第35話 ジャックラッセル対策会議

 集中することおよそ一時間。


「朱莉」


 柊吾の声に、ビタンと手を止めた。時計を見ると三時半。お茶の時間を大幅に過ぎていた。


 軽く縛っていた髪を解いて、ドアを開ける。まさにノック寸前という手の形で、柊吾がそこに立っていた。


「何度か叩いてみたんだけど応答ないから、声かけちゃった」

「ごめん。過集中のタチがあるみたいで」

「昔からだよねぇ、朱莉は。少し気をつけないと体に支障が出るよ。タイマー使うのがおすすめ」

「はぁい。お茶?」

「……と、ちょっとお話」

「……うん?」


 朱莉が瞬きすると、柊吾の手が頭をくしゃっとなでた。相変わらずの妹扱いをして、彼は先に階段を下りる。朱莉もその後ろについていくと、リビングでは義之がいそいそとゲームを片付けているところだった。その背中がしょんぼりしている気がする。


 朱莉は、となりの柊吾にそっと声をかける。


「なんだっけ。アルマジロ? 倒せなかったの?」

「倒すのは仕立て屋ね。倒せたんだけどアイテムドロップしなかった。たぶん、フラグ足りてない」

「……お父さん、どんまい」


 しょぼくれた義之はそのままダイニングテーブルに座り、朱莉を手招きする。


 テーブルにはマグカップが四つ。柊吾用のマグが出ているところを久しぶりに見る。ちなみに、悠用もある。なんなら茶碗も箸も湯呑までも隣家の兄弟分そろっている。古澤家の両親が多忙で不在がちだったこともあり、朱莉が中学に上がるまでは家族同然にここで過ごしていた。


 義之の正面に柊吾。柊吾のとなりに朱莉。最後に友恵が朱莉の正面の席を埋めたところで、失意気味な義之がはぁと息を吐いた。


「朱莉は……昔から父さんにも母さんにも相談しなさすぎる」


 一瞬にして、今日、階下で何が起きていたのかを理解した。


 ちらりととなりの柊吾を見ると、彼は静かにマグカップから口を離した。


「ちゃんと相談しなって、俺言ったじゃない」

「でも、まだ二週間だし。何かされたわけじゃなくて」


 すると、義之は斜め向かいから朱莉に手を差し伸べた。


「スマホ。父さんに見せてくれないかな?」

「……う、ん」


 ポケットから出したスマホをタップして、藤矢のLINEトーク画面を表示してから義之に渡す。


「これ、鳴りっぱなしじゃないのか?」

「ミュートかけてるから無視はできてる」

「それにしてもすごいな。毎日何十件と来てる。下手したら百件近いぞ」

「そうなんだけど。校内のことじゃないし、お父さんに相談してどうこうできるものでもないし」


 率直に思いを述べると、義之はがっくりとうなだれた。


「これだけあったら、多少なりとも動けるんだよ。学校経由でも、こちらが直接瀬ノ川に出向くでもいい」

「でも……学校なんて」


 朱莉はあまり教師に期待をしていない。自身が受けたいじめ被害も、悠のこともあって、学校という組織を信用できないでいる。


「朱莉から学校に話す必要はないよ。それは父さんや母さんの役目だ。週が明けたらすぐに動くから、朱莉は今後何かあったら必ず父さんたちに言いなさい」

「……はい。ごめんなさい」

「相談をきっかけにエスカレートすることもあるから。ひとりにはならないこと。約束してくれるかい?」


 義之はスマホ画面をスライドさせて、眉を軽く跳ね上げた。


「この推しがどうたらとか書いているのが、柊くんのことか」


 そこまで柊吾がばらしてしまったのかと、きゅっと唇を噛んでうつむく。文句を言える立場ではないのに柊吾を責めたくなる。


 当の柊吾は義之から朱莉のスマホを受けとり、藤矢のメッセージを確認していく。


「……むしろ、俺のほうが熱烈にラブコール受けてるね。モテ期きちゃった?」

「柊ちゃんのことだなんて一度も言ってない。向こうが勝手にそう思い込んでるだけ」

「そうでした」


 シンプルな相づちを挟んで、柊吾はスマホを朱莉の前に置いた。義之に向かって口を開く。


「学校と……生活安全課、どうします?」

「うん。相談実績は残そうかな。相手が高校生ということもあるし、専門家のアドバイスは欲しいね」


 大人の会話だ。

 朱莉は帰り道を迂回したりミュートをかけたりなんていう小手先で、じゅうぶんに対応したつもりになっていた。自分があまりに子どもで恥ずかしい。


「通学と予備校の送り迎えは俺が車出します」


 うつむいていた朱莉は、ぎょっとして顔を上げる。落ち込んでいる間に、話が思わぬ展開を見せていた。


「待って。柊ちゃん、何の話?」

「基本的に、付きまといには回避一択だから。先方に抗議を入れつつ、こっちは対面を極力避けるんだよ」

「だからって、どうして柊ちゃんが車出すなんて話になるの」

「仁科家の車はおじさんが仕事に乗ってくじゃない。電車で付き添うにしたって、おばさんにだって仕事がある。うちの車は平日遊んでるし、俺は気ままな大学生だし。ついでに車停めさせてもらう当てまである。問題なくない?」


 問題しかない。推しの手を煩わせるのも、推しと車で行き帰りを過ごすのもごめんだ。


「朱莉、このままで受験に支障ないって言える? そんだけ目の下クマ作ってて、自覚ない?」


 ぎゅっと膝の上で拳を握りしめた。

 無理だ。すでに駅に向かうだけで足が竦む心地がしている。帰り道もいつかルートを特定されるんじゃないかとびくびくして歩いている。夜だって、満足に眠れなくなってきた。


「とりあえず年内。長引くなら二月まで。そこから三年生は自由登校のはずだし。朱莉が受験に専念できる環境はおじさんとおばさんと俺でちゃんと用意するから」


 朱莉は駄々をこねるみたいに首を振った。


「柊ちゃんだって……あるじゃない。なんか、就活とか」

「ないよ?」


 けろりと言われて、「へ?」と顔をあげた。柊吾はしまったという顔をしてから笑った。


「そっか。言う機会もなかったね。俺、大学院まで行くから就活なし。もう合格出てるし、気楽なもんだよ」


 脱力したら涙が滲んできた。すでに両親と柊吾の中で全ての対策図が完成しているらしい。朱莉から文句をつけられる穴がない。


 雑に目元を袖でこすって、ごまかすようにマグカップを引っ張る。冷めた紅茶をすすって、喉を動かした。


「ごめんなさい。また迷惑かけて」

「全然。予備校帰りなら悠も積んで帰るし。ペーパードライバーにならずに済むから助かるよ」


 再びマグカップに視線を沈めると、友恵が朱莉の手に触れた。


「朱莉は受験のこと最優先で考えて? 柊くんのほうから、そうして欲しいって言ってくれたのよ。お母さんたちじゃフォローできない面もあるだろうから、今は甘えよう?」

「……わか……った」


 ほっとした顔の義之が、少し背筋を伸ばす。


「よし。父さんたちからは以上です。ほら柊くん、再戦の時間だ」


 そう言って、義之はそそくさとテレビのそばに寄ってゲーム機を準備し始める。


「お父さん! 柊くんだってヒマじゃないのよ!」

「もう一戦だけだから! 次こそドロップするから!」

「ちなみにおじさん、西の仕立て屋見習いのイベント起こしてます? そこのフラグ立てないとドロップしないんですけど」

「……んへぇぇ?」


 義之は柊吾が来ると大きな弟になる傾向にある。朱莉は頭を抱えてスマホをポケットに放り込もうとした。


「朱莉。それ貸して」

「スマホ?」

「そばにあったら気になるでしょ。一時間、俺預かるから。ちょっと寝ておいで」

「いいよ! こんな昼間から」

「鏡見てから言いな」


 あ、と気づく。


 ――柊ちゃん。すごく怒ってる。


 ちょっとした声色の違い。喋る速さ。間のとり方。基本的に穏やかで、激しい感情を表に出さない柊吾を、そんなもので朱莉は読み解く。


「ごめんなさい」


 謝ったら、彼の左手にくしゃっと髪を乱された。

 離れていく左手の甲に引かれた、染み抜きしたような白いライン。それを赤みのある肌色で縁取ったような傷跡は、どうしたって目に付く。手のひらにはもっと大きな、茶色く変色して皮膚が盛り上がった傷が残っている。


「あとで起こしたげよう。一時間あったら仕立て屋見習いのイベントは余裕でクリアできる」

「……ゲーム、ほどほどにね」

「はーい」


 少々バツが悪そうに笑う柊吾に背中を押されて、朱莉はリビングを後にした。

 階段を上がっていると義之の情けない叫びが聞こえてくる。どうやら、仕立て屋見習いのイベントの前にまだ未踏のミッションがあるらしい。今日はアルマジロのスリーピースを仕立てられそうにない。


 部屋に戻ってベッドに体を放り込んだら、ずんとした体のだるさとともに、じりじりとした熱が胸の当たりを焦がした。


 耳を澄ますと、階下ではしゃぐ父と兄もどきの声が聞こえる。きっと一時間後には母がいい加減にしなさいとふたりを叱りつける。


 かつてはそこに悠もいた。それが、朱莉の日常だった。

 中学三年の十一月二十一日。あの夜が来るまでは。

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