第34話 推し、アルマジロを狩る

 朝の電車は二本早めることにした。必ず結衣と悠と一緒に動く。


 朝七時のあくび観賞は諦めるしかない。そう思って迎えた変更初日の朝六時四十分。朱莉が門を開けると、隣家の窓もからっと開いた。時間を間違えたかと時計を確認しても、やっぱり六時四十分だった。


 以降、柊吾のあくびは六時四十分になった。何かしら事情があるのだろうが、わざわざ聞くことでもない。何時に目覚めようが推しの自由であり、朱莉にとって都合のいい変更だったのだからありがたいことだ。


 もちろん、こんな時間変更ぐらい藤矢はすぐに対応してきた。二本早めたところで三日しか回避できなかった。週明けには中尾寺での待ち伏せも再開した。


「仁科さんの推しさんと、お話してみたいんですが」

「それはできません。というか、推しが誰とかお伝えした覚えもありません」

「そうですか? 僕はもう聞いたつもりでいるんだけどな。別に、推しさんに何かしたりしませんよ? ただ、僕の目指すゴールを詳しく知りたいだけです」


 LINEメッセージの中身も、朱莉の推しについて言及してくるものが増えていった。直接話したい。会わないと人となりがわからない。わからないままでは超えるも何もない、セッティングしてくれないか。そういったリクエストが日に何度も入ってくる。

 迂闊に推しの話をした過去の自分を殴りたくて仕方がない。自由奔放なジャックラッセルテリアに、軽はずみに骨を与えてはいけなかったのだ。朱莉にドッグトレーナーの適性はないらしい。



 帰り道は織音おすすめの抜け道を使う。抜け道と言いながらけっこうな遠回りだが、いつもの友人たちはこれを楽しんでくれた。


「みんな、わざわざ付き合わなくてもいいのよ?」

「駅には遠いけど、あたしの家からしたら変わんないから」

「遠足気分というか。織音ちゃんおすすめコロッケが本当に美味しいもので、つい」


 織音はコロッケ片手に、夕飯に添える一品としてトンカツまで提げている。結衣は幸せ絶頂みたいな顔でコロッケをかじる。

 確かに、絶品である。もう少し遅い時間になると、客が列を成すこともあるらしい。この味を知らずに卒業するところだったのかと思うと、藤矢の襲撃に感謝してしまう。



 藤矢からのLINEにはミュートをかけ、異変の兆候がないかだけは毎朝ざっくり確かめる。これは樹生のアドバイスだ。メッセージはいっさい消さずに残す。まるでストーカー扱いだと朱莉が笑うと、樹生は真剣な顔で「なり得るで」と言った。


 まさかと思っていたら、夜ごと通話着信が鳴り響くようになった。夜十時から一時間、着信は断続的に続く。音を消しても、着信のたびにバックライトが灯ってしまう。神経はややささくれて、寝付けない日が続いた。





 丸二週間、どうにかこうにか耐え忍んで迎えた土曜日。朱莉は自室で悲鳴を上げた。


【 藤矢 >> 予備校ってここですね? 】


 届いていたのは昨夜遅く。朱莉が中尾寺の駅近くにある予備校から出てくる姿が、送られてきた写真にしっかり写っている。


 そこから、たて続けに写真が何枚も届いていた。


 中尾寺の駅。予備校の外観。東第二中学の校舎。

 そして、朱莉が通った中尾西小学校の正門。


 小学校は東二中からほぼ同一の距離に三校ある。出身中学の情報だけで小学校を割り出すのは困難なはずだ。


 ――探られてる。


 明らかに生活圏を散策した痕跡だ。もしかしたら、自宅の場所まで特定されているかもしれない。


 藤矢には、早朝の中尾寺まで来る行動力がある。月曜の朝、家を出たらあの濃紺学ランが立っていてもおかしくない。


 洒落にならない。これでは本当にストーカーだ。


 顔を合わせると、藤矢はすぐに朱莉の肌に触れようと手を伸ばしてくる。パーソナルスペースを侵されるのがこれほど恐ろしいとは思わなかった。今なら、意図的に髪に触れられると蕁麻疹が出るという織音の気持ちがよくわかる。


 ベッドの上で沈黙しているスマホを睨む。次に着信がきたら、家の門前に笑顔の藤矢が立っているのではないか。想像したら足が竦んだ。


 朱莉の部屋は角部屋で、家の正面側と隣家側、ふたつの窓がある。正面側の遮光カーテンをぴたりと閉めたら、部屋は一気に薄暗くなった。


 これでは逆に気が滅入る。しかたなく、普段は開けない隣家側のカーテンを開ける。ついでに気分を変えようと、窓までカラカラと開けた。


 すると、向こうの窓辺に柊吾が立っていた。窓の位置こそずれているが、朱莉と柊吾の部屋はまさにおとなりさん。両家の外壁は二メートル半しか離れていない。


 こちらに気付いた柊吾が窓を開ける。


「あーれー? 朱莉じゃないかっ」

「おぉ……柊ちゃん、いたの」

「いたいたー。今日は読書日と定めて……」


 柊吾は言葉を切り、窓から少し身を乗り出して「んー?」と首をかたむけた。あいかわらず彼の部屋着の前面には、何かのアニメの名シーンが揺れている。


「なんかあった?」

「え?」


 節が張った長い指で、彼が自分の眉間をとんとんとつつく。朱莉はハッとしてひたいに手を当てた。柊吾はしばらくそんな朱莉を観察するようにしてから、一度部屋の中に引っ込んだ。かと思えば、スマホを耳に当てて戻ってきた。


【 着信中 古澤柊吾 】


 朱莉の手の中にいたスマホが、推しの名前を画面に光らせる。


「……はい?」

【またなんかあったでしょ】

「たいしたことじゃないから」

【あかりちゃーん。嘘はよくないぞぉ】

「いや、ほんとうに。そんな心配されるようなことは」

【朱莉】


 静かで圧のある声に、びくりとして顔を上げる。

 目を合わせると、柊吾はにこりと微笑んだ。


【朱莉、話して】


 こういう柊吾に朱莉は勝てない。昔からそうだ。


「……家を……」

【うん】

「特定されたかも、しれなくて」

【あの瀬ノ川の子?】

「そう。でもまだわからなくて。ただの想像で。でも、LINEが……」


 ただのと言いながら、朱莉は左手で自分の肩をきゅっと抱いた。自分が思うより、どうやら現状に怯えている。


「予備校の。隠し撮り、みたいなのが……届いて」


 話が通じない。そんな相手に、どう対処したらいいかわからない。


【……今日、おじさん休み?】

「え? ぁ、うん。今、下でマイクロやってると思う」


 マイクロ。マインクローゼット。自分だけのクローゼットを創るサバイバルゲーム、らしい。朱莉の父――義之よしゆきはどっぷりハマッている。朱莉はもっぱらRPGと乙女ゲーム専門で、マイクロのことはさっぱりわからない。


【ん。了解】

「うん?」


 柊吾はそれだけ言って窓を閉めた。朱莉の理解を待たずに通話も切る。


 なんなんだ、と思いながらベッドにスマホを投げた。柊吾に吐露したことで幾分気持ちが和らぎ、なんとか机に向かった十分後。隣家の門が開く音がした。次いで、我が家のインターホンがぺぽんと鳴った。母――友恵ともえのはいはーいが聞こえてしばらく、「お邪魔します」という推しの声がした。


 ガタンと椅子を鳴らして、朱莉は部屋を飛び出した。階段から下をのぞくと、柊吾がこちらを見上げてひらひらと手を振る。


「……なんで?」

「おじさんとマイクロやりたくて」

「え……なんで?」

「あ、わかってないな? マイクロは名作なんですよ」


 マイクロを貶したつもりはないのに、説教された。リビングからは義之の叫びが響く。


「柊くーん! イケてるマジロのダブルジャケットどこぉ?」

「それ、気怠いマジロのウォッシャブルニットを先に取らないと出現しないやつです」

「なぁにぃ!?」


 中学一年の頃までは、こんなものが仁科家でよくある会話だった。義之と柊吾がリビングのラグに座って、ザコ叩きがどうとかボス狩りがどうとか、物騒な話をしていた。


 ――久しぶりだな、これ。


 失礼ながら、小学生がふたりいるような光景と思ったものだ。

 リビングに入っていく柊吾の背中を見ていると、苦笑混じりの友恵が階段を上がってきた。


「朱莉は気にせず勉強してて? ちょっと騒がしくなると思うけど」

「マイクロ、そんな騒がしいゲームだっけ」

「ジロジロアルマジロのスリーピース? を、取るのに、ボス戦? で、古代の仕立て屋をどうこうするらしいから」

「わっかんないわー」

「ねぇ。アルマジロのスーツなんて、着心地悪くないかしら」


 問題はそこじゃない。

 友恵はシューティングゲーム専門なので、マイクロには向いていない。RPGも同じようなものだろう。やれば永遠にツッコミを入れて先に進まないに違いない。


「三時にお茶いれるから、下りてらっしゃい」

「はーい」


 軽く返事をして部屋に引き返し、ドアを閉める。ついついそのドアに耳を当て、階下の声が拾えないものか試してみる。しばらくそうして、何の音もしないことを確かめたら、少しがっかりしながら机に戻った。


 柊吾が階下にいるだけで妙に心強くなり、朱莉は受験生らしく、ノートにシャーペンを走らせた。

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