第80話 挑戦状
* * *
コーヒーを空にした悠が渋面を作って軽く唸る。
「聞いたところで、俺の経験値じゃ何も相談に乗れないのはわかってたけど」
「こざの経験値もなかなかやろ」
「種別が違うし……ただ、俺でもわかることがひとつあるから、言わせてもらう」
「めっちゃ前置くやん」
樹生は眼鏡を外し、寝不足気味で軽く痛む頭を押さえた。ついでに少しだけ、左耳のピアスに触れる。なぐさめが来るか、叱咤が来るか。何が来たところで自分は変わるまいと思いながら悠の言葉を待つ。
悠はたっぷりと間を取ってから、深刻な顔で切り出した。
「俺と兄、少々おかしいらしくて」
「予想の斜め上から入るしやぁ……」
「まぁ聞いて。兄は知ってのとおり、朱莉と生涯ともにする気満々なんだけど。実は俺も、先々見据えて、みたいなとこあるんだよ」
「実はも何も、露ほども包み隠せてへんけど。ほんで、ここで惚気始まる意味がわからんけどな。それで?」
「同じ学科のやつらにチラッと話したら、今からそんなこと考えてどうすんのって爆笑された」
大学でそんな話になったら、とてつもない温度差だったことだろう。想像して笑ってしまう。散々こじらせた古澤兄弟は確かに、どちらも重量が桁外れな好意を抱えている。
「まぁ、大学段階でそこまで考えるほうが少数派かもしれんな」
「じゃあ樹生もその少数派なんだ」
惚気話に笑っていたら、突然矛先を向けられる。
「は?」
「想像しようとしたんだろ。三原さんと自分で」
「……まぁ。そう、なる。できんかったけど」
「だったら樹生の中に、先のことまで望む気持ちはあるんだ」
喉元に切っ先を突き立てられたかと思った。こくりと唾を飲み込んで、平静を装ってみる。
「いや、なんとなく想像しただけやて。だいたい気持ちがあったかて、どうなるもんでもないやろ」
「俺も兄もそうだよ。保証なんかない。気持ちしか持ってない。結局、自分が実現させるかどうかじゃない?」
「……それ……は、もっともな御高説や。けどな!」
「あーストップ。ごめん。言い負かしたいわけじゃなくて」
焦りだした途端スパッと切られ、まだ残っていたコーヒーを奪われた。
「そういう、樹生が抱えてるもの。ちゃんと三原さんに渡してから答え出して欲しい。俺が頼みたいのはそれだけ」
束の間、瞬きを繰り返した。
持ち込まれたのは、なぐさめでも、叱咤でもなく。助言でさえもなくて。
「頼み、て……縄かけて連れて帰る気で来たんとちゃうの?」
「それで解決するようなら、樹生はそもそも逃げたりしない。だから強制する気もない。頼むだけ」
「え、ほんまに? もうちょい何か無いの?」
疑ってかかると、悠は「んー」と腕を組む。
「あ、LINE見るぐらいはして欲しい。んで、俺、今日泊まるし、明日ヒマなら観光付き合って。そして結衣さんにお使い頼まれたから『六郎爺さんのチーズケーキ』っての教えて」
「……それ、ゆいこちゃんの盛大な覚え違いやと思うわ」
「違うの!?」
おかしいなぁと悠が首をひねる。樹生はスマホを手に取り、間違いなくこれだろうという名物チーズケーキを画面に表示させた。
「六郎でも爺さんでもない!?」
「誰やねんな、六郎」
呆れて樹生が言うと、頼み事ひとつのためだけに何時間もかけてここに来た友人が声を上げて笑う。
「あとはまぁ。樹生が殴られたいなら一発頑張ってみる」
「こざのお手々が可哀想やし、遠慮しとく」
その一発で動ける自分ならどんなに楽か。
あーぁと天井を見上げたあと、空のマグふたつをまとめて左手に持ってテーブルを離れた。そうでもしないとうっかり泣けてきそうで。つくづく、この友人は濃厚な青春を持ち込むのが得意だ。
マグを洗って、もう一度電気ケトルで湯を沸かす。待っている間にスマホを出して、溜まったLINEメッセージを開いてみる。
見て欲しいとねだられた悠からのメッセージには、世間話ばかりが連なっていた。
「何やこれ。玉子かけご飯の里て」
「夏休み中に行きたいとこ。ちょっとぐらい俺とも遊んで欲しいからリストアップしといた。旨いらしいよ」
「……もうちょい時間くれ」
「いい。気長に待ってる」
「あと、五年もこざって呼んどるから、パッとは変わらんわ」
「そっちも気長に待ってる」
「ありがとぉさん」
結衣と朱莉から、こちらを案じるメッセージが入っている。朱莉のほうは言葉選びにトゲがある。
都美の未読七十件は、序盤が説得。途中から織音の素晴らしさを讃える方向にシフトしているのが、いかにも姉だ。
俊也からは謝罪文が届いていた。『さーや』が存在しないことを織音に明かした旨が書かれている。悠がここに来た時点でおおよそ状況は察しているから、驚くほどでもない。
最後に。
未読一件の表示が付いた織音のアカウントが残る。彼女のアイコンをタップしようとしたところで、玄関が開いた。
「ただーいまー」
思いのほか早く、家主が帰還した。
伊澄はリビングに入ってきて、悠に「よぉ、鬼イケ」と片手で気さくな挨拶を交わす。
「美女とおデートやなかったんですか? 日付跨ぐんか思とった」
「おー。なっかなかお目にかかれんようなエエ女やったんやけどな。家遠いしーてスパッと帰ってもた。いやぁ、帰すん惜しかったわぁ」
伊澄はキッチンに入ってきて水を一杯飲んでから、コーヒーのおかわりを用意していた樹生にぐっと拳を突き出してきた。
「何?」
「手ぇ出しぃ」
「えぇ……なんか変なもんやないでしょうね」
「美女からのありがたいお恵みや。傷心気味なタツキにやる」
「はぁ、ありがとぉさんです」
タツキが手のひらを上にしてかまえると、伊澄の手からほろっと、畳んだ紙が降ってきた。
「めっちゃゴミやん!」
「アホか。よぉ見て物言え」
伊澄が空中で右手をぱたんとひっくり返すから、樹生はその動きにならって紙を畳んだままひっくり返した。
そして、こんな小さな紙ひとつに心臓を掴まれる。
メモには【ちょう戦状】と書かれている。
高校の頃から変わらない、達筆とは言いがたいが味のある筆跡。おそるおそる開いてみたら、書き手本人の怒りが全て乗ったような字が、荒々しく樹生を撃ってきた。
【LINE ちゃんと見ろバカ】
思わず飛び出そうとしたら、伊澄の腕が遮断器みたいに下りる。
「とっくに帰った。引率ついとるから心配ない」
「……そう、ですか」
キッチンカウンター越しに悠を見たら、下げる眉ひとつで詫びられた。
引率は兄だろう。悠と俊也と一緒に、彼女はすぐそこまで来ていた。そのうえで、顔を合わせることなく帰ったのだ。自業自得ながら、しくしくと心臓に刺さる。
キッチンに立ち尽くす樹生を置いて、伊澄は悠のもとへ向かう。
「鬼イケ。風呂先使う?」
「あ、ありがとうございます」
「ええし。ただ沸かす間に頭いじってもええ?」
「え……切ります?」
「セットだけ、遊ばして」
「じゃあ。まぁ、どうぞ」
新しいおもちゃに狙いを定めた伊澄の背中を見ていたら、「タツキ」と顔を向けないまま呼びかけられた。
「俺がピアスやるときに言うたこと、覚えとぉか?」
「……つなぎ、て」
左耳に以前着けていた黒い石ひとつのピアスは、俊也に連れられてここを離れるときに伊澄がくれた。
『おまえを埋めてくれるやつがどっかにおるから。それまでのつなぎで埋めとけ』
そう言って、樹生が転げ落ちるきっかけになった最初のピアス穴を、伊澄がふさいだ。今はそこに、織音がくれたピアスがある。樹生の瞳に似ているだとかで彼女が暴走して買った、友人への誕生日プレゼントとしては度を越した価格の贈り物が。
「覚えとるんやったら、ええわ。好きなだけ悩め」
そっけない口調は昔から変わらない。伊澄はダイニングチェアに座る悠の頭を嬉々としていじり始めた。ついでに時々、俊也が悠に施したカットを悪態混じりに褒める。
あれは後できっと、SNSに上げる上げないで揉めることになる。そんなふたりを横目に、樹生はソファに寝転がった。
織音のメモを掲げてじっと眺め、ふっと笑う。
「挑戦状、そない難しい字か?」
半端なひらがな混じりが、いかにも彼女らしい。何度も何度もその字をたどり、ようやく樹生は織音のLINEアカウントをタップした。
【 おと >> バイト? 】
送信日時は、織音の誕生日の翌朝。きっと、ひどく混乱させただろう。それから、丸二週間が経っている。
――今日、すごく嬉しかった。ありがとう。
あの陽だまりを、翌朝、自分が消し飛ばした。今になって強烈な自責が襲ってくる。吐き気すらしだしたタイミングで、メッセージの受信通知がぽんっと画面に表示された。
【 おと からメッセージが届いています 】
そういえば、いつの間にか【おとサマ】ではなくなっていた。大学に入ってからは壁ひとつ向こうにいて、LINEを送るよりインターホンを押すほうが早かったから。アカウント名の変化なんて、あまり気に留めずにきた。
受信したメッセージを開いて、ぽかんと口を開いたまま動けなくなる。
【 おと >> 一日三回送る 】
【 おと >> 既読はつけろ 】
【 おと >> 八月終わるまで 】
【 おと >> 無視できたら たっつの勝ち 】
いまいち要領を得ない短文の連続に、うっかり返信しそうになって慌てて手を止めた。いきなり敗北してどうする。
体を起こし、ソファの上であぐらをかいた。あごに手をやり、新たなメッセージが来るのを待つ。
【 おと >> 明日からだしルール説明だし 今日は三回制限なし 】
いきなり一日三回のルールを破ったことに気づいて、おそらく今、画面の向こうで彼女はあたふたしている。
【 おと >> それでは 】
【 おと >> たつきくんのケントーを祈る 】
「そこは変換せぇや!」
思わず送り主にツッコミを入れたら、悠と俊也がこちらを向いた。
「いや、いやいや。なんもない」
ないないと手振りをつける。樹生が困惑している間に、悠は今すぐ店内掲示用のポートレートを撮るべきレベルに仕上がっていた。
スマホに視線を戻し、内心に冷や汗をタラタラ溜め込んでいく。現時点でツッコミを入れているほどだ。自分の大阪気質で、織音からのLINEを総スルーできるだろうか。
そんな焦りを見越したように、織音から本日最後のメッセージが届く。
【 おと >> どうせあたしが勝つけどねー ま、がんばれー 】
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