている俊也の前を横切って、壁際に立ててあるオーダー用タブレットをぱしっと掴んだ。


「だいたい、あたしには目の前の樹生が全てだし。でも『織音はオレのこと何も知らんからそんなこと言えんねん』とか絶対言うじゃん」

「まぁ、言いそやなぁ」

「わかってるなぁ織音ちゃん」

「でしょー。だから学びにきただけ。ん? だし巻きってこんなに種類ある? え、とんぺい焼きってなに?」

「なぁトシぃ。俺いま、重たい話したよなぁ?」

「だねぇ」


 あいかわらず笑いに耐えている俊也に串カツを勧めつつ、織音は追加オーダーの送信ボタンを押した。


「深刻に聞いてもわいわい聞いても、話の中身は一緒じゃん」

「そうやけど。当時を吐くほど後悔しとる本人が、なんや可哀想んなってきた」

「そんなに? 今でも?」


 すると、俊也が苦笑した。激しい笑いの波は乗り越えたようだ。


「タツ、いつもウェットティッシュ持ち歩いてるだろ。あれ、お守りみたいなものなんだよ」


 懐かしい光景を思い出す。髪に触ってみて欲しいと最初にねだったとき、樹生はウェットティッシュで自分の手を丁寧に拭いた。公園で訓練している間は、触れる前に必ず手を洗ってもいた。そんな気遣いに毎回くすぐったくなったものだ。


「拾ぉてすぐの頃は夜中に飛び起きてな。擦りすぎて切れようが血ぃ出ようがお構いなしに、ひたすら手ぇ洗っとった。どうしても綺麗にならんのやて」

「美容師の僕らより、よっぽど手荒れがひどくてさ」

「せやせや。トシが山ほどハンドクリーム持って会いに来てなぁ」


 ふくくっと伊澄が笑うと、俊也が少しばかりむくれた。伊澄のほうが年上だとかで、ちょこちょこと俊也が子ども扱いされている。


 織音の知る樹生の手は、少しささくれはあるけれど綺麗なものだ。料理をするとどうしても水で荒れるから、織音の手もささくれ加減は大差ない。

 じっと自分の両手を見ていたら、俊也が微笑でうなずいた。


「ひとり暮らしで揺り戻しが来るんじゃないかって心配したけど。むしろ織音ちゃんのおかげで、うちにいた頃より健康そう」

「よぉ肥えたよなぁ! 骨と皮やったのに」

「最近じゃ体型気にして、都美の組んだメニューで筋トレしてるからね」


 美脚とくびれ自慢のコスプレイヤー都美の指導なら、それはそれは厳しいものだろう。おしゃれ男子の影の努力を垣間見た。よく食べるわりに贅肉の少ない体。きゅっと引き締まった脇腹やら背中には、ちゃんと秘密があったのだ。

 看病の際まともに見てしまった樹生の体を思い出して、ぷやっぷやっと頭を振る。届いたばかりのリンゴジュースを口の中で転がし、少し熱くなった顔面を内側から冷やした。


 すると伊澄が、半端に口を開けて頬杖をついた。


「トシ。これでほんまに付きぅてへんの?」

「弟が尻込みしたから、残念ながら」

「もったいな。まぁ……こんな子相手やったらそうなってまうか」


 織音はとんぺい焼きに伸ばした箸を引っ込めて、伊澄の顔をまじまじと見つめた。


「あたし、駄目なんですか?」

「ちゃうよ。お嬢さんがあかんのやない」

「相性とかの話?」


 となりの俊也にも目を向けて問う。けれど、俊也も怪訝な顔をして伊澄を見ていた。


「僕は、タツの自信の問題かと思ったんだけど」

「そうやで。あいつ、人に関わって自信を補填しよるやろ」

「補填?」


 俊也のオウム返しを、伊澄はうなずいて受け止めた。


「タツキ、めっちゃ仕事欲しがるやろ。世話焼きで、他人事にグイグイ首突っ込みよる」


 俊也が「確かに」と返す横で、織音もうなずいた。高校の頃から樹生はそうだ。皆のアドバイザーであり、織音の訓練に付き合い、訓練に目途がついてきたら今度は家庭教師を買って出た。三原家に来ては、いつも詩穂の手伝いをしていた。


「必要とされたい、相手にとって価値あるもんになりたいんやろなぁ。知らんオネーチャンの誘いにほいほい乗ったんも結局そこやろ」

「それが織音ちゃんとどう繋がるわけ?」

「お嬢さん、なんやかんや自力で解決するタイプやろ。あいつの仕事がなくなってまう。いつクビ切られるかてプレッシャーに負けたんや」


 伊澄が「アホやなぁ」とグラスの氷をからから揺らした瞬間。

 織音は行儀悪く、とんぺい焼きに箸を突き立てた。


「織音ちゃん!?」


 ぎょっとする俊也を無視して、織音はほわほわとかつお節の踊るとんぺい焼きを半眼で睨みつけた。


「……つまり。あたしの気持ちがその程度だと思われたのか」

「織音ちゃん、あくまで伊澄の推測だから」

「一年も樹生のお父さんやってた人が言うなら当たりでしょ」


 とんぺい焼きを切り分けもせず、端に大口で齧りついて、んぐんぐと咀嚼する。


「舐められた」

「まぁ、そうとも……言えるわな」

「このあたしが! 樹生に舐められた!」

「……ぉ、ぉお。腹立つとこやわなぁ」

「ってか旨い、とんぺい! 家で再現してやる!」

「キャベツと豚バラ炒めて卵で包んだらええで」

「簡単じゃんっ!」


 織音はテーブルの下に置いていた鞄を引っ張り、メモとボールペンを取り出した。ひとまずとんぺい焼きの要点を書いて、メモを一枚めくる。新しい一枚は綴りからミシン目で切り離し、テーブルに置いた。


「織音ちゃん。どうする? タツに会っていくなら」

「帰ります」

「……そっか」


 残念そうに眉を下げて目を伏せる俊也の横で、切り離したメモ用紙にボールペンを走らせる。書いたメモは二回折り畳んで、表にまたボールペンでカッカッと叩きつけるように書き込む。


「まぁ見てて。絶対落とすから」

「……誰を?」

「樹生に決まってるじゃん」


 俊也に向かってニタリと笑みを浮かべ、織音は畳んだメモを伊澄に差し出した。


「渡してください」


 伊澄は織音がテーブルに置いたメモをしげしげと眺めたあと、鋭さを孕んだ視線を向けてきた。


「楽な相手やないで」


 本当にこのメモを渡して良いのかと、伊澄はこちらの熱量を測ろうとしてくる。となりの俊也も押し黙って目を伏せるから、織音の本気を信じきってはくれないらしい。


 俊也が休みを取れるまでの一週間。ここに来る前にどれだけ頭から煙を吹かせたか知りもしないで、ずいぶん人の決意を軽んじてくれるものだ。


 涙のひとつでも見せればいいのか。樹生の元に走っていって、帰ってきてとすがりつけば美しいドラマになる。


 けれど、それは織音の理想じゃない。

 選んで欲しい。樹生自身に。

 悩んで、悩み抜いて、それでも逃げられないぐらい、この恋に一緒に落ちて欲しい。


 なんて、ひねくれているのだろう。


 意地っ張りで不器用で、何でも怒りにするような。そんな織音を相手に、出会えただけで幸せとはあまりに趣味が悪い。


「あたしも楽な女じゃないから。ちょうどいいでしょ」


 にひひと笑ったら、伊澄が口笛を吹いてメモを掴んだ。

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