第32話 押しは強いが、推しはもっと強い
鼓膜から全身にしびれが抜けた。藤矢の手首を掴んで朱莉から引き剥がす男の姿に硬直する。
朝七時のあくび男。古澤 柊吾がそこにいた。
突然の乱入者に藤矢がアーモンドアイを真ん丸にしているが、朱莉のほうは驚愕どころの騒ぎではない。前触れなく現れた推しに、心拍を乱される。
正しい推しの観賞距離は仁科家の門前から古澤家の二階の窓なのだ。文化祭でも散々暴れた心拍である。肩を抱かれた今、大人しくしていられるはずがない。
耳たぶをかすめるほど近くで聞く推しの声は、脳まで揺さぶる。英単語が鼻と口からえれえれと出ていく。
「どなたですか?」
「彼女のご近所さん。
「瀬ノ川の……高等部で、えっと、仁科さんに交際を申し込んでいます!」
推しから確認のような視線を投げられて、朱莉はぶんぶんと首を横に振った。伝われ、この困惑。
「良い方向の回答は得られていないようだけど?」
「これから良い方向に変えていきます」
柊吾の冷静な目が、朱莉と藤矢を順に確かめた。やがて、ずっと掴んでいた藤矢の手首を離した柊吾は、朱莉を自分の背に隠した。
「端から見て穏やかでない迫り方はしないほうがいい。それも、こんな学校の真ん前で。校内で噂になれば彼女が困る。そんなこともわからないほど、高校生はお子様かな?」
淡々と言われて、藤矢の顔にサッと朱が走る。
一歩下がり、朱莉と柊吾をまじまじと見た藤矢は、まとう温度をすっと下げた。柊吾の全身を検分するようにして、鼻にかけるような笑みを浮かべた。
「なんだ。この程度ですか」
びくりとした朱莉に、藤矢はにこりと笑いかけてくる。
「超えればいいんですよね? 頑張ります。それじゃ」
藤矢は礼儀正しくきちんと一礼してから、早足で下り坂のほうへ消えていった。
朱莉は詰めていた息をほどいて、目の前に残った推しの後頭部を見上げる。すると、柊吾がくるりと振り向いた。端正な顔が目と鼻の先。
――今すぐ高性能なカメラが欲しい。
欲望まみれの目に推しの顔を焼き付けていると、柊吾はふっと表情を和らげた。
「はい。移動」
「……どこに?」
柊吾は人差し指を朱莉の背後に向けた。示す先は、駄菓子と学用品の店、『なんでもカワタ』である。
「予備校まで時間あるでしょ。久しぶりにカワタで中華まん食べたい」
「まだ中華まん出てないけど……って、柊ちゃん」
「ええぇーもう十月になるのに。しょうがない、なんか駄菓子食べよ」
「柊ちゃん!」
朱莉が声を上げると、柊吾は自身の口元に指を立てる。
「地声出さない。あの手合なら、角のあたりで隠れて様子見てても不思議じゃないよ」
柊吾の指摘に、朱莉は慌てて口を押さえた。
「悠からね、通りかかれそうなら様子見てくれってLINEきた」
「大丈夫って言ったのに……」
「まぁ、これを大丈夫とは言わないかな」
柊吾は朱莉の手を、下からやわらかくすくった。同じ触れる行為でも藤矢とは雲泥の差だ。
自分でも気づかなかった。持ち上げられた朱莉の指先は、ふるると細かに振動していた。
「足までぴりぴり来てる? すぐ動かせそ?」
「……大、丈夫」
柊吾が朱莉の肩からひょいと鞄を奪い、先に歩き出す。
「おー、重量あるねぇ。さすが受験生の鞄」
「自分で持つから!」
「まぁまぁ、いいじゃない。ほら、カワタ行くよ。俺、あれ食べたい。ちっちゃいヨーグルトみたいなやつ。まだある?」
「あると思う……」
ゆっくりと歩く柊吾の背中を追いかけて、朱莉も歩き出す。なんでもカワタに向かう途中、駅へ向かう下り坂の様子をうかがう。そこに藤矢の姿はなくて、ようやく肩の力を抜いた。
なんでもカワタに入ると、柊吾は駄菓子を悩みに悩んで、結局五つ選んだ。朱莉が手に取ったミニドーナツもさらりと奪い、ご機嫌な顔でレジに向かう。店主と彼が懐かしそうに語り合うあいだ、朱莉は外で空きベンチを確保して待つ。
藤矢に掴まれた手をさすっていると、会計を終えた柊吾がとなりに座った。
「ちびヨーグルト、なかった……」
「残念ね」
「でも練り練りラムネはあった」
どや顔で親指を立てる二十二歳から、朱莉は自分が選んだミニドーナツを受け取る。
プラスチックトレーの上でひたすらラムネを練っていた柊吾は、ぽつりとつぶやいた。
「思ったんだけどさ」
静かで吐息まじりな推しの声に、朱莉の脳が揺れる。
「さっきの柊吾くん、めちゃくちゃカッコよかったことない!?」
揺れが即停止した。
正門前ではキリッとしていた柊吾が、フリスビーをくわえて戻ってきた犬みたいな顔をして言う。まっとうにしていたら弟に優るとも劣らないイケメンなのに、こういうところで彼は損をしている。
「どうどう!? ね、大人!」
「あー、そうね。柊ちゃん大人ぁ、かっこいー」
「朱莉ぃ。もうちょっと気合入れて褒めてよ」
実際、
「で? 彼は何者なるや?」
「瀬ノ川の一年生さんですって」
「そういうこと聞いてるんじゃないってわかるでしょ」
「アナウンサー声で釣ってしまった熱烈なファン」
「んー、もうちょっと詳しくお兄さんに話してみ?」
ほれほれ、と手のひらを天に向けて指をぱたぱたさせる推し。長い付き合いになるので知っている。こうなると柊吾は口を割らせるまで引かないタイプだ。
観念して、朱莉は今朝と今しがたの騒動について話す。とはいえ、それほど何があったわけでもない。ただ相手が引き下がらないタイプで、コーヒーゼリーを押し付けられただけだ。
「なるほど……面倒な相手にならなきゃいいけどねぇ」
「大丈夫よ。学校も違うんだから、できることなんて限られるもの」
「まぁ、そうなのかな。で、超えるとかなんとか言ってたのは?」
ぎくりとして唇を引き結ぶと、目を細めた柊吾は「んんー?」と朱莉の顔をのぞき込んでくる。
「なかなか、退いてくれなくて」
「うん」
「わたしの推しを超えられない限り無理ですと言ってしまい」
「で、彼は俺を朱莉の推しだと思い込んだって流れかな?」
事実、柊吾こそが推しなのだが、そこは伏せて細かにうなずく。柊吾はラムネを練っていたスプーンをはむっと加えて、ニィと口角を吊り上げた。
「……ふぅん。おもしろ」
「ごめんなさい」
「いやいや。朱莉が申し訳なく思うことはないよ。彼が勝手に誤解したんだし」
そう言われても、朱莉は委縮してしまう。柊吾に迷惑がかかるような事態は避けたい。うつむいてドーナツをかじると、ひたいを軽く指の関節で小突かれた。
「落ち込むなぃ。笑顔笑顔。しっかし、そこまで初手からぐいぐい行けるのはすごいなぁ。若さゆえかなー」
「古澤さんちの弟さんもなかなかでしてよ?」
「悠は人付き合い避けすぎてド下手くそだからね。真正面から受け止めてくれた結衣ちゃんに感謝しかないですよ、お兄さんとしては」
柊吾はからっからと笑ってから、兄らしい顔を朱莉に向ける。
「朱莉も向瀬に行って良かったね。結衣ちゃん、良い子じゃない。俺の推しまみれな部屋着姿を見ても笑わないし」
「そうよ。一生親友でいるつもりだもの。悠にだって負けないわ」
「結衣ちゃんは結衣ちゃんで、入学初めに朱莉から声かけてくれたんだって嬉しそうに話してくれたよ」
そんな話を知らぬ間にされていようとは。バツの悪い顔で朱莉はうなずいた。友情構築のきっかけは、少々朱莉には痛い話だ。
悠に奇跡をもたらした女の子の名前を、入学直前に聞かされた。ぜひとも存在を確かめてやろうと思ったら、くだんの佐伯 結衣は同じ教室にいた。
朱莉も結衣も同じクラスに知り合いがおらず、一年初めのグループ活動で班決めからあぶれた。入学前からすでに孤高の人と化していた織音も含め、三人組。これはチャンスだと朱莉は思った。
佐伯 結衣が期待したような人物でなかったら、また悠が傷つくことになる。
朱莉は無礼にも結衣を試した。アナウンサー声で油断させてから、ふとした拍子に地声を出した。
「で、そのとき結衣ちゃんは?」
「ずっと声作っててしんどくないのかって、深刻な顔で言うのよ。それでのど飴くれたの」
「ちなみに、織音ちゃんもその場にいた?」
「織音は興奮してた。すごい特技じゃんって拍手されたわ」
「どっちもいい反応だなぁ」
「でしょ」
自慢の友人たちが推しに褒められて誇らしい。そうやって油断していると、柊吾がふいに甘々しい微笑を向けてくるから心臓が爆ぜた。表情差分スチルを唐突に供給してくるのは乙女系ゲームだけで勘弁願いたい。リアルでやられると、スクリーンショットで残せない。
練り練りラムネを食べ干した柊吾は、残りの駄菓子を朱莉の鞄に突っ込んで、ぐいっと伸びをした。
「こじれそうなら、ちゃんと誰か大人に相談しなよ」
「平気だってば」
「朱莉。ちゃんと」
「……はい」
ビシッとした声で言い含められて、渋々うなずく。「よろしい」と、柊吾の大きな左手が朱莉の頭を雑になでて前髪を乱した。面倒見のいい兄もどきの笑顔は、目元と頬の間に薄いえくぼができる。これがなかなか可愛い。印象が幼くなり、四歳差ぐらいあっさり駆け下りてくる。
今の大人びたミディアムヘアもいいが、やはり彼にはショートレイヤーとやらが似合うのではないだろうか。推しに最適な髪型を想像していると、「どうかした?」と首をかしげる。本日は推しのスチル供給が多すぎて、朱莉の脳が悲鳴を上げている。
まだ、柊吾に強く引き寄せられた肩は熱を持っている。この熱を保管できる瓶があれば、即購入、即封入して祭壇でも作る。
面倒なジャックラッセルテリアの押しは確かに強かった。
しかし、どう逆立ちしたところで、推しの破壊力には勝てっこない。
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