第37話 彼は恩師であり、兄であり

 新しい担任は初対面から、朱莉の地声を『教師をからかっている』と言い切った。前年担任からの伝達が上手くいっていなかった。


 教師からの不真面目認定は従順な子どもたちの心をざわつかせ、朱莉を『付き合うべきじゃない子ども』にする。


 机に大きく『ぶりっ子』と書かれ、教科書は何度も濡れて乾いてを繰り返してうねりを描く。靴箱はいつもゴミで満たされる。


 朱莉がひた隠しにした被害は、密かに悠から両親に明かされた。学校に両親が乗り込んですぐ、わかりやすい被害は一気に消えた。けれど静かな嘲笑はなくならない。小さな悪意は肥大して、目が合っただけで何事かを囁かれるようになる。


 七月。教室で過呼吸を起こして以降、朱莉は学校へ行かなくなった。


 同時に、悠が学童保育をやめた。優しい幼なじみは朱莉への悪口雑言に立ち向かい、学童にいる同級生とぶつかってしまったのだ。


「俺あんなとこ、もう絶……ッ対に行かないから!」


 悠は折れず、古澤家の母は途方に暮れる。友恵の提案で、放課後の悠の居場所は仁科家になった。


 ついでに。


「だったらいっそ、悠くんも柊くんもうちでお夕飯食べていったら良いじゃない!」

「やだ……友ちゃんたら、ほんとに? ありがたすぎて泣けちゃうんだけど」


 出会いから三ヶ月にして、まるで十年来の友のような両家の母である。こんなあっさりとしたやりとりで、平日の古澤兄弟は仁科家の夕食をともに囲うようになった。




 四年生一学期、最後の日。

 全身引っ掻き傷だらけの悠が「ただいまぁ」と仁科家の玄関を開けた。


「どうしたの悠くん!」

「なんにもないよ。それよりお腹すいたぁ」

 

 友恵の前でしらばっくれる悠に、自分が原因だと朱莉はすぐに理解した。せめて礼を言わなければと悠に駆け寄る。


 口を開いたら、喉が動きを止めたような感覚に襲われた。


「あかり?」


 悠の不思議そうな顔に、慌てて声を出そうとする。けれど、どうしても体中が強張る。


 古澤家がやってくる前も朱莉はこうだった。声を出すことを朱莉の全身が拒絶するのだ。試しているうちに、自分がどうやって話していたのかさえわからなくなる。かすれた息だけを喉から送り出していたら、気付いた友恵が朱莉の背中をなでた。


「朱莉、深呼吸しようか」


 友恵に言われて、何度か呼吸を繰り返す。そうしていると、これまた我が家感覚で柊吾が「ただいま!」と帰ってきた。友恵も当然のように「おかえり」と返し、ぱたぱたと玄関に向かう。


 玄関からふたりの声が小さく何言か聞こえて、急ぎ足の柊吾がリビングに入ってきた。彼は戦士の勲章にまみれた弟の顔を見るなり、ぷはっと吹き出した。


「派手にやられたねえ、悠」

「んー、でも勝った」

「やるなぁ」


 柊吾は笑って弟の頭をくしゃっと掻き回したあと、カッターシャツの第一ボタンを外しながら朱莉の前にしゃがんだ。


「朱莉ちゃん、ただいま」


 おかえりと返したいのに声にならず、かわりに涙がこみ上げる。

 できないと首を横に振るしかない朱莉の両手を、柊吾は右手ですくって、左手で上からぽんぽんと軽く打った。


「ささやきでいいんだよ」

「…………り」


 やっとひとつ、音にした。

 柊吾は頬にえくぼを浮かべてうなずく。


「今日もばっちり、俺の好きな声がする」


 何にも揺るがされない強い肯定に、朱莉の体が解けた。


「ぉ、かえり……しゅう、ちゃん」

「ただいま、朱莉ちゃん」

「あー! あかり、俺にも言って!」

「は、るくんも。おかえり。あり、がとぅ」

「うん! がっつり殴っといたしな! またなんかあったら殴ってくるし!」

「……悠はちょっとだけ反省もしような」


 友恵が涙ぐみながら立ち上がり、三人分のミートソースパスタをテーブルに用意する。三人そろって「いただきます」と手を合わせたときには、朱莉の声はつっかえもなく、しっかりと音になっていた。




 夏休みの古澤家は朱莉の学校になった。

 柊吾が先生で、朱莉は昼食後から夕飯までの時間を古澤家で過ごす。一日に一度ぐらい家を離れて、親の目のないところで人と接したほうがいいのではないか。古澤家の両親からのありがたい提案だ。


 今にして思えば、古澤家の両親は、まだ中学生の柊吾にけっこうな負担をかけていた。けれど、柊吾自身はそのことを何ら苦に思っていないようだった。


 教え上手な柊吾のおかげで、朱莉の勉強はよく進んだ。実弟の悠は反発心があるせいか、兄の指導を面倒がった。でも、柊吾は悠の前でことさらに朱莉を褒めるようなことはしない。朱莉を見習えなんて言葉は、ついぞ彼の口からは出ない。できる兄であり、下の子の気持ちを丁寧に汲むひとだった。


 朱莉がそんな彼に憧れを抱くなんて、容易たやすくて当然の流れで。

 彼は美しい隣家の長男で、家族思いで、他人の朱莉にも優しくときに厳しく、そして、朱莉の声を素敵だと言う。


「小学生にはその声の尊さが伝わらないんだなぁ」

「わたしだって、変えて欲しいなって思ったこともあるよ」


 朱莉が口を尖らせると、柊吾は残念そうに眉を下げ、腕組みしてまぶたを閉じた。


「んー……どうしても変えたいって言うなら、練習してみるか」

「できるの?」

「声の仕事してる人は別人かってぐらい声を変えられるんだよ。一人五十役を成し遂げた偉人だっている」

「五十……」


 唖然とする朱莉の前で、柊吾はぱんっと手を叩く。


「うん、朱莉ちゃん! 今すぐ学ぼう! まずはアニメを見るところから始めようか!」


 だだだと二階に上がっていった柊吾は、すぐにリビングに戻ってきた。そして、ダイニングテーブルに大量のブルーレイディスクを積み上げた。


 どん、と積まれたディスクのタワーと、柊吾の顔を見比べる。ついでに、あちゃぁという悠の顔も確かめた。


「これ、なぁに?」

「んッ……もっかい」

「……これ、なぁに?」

「素晴らしい。第七話のリリーティアの台詞そのもの」


 柊吾は控えめなガッツポーズのあと、嬉々としてディスクをブルーレイデッキにセットしだした。


「まずは絶対これ。『誰が為の異世界開拓期』っていってね。名作。やっぱりオススメは十九話後半だと思うんだよねぇ」

「……兄ちゃん」

「後半三分二十秒のリリーティアのセリフが殿堂入りだからさ。朱莉ちゃんも絶対ハマると思――」

「兄ちゃん。布教するなら一話からにして。柊吾ベストセレクションだけ見せられても、あかりが困るから」

「はい」


 悠の冷静な指摘で、スキップを踏んでいた柊吾がスンッと鎮まる。この日の彼の部屋着には、リリーティアなるトンガリ耳エルフの笑顔が燦然と輝いていた。



 柊吾の布教活動にまんまとハマり、朱莉は深夜アニメの世界へ足を踏み入れた。なかなかディープだ。リリーティアはヒロインだと思っていたのに、ヒロインは別にいて十九話でリリーティアはフラれた。自分でも近しい声だと思っただけにつらい。でもリリーティアのフラれ回になると、となりで柊吾がえぐえぐと涙に溺れてタオルを握りしめるから、朱莉のダメージは浅くて済んだ。どっぷりつかっている人間がとなりにいると、こちらは冷静になるものらしい。


「そんなんなってるけど、兄ちゃんそこだけでもう五十回は見てるしな」


 悠は呆れ顔で後方腕組みだ。柊吾はそんな弟に「だってリリ……リリーティぁうあぁ」とかなんとか、ぐちゃっとした抗議をぶつけた。



 柊吾はリリーティアの担当声優、千崎 乃愛が出演するか否かでアニメの視聴を決めているふしがあった。ゆえに、ジャンルはバラバラ。作風もバラバラ。朱莉はその全てにのめり込み、古澤家に行くと新作をねだった。


 アニメだけじゃない。柊吾の部屋には大量の小説と漫画があって、アニメをある程度消化したところで、朱莉の興味は自然とそちらに広がった。勉強が終わったら柊吾の部屋に行き、片っ端から蔵書を読んでいく。


「朱莉ちゃん、楽しい?」

「うん」

「そっか」


 こんなとき、柊吾は懐いたペットでも見るような目を朱莉に向ける。布教成功の喜びを噛み締めているのだ。


 勉強、アニメ、ボイストレーニング。その日々の中、朱莉の声は変化をつけ出した。特徴的な甲高い声を少しずつ封印していく。柊吾は朱莉に根気よく付き合ってくれた。


「尊い地声が消えるわけじゃないから。俺、大丈夫だから」


 ほんのり涙目で、そんなことを言いながら。



 四年生の二学期以降は三度しか登校できなかった。五年生にあがると月に二度。朱莉が登校する日は、悠がボディガードのようにぴたりと張り付いた。小さな嫌がらせや、朱莉が声を出すたびに起きるやすりがけのような笑い声はあったけれど、一度不登校になった事実が抑止力になった。腫れ物扱いだったとも言える。


 放課後、仁科家に直帰した悠から今日の宿題を受け取る。ふたりで宿題をやっていると柊吾が帰ってきてインターホンを鳴らす。そこで朱莉はランドセルを背負って、悠と一緒に家を出る。向かうのはもちろん、徒歩十秒の古澤家だ。

 そんな時間を、朱莉と古澤家の兄弟は積み重ねていった。




 五年生の三月。


 その日、中学が半日で終わり、柊吾は小学校までわざわざ朱莉と悠を迎えに来てくれた。

 そんな柊吾の見ている前で、朱莉のランドセルが教室の窓から放り投げられた。悠が帰宅前にトイレへ向かった一瞬の隙だった。


 五年生の教室は学校の西門そばにある新校舎の一階で、窓から放り投げても大きく破損することはない。目立った破損がなければ証拠は残らない。そういうことを計算して動くのが、高学年のさかしさだ。


 下校時刻に合わせて開いていた西門から堂々と学校に入った柊吾は、朱莉のランドセルを拾い上げる。そして、窓をひょいと乗り越えて、土足で教室に侵入した。


「誰?」


 声変わり最中の柊吾の喉から出されたのは、朱莉がこれまで聞いたことのない、背筋がぞっとするような声だった。


「これだけ教室に残ってるなら、誰か見てたでしょ。教えて? 投げたのは誰? 言わなきゃ共犯になるよ」


 柊吾が視線でこれと定めた女子は怖気づいて、あっさりと主犯の男子を指さす。ずかずかと犯人に詰め寄った柊吾は、ガッと手首を掴む。


 そして、古澤家の遺伝子をフル活用したようなまばゆい笑顔で告げたのだ。


「どこを最初にする? 家? 職員室?」

「え……」

「最後は決めてるから。警察だよ。一緒に行ってあげる。安心してね。法律が未成年のきみを守ってくれる。きみを裁くのは、ご近所とか学校とかご両親とか、そういう周りの人たちの目だけだから」

「あの……ごめん、なさ……」

「ほんと、おかしいと思わない? れっきとした犯罪を、この国はいじめって呼びたがるんだ」


 震えて号泣する同級生というのを、朱莉は初めて見た。声の圧は、正しく使うとこんなこともできるのだと知る。


 主犯どころか、芋づる式に出てきたいじめグループが並んだ。彼らが泣きながら朱莉に謝っているところに、教師が駆けつける。けっこうな騒動の中、柊吾はずっと朱莉の手を握ってくれていた。やっぱり美しい彼の左手だった。



 その日の夕方。

 朱莉は古澤家に入り、柊吾の部屋のドアをノックした。

 返事がないのでそっと中をのぞくと、校内侵入をこってりと教師に叱られたヒーローは、暢気な顔でベッドに転がり、すやすやと寝息を立てていた。


 朱莉はベッドの傍にぺたんと座った。両腕をベッドに乗せ、その上にあごを積む。大きな左手をつついてもぴくりとも反応しない柊吾を、ぼんやりと見つめる。夕陽が彼の頬を染めて、あまりに綺麗で目を細めた。


「わたくしには……おにいさまより欲しいものなど、ないのです……」


 『誰が為の異世界開拓期』第十九話後半、三分二十秒。リリーティアがともに暮らしてきた兄同然の勇者に、初めて想いを伝えるセリフだった。

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