第33話 朝から瀬ノ川くん
* * *
LINEアカウントを教えたことを、即日後悔した。
いきなり無視するのはさすがに自分としても頑なすぎるだろうと、寝る前二十分ほど付き合った。藤矢はひとりっ子で、中等部から瀬ノ川にいて、父は会社を経営していて、将来は父の仕事を継ぐらしい。誕生日は過ぎてしまったから、来年は祝って欲しいとかなんとかいうところまで追いかけて、朱莉は睡魔とがっちり握手を交わした。
朱莉が既読をつけずとも藤矢はかまわないらしい。起きて画面を確かめたら、未読件数は三十件ほどになっていた。
【 藤矢 >> LINEしながら寝落ちとか、なんかいいですね 】
寝る直前のスマホは睡眠の質を下げて良くないのだと、彼に教える指南役が今すぐ天から遣わされるべきだ。ついでに彼の自己肯定が築き上げたバベルの塔も塵にしてくれるといい。
朝七時。隣家の二階を見上げると、すでに窓は開いていた。今朝もやっぱり推しキャラのTシャツで、呑気にあくびをして。それから朱莉を見下ろした彼は、口の形だけで『おはよう』と告げてきた。
朝から供給過多で朱莉を押し潰そうとは、今日の推しは罪深い。彼の一挙一動で朱莉の心電図は駅伝ランナーが絶望するほどのアップダウンを作るのだ。箱根の山も真っ青の名勝負がここに生まれてしまう。
アフリカの民族音楽もかくやという心臓を押さえ、朱莉も同じように音のない『おはよう』を返す。柊吾はえくぼが見えるほど笑ってから古澤家の玄関あたりを指差した。
ドアが開いて、悠が出てきた。
「おはよぉ」
「おは……え? 寝坊?」
「違う違う。お守りがわりに俺連れてけって柊吾から伝言。昨日、けっこう揉めたんだって?」
「そんな大げさな。ちょっと手を掴まれただけよ」
「んー……まぁ念のため。今日はどうしても朱莉に時間合わせたいって結衣さんも言ってたし」
「やめて、朝から結衣の過剰摂取でわたしを殺す気? 奪うわよ?」
「あげません。ほら、我らが兄に行ってきますの挨拶」
悠の言葉を受けて、もう一度窓を見上げる。
両腕で大きく丸を作った柊吾が、ひらりひらりと手を振った。
「相変わらず過保護よね」
「あれは朱莉限定」
「妹分ですから」
「まったく、いつまで兄貴面でいるんだか」
手のかかる弟妹は顔を見合わせて苦笑し、二階の兄に手を振って駅へ向かう。
こんな風に悠と登校するのは中学一年以来。二年になって悠の背が伸び、周囲が騒がしくなるにつれ、朱莉の元に女子からと思われる嫌がらせの手紙が届くようになったからだ。
東第二中学は同じ小学校からの持ち上がりが半数を占め、朱莉の地声のことはまたたく間に広まった。彼女らは朱莉の声を
そんな朱莉の状況に気づいてしまった悠が、徹底して朱莉を避けた。この幼なじみは昔からとても優しい。
結衣と付き合って、悠は変わった。通学時間帯の地元駅なら当然同級生とも出くわすが、昔のように萎縮することも避けることもない。朱莉と帰りの電車をわざわざずらすこともしなくなった。校内でも普通に話す。今こうして朱莉と歩いていても、堂々としている。
こんな変化をもたらすのが、良い恋というものか。また推し事帖に書き溜めていたら、中尾寺駅が見えてきた。
駅に入るなりキャンキャンとした鳴き声が聞こえてくる。
「仁科さーん! おはようございます!」
瀬ノ川の上品な濃紺学ランが手を振っている。
駅の看板を見上げるが、どこからどう見ても中尾寺だ。ここは向瀬ではない。
「悠、これ夢?」
「俺も同じこと訊こうとしてた」
互いに右手をあげて、パァンと強めのハイタッチを交わす。しっかり手のひらが痛い。残念ながらばっちり目は覚めている。
しかたなく、藤矢の待つ改札に向かう。
「藤矢くん、確か向瀬駅の近くにお住いでしたよね」
「正しくは瀬ノ川学院の近くです!」
「で、なぜ中尾寺に?」
「受験生の放課後は忙しいから、朝時間を取れるようにしてみました。良い思いつきでしょう?」
朝の推しの供給で満たされた心に、排水蛇口をがっちり溶接された。幸福がじゃばじゃばと流れ出て、空いた分だけバケツで疲労感をぶちまけられる。
――さぼりたい。
登校前から下校の魅力に取り憑かれてしまった。今すぐ引き返して浴びるように推しを摂取したい。
「朱莉、ほら」
悠に促されて改札を通る。藤矢が朱莉の手首めがけて伸ばしてきた手を、悠が間に入る形で止める。無言で見下ろすイケメンに気圧される藤矢を見て、朱莉は少々溜飲を下げた。
乗車時間二十七分は、すこぶる長かった。
藤矢が朱莉の作り声にいかにときめいたかを延々と語るのを、半ば意識を飛ばしながら聞いた。ときおりデートの誘いが飛んできて、目眩まで起こしそうだった。
一方的なLINEメッセージと同じく、藤矢は対面でも相づちを必要としない。こちらに耳がついている限り、永遠にひとり語りできる胆力を持っている。
長身の悠が障害物として間に立ってくれて気が紛れたものの、今後毎朝これが起きるようでは身が持たない。
向瀬駅につく頃には、体重がいくらか減ったような感覚だった。思わぬダイエット法を確立してしまった。特許が取れるかもしれない。
改札を出た直後、朱莉は軽い会釈とともに抗議の声を上げることにした。
「こういうことは、二度としないでいただけますか。忙しいからこそ、朝はのんびりしたいので」
「じゃあ今度はリラックスできる話題を考えておきます!」
そして藤矢はスマホを掲げて振った。
「またお返事くださいねっ!」
スキップを踏むように去っていく藤矢を見届けてから、思わず悠と顔を見合わせた。悠の目が疲労にどっぷり漬け込まれた色をしている。きっと朱莉も同じ目をしていることだろう。
「朱莉……まずくない? ここまで会話が成立しないこと、ある?」
「タイムリープで文化祭を歴史から抹消するわ。それしかない」
そこで、背中をきゅっと引っ張られた。振り向くと、心配顔の結衣が立っている。
「大丈……うわぁ! ふたりとも顔ぐったりだよ! どうしよ、保健室? 病院? あぁぁ私コンビニで何か買って」
「結衣ぃぃ」
「結衣さぁん」
結衣の左肩に悠、右肩に朱莉がててんと寄りかかる。あたふたした結衣は、それぞれの頭をよすよすとなでた。
「申し訳ないんだけど……明日から早出するし、ふたりと一緒に登校しちゃ駄目?」
「するする! いつでもウェルカム!」
「結衣ぃぃぃぃ!」
「よーしよしよし」
朱莉より先に疲労から復旧していた悠が、鋭い視線を藤矢の消えた南側通路へ向けていた。悠からすると、すでに許容ラインを大きく割っているのだろう。彼の経験してきた好意の暴走に近しいものが、藤矢にはおおいに備わっている。
結衣が悠の手をつんとつついて、意識を呼び戻す。気づいた悠が結衣に少し顔を寄せると、彼女はにこりと笑った。朱莉と腕を組み、悠の手を握る。
「結衣さん?」
「どしたの、結衣」
「やっぱりコンビニ寄ろ。ふたりが元気になるもの買ったげる」
藤矢を見送ったあとと同じく、朱莉は悠と顔を見合わせる。けれど、今度はお互いに晴れた笑顔だ。
コンビニ前では織音と樹生が待っていてくれて、朱莉の涙腺が朝から故障しそうになった。合流して、いつもの五人で登坂する。
結衣が奢ってくれた、ストレス対策を謳い文句にしたチョコレートを口に入れる。贈り主の笑顔のおかげで、チョコレートは天上の味がする。
「これはもう、帰りのルートも変更するべしよ。織音サマとっておきの抜け道を教えてあげよう」
「織音ちゃんのとっておき?」
「そう、なんとね。ビビるぐらいコロッケが美味しい肉屋がある!」
「それはとっておきだ!」
結衣と織音の会話に癒やされながら、チョコレートをもうひとつ。メーカーの期待値以上にストレスが下がっているはずだ。トッピングにつけた可愛い友人たちが、抜群の増幅作用をもっている。
「わたし、門前払いしすぎてるのかしら」
ストレス下がりついでに、少しの弱音を吐く。
人の恋愛模様を推し事として観察したところで、恋愛がわかるわけじゃない。藤矢のことも、どう扱えば良いのかわからない。
唐突な告白に、朝の待ち伏せ。結衣と悠の始まりに状況はよく似ている。朱莉が大人しくうなずけば、彼女らのように素敵な恋に発展するのだろうか。
「実は今のわたしって、チャンスだったりする?」
尋ねると、悠がのろりと手を挙げた。なぜか顔が土気色に見える。
「忌憚なきご意見をうかがいたいんだけど……俺、あんなだった?」
ひゃっひゃと笑った樹生が悠の肩を叩いた。
「安心しぃ! あそこまで酷ぉないから!」
「程々には酷いってこと!?」
「そこは彼女の裁量しだい。ほい、ゆいこちゃん」
判定を振られた結衣は、にゅっと眉を寄せる。
「藤矢くんは……二千二百古澤、ぐらいですかね」
「俺を単位にしないで……」
がっくりとうなだれる悠に、結衣がすすいと寄っていく。何か耳打ちをして、悠が目を丸くした。それからふにゃっと表情を和らげるところまでがワンセット。
――冗談だよ、そんなことない……とかかしら。
推しの微笑ましいワンシーンにアテレコして、朱莉は殺伐とした心を潤す。やはり推し事に優るものはない。心のムービー機能をフル稼働させて、そんなふたりのやり取りをしっかり保存する。
「まぁ、行動にこざ感はあるけど。根本的にちゃうと思うで。こざはゆいこちゃんをないがしろにはせんやん」
「当たり前だろ」
「それが当たり前でない人間もおるんやわ。厄介なことにならんかったらええねんけどな」
樹生にしては珍しく、悩まし気な口調でそんなことを言った。
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