第36話 おとなりさんがやってきた

 * * *


 小学三年の、春休み初日。

 朱莉が二階の窓からぼんやりと家の前の通りを眺めていたら、隣家のガレージに車が入った。


 隣家は仁科家と同時期に同社が建てた、良く似た外観で配色の違う、双子みたいな家だ。築後二年半で家主が転勤となり、かれこれ半年ほど空き家になっていた。


 朝から母の友恵が食卓で話していたから、いよいよ今日新たな隣人が到着するのだとは知っていた。一家に朱莉と同い年の男の子がいるらしいということも、すでに聞いていた。


 心構えはしたつもりだったが、いざトラックを目にすると心がずんと重くなる。


 ――挨拶、しなきゃだめなんだろうなぁ。


 両親だけでこなしてもらえないかとため息をつき、あぁと小さく声を出して顔をしかめる。


 三年に上がってすぐ、学校で声をからかわれだした。この一年で、朱莉はすっかり人前で話すことが苦手になっていた。


 インターホンの音が、階下から朱莉の部屋まで届く。しばらくドアの前をうろうろとしてから、意を決して部屋を出る。ゆっくりと階段を下りると、タイミングよく友恵が玄関ドアを開けて入ってきた。


「ちょうどよかった。朱莉、おとなりさんとのご挨拶、頑張ってみる?」


 頑張れないと言いたくとも言えない。同い年で隣人となるなら、無視するわけにはいかない。



 玄関ドアを最小限押し開けて、隙間からするんと外に出る。友恵に背中を軽く押され、すでに外にいた父、義之の元に向かう。


 子どもながらに仰天した。

 我が家の門扉の前で、美の展覧会が開かれていた。


 美しいという概念を人型に捏ね上げて、そこに魂だか自我だかを植え付けたらこうなる。そんな一家が立っている。少し光っていた。小学生の朱莉にはそう見えた。曇り空の下なのに、やたらにチカチカした。なんと人は自力で発光できるのだ。そんなことを学校の理科ではまだ教わっていない。


 まず、両親がそろって美しい。朱莉の両親と同世代なのだろうが、その年齢向けのファッション誌の表紙を飾っていそうなビジュアルだ。


 母親のとなりに立っている男の子が、朱莉の同級生になるのだろう。今すぐ芸能界からスカウトが飛んできても驚かない。中性的で可愛らしい顔立ちで、早くも朱莉は気後れして一歩下がる。


「初めまして、朱莉ちゃん。おとなりに越してきた古澤です。悠は朱莉ちゃんと同い年なの」


 華やかな微笑の母親が、悠と呼んだその男の子を前に出させる。年相応に照れくさそうな悠は、ひょこっと頭を下げた。


「それから……」


 と、母親が古澤家のほうを振り向くと、玄関ドアが開いて少年が走ってくる。ふたり兄弟という情報は朱莉の元に届いていなかったので、一気に緊張が跳ね上がった。


「母さん、ほら。やっぱり箱詰めしちゃってた」

「やだぁ! もう、うっかりだわ。ありがとね、柊吾」


 引っ越しの挨拶品を荷物から発掘してきたらしい。柊吾と呼ばれた少年は、慌てる母親よりずっと落ち着いていて、父親にさっと紙袋を渡した。そして、誰にうながされるでもなく朱莉の両親に会釈して、朱莉の前で軽く腰を折って笑った。


「古澤 柊吾です。春から中学二生になります。よろしくね」


 これまた美形で、かつ爽やかで物腰も柔らかだ。柊吾は悠のとなりに回り込むと、弟の手を軽く引いた。

 

「悠もちゃんと自己紹介した?」

「……母さんがした」

「駄目だよ。自分でできるだろ」


 兄にたしなめられて、悠がふくれっ面ののちに「悠です。よろしくな!」と声を張る。


 こうなると自分の番だ。朱莉は青くなって、助けを求めるように友恵を見上げた。


「朱莉。ほら、ご挨拶だけ。ね?」


 悠も柊吾も、その両親も。朱莉の自己紹介を待っている。そう思ったら、唇が震えて息しか出せなくなる。

 義之が朱莉のとなりにしゃがんで、ふたりの兄弟と目を合わせた。


「ごめんね。悠くんも、柊吾くんも。朱莉は人と話すのが苦手なんだよ」


 駄目だったのだと、父の言葉でさらに叩き落される。時間切れだ。よろしくのひと言も言えなかった。こうやって、自分はどんどんうまくやれなくなるのだろう。友恵の服の裾をぎゅっと掴み、半歩下がってうつむいた。


 雰囲気を切り替えるように、つまらないものですがという定型なやり取りを両家の父がこなす。うちにも娘が欲しかった、息子が欲しかったという定番トークを母同士が始めた頃、朱莉は唇を引き結び踵を返して逃げ出した。


 階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込む。カーテンを閉めたまま、窓を少しだけ開ける。そうすると、表にいる両親の会話がなんとなく聞こえる。


「あの子――で。学校で――て、それで」

「そうだったんですか」


 断片的な声で、話の内容がわかる。

 からからと窓を閉めて、ベッドの隅に避難した。




 しばらくすると、隣がドタンバタンと騒がしくなった。隣家側の窓から、あの悠という男の子の声が侵入してくる。


「母さーん。俺こっちでいいんだよね?」


 最悪だ。隣家側の窓はこの先二度と開けられない。


 慌ててそちらのカーテンを閉めにいくが、すでに遅かった。さすがにとなり同士で窓の位置はずれているが、身を乗り出していた悠とばっちり目があってしまう。目線の高さからして、机にでも乗っているのだろう。


「あ……」


 ぽかんと口を開けた悠と、ぱくぱくと口を開け閉めするだけの朱莉。両者が窓辺に凍りついてしまったところで、悠の横から、ノートを何冊か抱えた柊吾まで顔を出した。


「悠、さっきから何見て……」


 と、柊吾の目が丸くなる。朱莉の顔をしばらくじっと見つめていた彼は、「母さん!」と家の中に向けて叫んだ。


「なぁに?」

「部屋、替えられない? 朱莉ちゃんの部屋が悠の真向かいになっちゃう」

「ええ!? どうしようか」


 古澤家の母は割と落ち着きがないタイプらしく、あーわーと慌てた声が聞こえる。確認のためにか、古澤家がみんな窓に集う。ファミリー向けアパレルブランドのポスターみたいなものが目の前で完成した。いちいち眩しい。


 無視して立ち去ることもできず、朱莉はカラカラと窓を開けた。何か反応しなければと、気にしないでのオーケーサインを指で作ってみる。けれど、古澤家の母は美しいあごのラインに手を添えてため息をついた。


「やっぱり替えましょ。同級生が目の前じゃ、朱莉ちゃんが緊張しちゃう」


 こっちを寝室にするか。そうなるとベッドをまた移動しないと。ならば書斎に誰か移るか。書斎では寝返りで頭を打つ。そんな家族会議が繰り広げられて、とうとう朱莉はいたたまれなくなった。


「あ、あの!」


 一声を上げた途端、四人分の視線が朱莉に集中する。かぁっと顔面が熱くなると同時に、クスクスと笑う同級生の声が聞こえる気がした。


 それでも、ひどい震え声で朱莉は続けた。


「だ、い、じょうぶです。わたし、は、はるくんが、となりで。大丈夫」


 なんとかそれだけを口にしたら、涙がこみ上げてきた。


 たったそれだけで涙ぐむなんて、よほど珍妙に見えるのだろう。古澤家一同が、呆気に取られたように朱莉を見ている。


 直後、バササッと音を立て、両家の間をノートが落下していった。落とし主である柊吾に、悠が「ぎゃぁぁ! 俺のノート!」と悲鳴を浴びせる。しかし柊吾は朱莉を凝視したまま、落としたノートには目もくれず。

 やがて、ナマケモノもかくやという鈍さで人差し指をたてた。


「朱莉ちゃん。もう一回なにか言って」

「こら、柊吾! 朱莉ちゃんが困るじゃないの」

「な、名前! 名前でいいから! もう一回だけ!」


 窓から乗り出さんばかりの勢いで、柊吾が叫んだ。朱莉の両親が異変に気づいて階段を上がってくる中、柊吾は「お願い」と両手を合わせた。


「……あか、り。にしな、あかりです」


 半泣きで朱莉が名乗ると、柊吾は息を飲み、沸いた鍋にダイブしたタコみたいに顔色を変えた。


 直後、彼は窓から落ちかけた。


「うわぁぁ柊吾! 気を確かに!」

「え、ぁ、ぁ、父さん。えぇぇ気を、うん。うん」

「兄ちゃん! 俺のノートぉぉ!」

「ノート……あー……や、父さんも母さんも……だからこの家に?」

「違うのよ! お父さんもお母さんも知らなかったの!」


 部屋に入ってきた義之が「んぐぅんんん!」と大仰に咳払いをすると、古澤一家はぴたりと動きを止めた。義之の手は朱莉の肩を抱く。


「古澤さん……うちの朱莉が、何か」


 蒼白になった古澤家の母が、赤々としたタコの柊吾を部屋に引っ張り込む。「あの、そのですね」という古澤家の父の横で、すっと悠が手を上げた。


千崎ちざき 乃愛のあって知ってますか?」

「ちざ……誰かな?」

「声優です。兄ちゃんの推しです。兄ちゃんはテレビから乃愛ちゃんの声がしたら皿落とすぐらいです。むちゃくちゃ好きです。そんで、あかりちゃんの声が、そっくりです」


 となりで古澤家の父が居たたまれないような顔で何度も頭を下げる。義之がぽかんとして朱莉を見た。朱莉もまた、いまいち理解が追いつかなくて父を見上げた。


「だから、あかりちゃんの声は、兄ちゃんの大好きな声ってことです」


 簡単に悠がまとめてくれた瞬間、朱莉も茹で上がりのタコになった。



 引っ越しトラックが帰るなり、古澤家は改めて謝罪に来た。謝るようなことではないからと義之が繰り返しても、古澤家の両親も柊吾も頭を下げっぱなしだった。初日から隣家への印象を下げきってしまったと、彼らの頭上に心の声が浮かぶようだった。


 そのとき朱莉がどうしてすんなり動けたのか、今でも不思議に思い返す。気まずくなった両家の親たちの狭間で、朱莉は自分から前に出て、柊吾の袖を掴んだ。


「声……変じゃない?」


 目をみはった柊吾は、すぐに首を振って否定した。


「ない。すごく可愛……あー、違う」


 ぶつぶつと言葉をあれこれ繰り返し、うんと彼はうなずく。


「魅力的ってわかる?」

「……聞いたこと、ある」


 目の前でしゃがんだ柊吾は、朱莉の手を握って笑う。彼の手は少し日焼けして、指が長くて美しかった。


「誰にも負けない、素敵な声ってことだよ」


 柊吾の周りに、無数の星が瞬いた。朱莉は自分の目がおかしくなったのかと、軽く目をこすった。けれどやっぱり、美の展覧会みたいな新しいおとなりさん一家の中で、柊吾はひときわ眩しく光を帯びていた。 



 古澤家の両親はともに多忙で、兄弟は平日の夜遅くまで家にふたりでいることが多い。朱莉の両親はそんな兄弟も連れて、朱莉のリハビリを兼ねて水族館や動物園に行った。兄弟を仁科家の食卓に招いたりもした。


 隣家の兄弟との触れ合いで、朱莉は少しずつ明るさを取り戻していった。


 けれど四月。

 四年生になった朱莉は、出鼻をくじかれることとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る