第81話 つまりそれはラブレターである

 * * *



 宣言通り、一日三回、織音からの攻撃が始まった。

 なにぶん、日頃から織音の話にツッコミを入れたくなる樹生だ。向こうもそこら辺をしっかり理解していて、樹生の関心をとことんくすぐってくる。


【 おと >> 朝からバ先にクレーマーきた トマトの苗買ったらトマト生えたんですけどって言われた 】

「そら……生えるやろ。逆に何生えたら納得すんねん」

「なになに? 俺にも見して。織音ちゃん日報」


 樹生の独り言に呼び寄せられて、伊澄が肩越しにスマホをのぞく。


「いやいやいや。おめでとーございますやんけ。メーカーも店も客も誰ひとり傷つけへん、しつけの行き届いたお利口さんなトマトやないか」

「世の中、アイス食ぅたらアイスなくなったてクレームもあるらしいですからね」

「そらぁアレか、ポケット叩いたら無限にビスケット増える世界線で育ったんか。羨ましいわ」


 だいたい、日報がひとつに写真がふたつ。写真だけでは伝わりづらいと早々に気づいたらしく、画像には文面をセット可能と、一方的なルール改正がなされた。



 美味しいそうなとんぺい焼きの写真が送られてくる。


【 おと >> 物足りないからご飯も入れてみた 】

「それはもう事実上のオムライスやて」

「織音ちゃんて、これ、通常運転なん? 狙っとるわけやなく?」

「まぁ、だいたいこうです」

「おもろい生活しとってんなぁ、タツキ」


 毎日、脇腹が痛かったのは確か。一家にひとり織音がいたら、腹回りの体型維持に期待が持てる。自分がこんなに声出して笑える人間だというのは、織音のとなりで過ごすようになってから知った。


 なんてことない生活のひと幕も送られてくる。偶然見かけた猫だとか、雲が綺麗だったとか。そういう写真のどこかには、必ず織音の指が一緒に写っている。撮影者のサインを気取っているのかもしれない。


 一日三回という限りの中、織音は何も尋ねてこない。何も求めない。説得を試みる長文なんかひとつも来ないまま、あっさりと一週間が過ぎる。



 マンホールの写真に、綺麗に爪を塗った指先が一緒に写っていた。織音がマニキュアを塗るところは見たことがなかったから驚いた。


 その日の夜、せっかくのマニキュアを全て落とした手の写真が届いた。


【 おと >> おそろしくて米がげぬ 】

「わかるわぁ」


 料理最優先の織音の爪は短い。いつでも衛生検査を問題なく通過できる状態だ。指も短めで、婦人物標準サイズの手袋は、指先がぺこりと折り返せるほど余る。


 本人が子どもみたいだと少々気にしている手が、樹生のスマホの中にある。画面にいくら触れても、当然ながら温度も感触もわからない。


 今日の綺麗なネイルは、中条 蒼大と会うためだったのだろうか。くだらないことを考えながらカレンダーを見たら、残り十日になっていた。



「痛ぁッ!」


 寝そべっていたソファから転げ落ちたのは、週末の昼過ぎ。


【 おと >> どやぁ 】


 自慢げなひと言とともに、あごラインのショートヘアになった織音の写真が届いた。ぎりぎり顔が見えない角度から撮られていては、どやも何もない。ほとんど無意識に『どないした』と打ち込み、送信前に我に返って削除した。心臓をばくばくとさせ、とにもかくにもコーヒーを入れて落ち着こうとする。


 夜になって、伊澄が写真を見るなり「ははぁ」とほくそ笑む。理由はその一時間後に判明した。


【 おと >> みやびちゃんのウィッグでしたー! 騙されてやんのー! 】

「くっそ腹立つわぁぁぁ!」

「地毛とウィッグも見分けられんとはまだまだよのぅ」


 伊澄に大笑いされながら、樹生は内心ほっとしてソファで息をついた。届いた写真はやはり顔の見えないアングルで撮られていて、ハーフアップした彼女の長い髪を、樹生が贈ったバレッタが飾っている。


 撮影者は都美だろう。なぜ正面から撮らないのかと、ひと言物申したい。


「……笑っとるんやろか」


 してやったぞという顔で。ひひっという、いつもの声が聞こえてきそうだ。





 八月の最終週が始まった。

 大型図書館へ足を運んだら、入口前の庭園で、私設図書館の館長がベンチに座っているのを見つけた。


「おや! まだこっちにいたのか」

「夏休み使つこぉて、長期滞在中です」


 館長のとなりに座って、樹生も庭園を眺めてみる。庭園といっても芝生と木があるだけで、それほど興味を引く景色だろうかと気になったのだ。


「そんなに長居して、心配されないか?」

「知り合いんとこに滞在しとるて、伝えてありますから。ただ……」

「ただ?」


 館長がこちらをのぞき込んでくるから、少し照れくさくて目を逸らす。


「いや。話し相手がおらんでヒマなんか、どうでもええ写真を送ってくる知り合いがおるんです」

「へぇ。どんな?」


 樹生はスマホを取り出して、織音が送ってきた写真を表示する。なんとなくみんな写真フォルダにダウンロードしてしまうから、日々容量を圧迫されていく。


「雲がええとか、花咲いとったとか。あぁ、でもマンホールとか気にしたことなかったんやけど、改めて写真で見たらけっこう味わい深いなぁとか思いました」

「……世界一の梅じゃこ飯を作ってくれる人か」


 盛大にむせた。


「は、えっ!? なん……」

「老人の勘を舐めちゃあいけない」


 ひょっひょと笑った館長は、道端の花の写真にじっと目を落とした。花には織音の影がしっかり重なって、出来映えの良い一枚ではない。


「その人は、大切な誰かを亡くしたことがあるんだろう」

「そんなこと、わかるんですか」

「わかるとも。一昨年、妻を亡くしたから。大事な誰かといちばん共有したいものは、意外と、毎日の中のほんの小さなことだったりするもんだ」


 館長は庭園の一角をすっと指さした。


「毎年咲いていたアサガオが、今年は植えられなかったようで。そんなことを伝えようとしたときに、妻がもういないのだと突きつけられる。そういう感覚を知っているんだろうな、その人も」


 きっと今、亡くした妻の姿をその一角に重ねているのだろう。館長の横顔を見ていたら、すっとスマホを返された。


「タツキのことを想う良い手紙だ。返事は?」

「……いえ、まだ」

「送るといい。ちゃんと届くうちにね」


 歳月を積み重ねてきた手が、樹生の膝をぽんと叩いた。

 館長は立ち上がり、のんびりと庭園を見ながら去って行く。その背が小さくなるまで見送ってから、樹生は図書館へと向かい歩き出した。正面玄関の横には、五階セミナールームで開かれている講演会の看板が立っている。


 登壇者は土田 紗綾。

 最後にまともに顔を合わせたのがいつだったか、覚えてもいない。織音からの挑戦状が来なければきっと、会いに行こうと思い立つことはなく、この講演会のことも知らずに終わっていた。



 エレベーターで五階に上がると、女子大生の一群と入れ替わりになる。ちょうど講演会が終わったばかりらしい。セミナールームの後方入口から中をのぞいたら、学生らの求めに応じ、笑顔で握手を交わしている土田 紗綾が見えた。


 あれで五十代かと。抱いた感想は、そんなつまらないものだった。


 もう少し心乱される存在だと思っていた。

 何度も夢に出るほど。交際相手をでっち上げようとしたら咄嗟に名前が浮かんだほど。ふとしたときに、自分の前に幻影となって立つ人だ。

 直接目にすればさぞ感情を掻き回されるだろうと覚悟してきたのに、実際にはさざ波さえ立てない。


 思い出すのはひとつだけ。

 紗綾がヘーゼルの虹彩を苛立たしげに睨みつけた夜。その目で見るなと、枕を顔面に押し付けてきたことを。かなり幼かった頃だろう。思い浮かべる紗綾の印象がとても大きな塊のようだから。


 そんな記憶すらも、鮮やかに塗りつぶしてしまえる笑顔がある。


 ――綺っ麗だねぇ。


 何の含みも下心もない。褒めたつもりすらなかっただろう。織音が素直に口にした感想が、いつかの夜を容易く上書きするから堪らない。


 恋にするつもりなどなかった。だから早々に予防線を張った。あまりにも互いの波長が合いすぎると、すぐに気付いたから。

 子ども騙しの嘘は、間違っても織音がこちらを意識することがないように。訓練を円滑に進めるためにも都合が良い。


 この嘘は織音を守り、自分を律するはずだった。


 けれど感情はままならなくて。彼女は樹生の防壁など簡単にこじ開けて、空っぽの中身を満たした。

 そこに理屈なんか存在しない。三原 織音という人に出会ってしまった。それだけだ。



 ふと紗綾が顔を上げた。その目は樹生を捉えてから見開かれ、最後は気まずそうに逸らされた。


 外された視線にも何の感慨も湧かない。こちらを見ることはないだろうとわかった上で深々と一礼して、セミナールームを後にした。

 時間にしてたかだか三十秒。自分にはもう必要ない人だった。



 エレベーターを待つ集団に気後れして、階段を使ってのんびり下りていく。


 途中スマホが震えた。

 階段の踊り場で壁際に体を寄せて、トーク画面をタップする。


【 おと >> シニヨン、理解したった! 】


 ぐしゃっと潰れたまとめ髪の後ろ姿がアップで収められている。とてもじゃないが外を出歩ける仕上がりじゃない。そんな髪にあのバレッタが留まっている。ここまで三度ほどアレンジ写真が届いたが、使っているのはいつも樹生が贈ったバレッタだ。


 写真の背景から、撮影場所が俊也の美容室だとわかる。兄の監修のもとで挑戦したにしては出来がひどい。


「へったくそ」


 ぽそりとつぶやいた自分の頬が、どうしてもゆるむ。何度も返事を打っては、迷いに迷って消していく。


 LINEのフレンド一覧には、今も中条 蒼大の名前がある。

 彼は過去の失態から逃げずに織音の信頼を勝ち取って、触れることを許された。岡嶋 樹生と並べてみれば、どちらの手を取るのが幸せかぐらい誰にだってわかる。


 彼と直接会って自分との差を目の当たりにした。住む場所を変えるだけでは足りずに大阪まで逃げてきた。

 そこまで手を打ってしてなお、どうすれば中条 蒼大のようになれるのか、心の片隅で考え続けている。


 ――だったら樹生の中に、先のことまで望む気持ちはあるんだ。


 悠の言うとおりだ。

 公園に集う親子連れに彼女を重ねる。となりにいる自分をどうしても想像できなくて、何度も打ちのめされる。


 岡嶋 樹生を乗り越えられないなら退くべきだと、退きたくないと喚く自分の足にしがみついて。身動きが取れないまま時間が過ぎて。


 我が事ながら、心底腹が立つ。

 八月はもう終わろうとしているのに。顔の見えない彼女の写真ばかりが、フォルダに溜まっていく。

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