第38話 それは、彼女の恋ではなかった

 柊吾の脅しは抜群に効いた。いじめの主犯グループがクラスから浮いて、逆に朱莉はすんなりと溶け込んだ。六年生に上がり、悠を含めた男女六人のグループにおさまったら、もう朱莉を脅かすものはなかった。


 柊吾は高校生になり、学ランを卒業した。落ち着いたグレーチェックのスラックスとダークグレーのブレザーという出で立ちがおそろしく映える。


「柊ちゃんって、なんで宮浜受けなかったの? 向瀬って遠いのに」

「朱莉もそう思うだろ。聞いてやってよ、その理由」


 低身長を気にして一気に牛乳をあおる悠が、呆れ顔で兄を見る。通学時間が倍以上かかる向瀬高校が、同レベルの宮浜より勝るのだろうか。朱莉が目で問うと、柊吾はぎりっと歯を食い縛り、テーブルに乗せた握り拳を震えさせる。そして、すっかり声変わりを終えた声を、悔し気に絞り出した。


「宮浜には、アニ研が……なかっ……た、から」


 ぶふぉっと吹き出して、朱莉は慌てて顔を背けた。納得の理由だ。中学三年間、同級生から残念なイケメンと呼ばれた彼の部屋着には、その日も推しの笑顔が輝いていた。



 中学に上がったら、兄弟が仁科家で夕食をとる頻度はぐっと下がった。

 中学生と高校生では顔を合わせることが少ないけれど、休日になると朱莉はあいかわらず柊吾の部屋に向かう。彼の話をねだって、朱莉もこの一週間がどんなだったかを語る。柊吾が育ててくれたアナウンサーめいた声は朱莉の自慢で、学校でも家でもこの武装を外すことはしなくなっていた。


 ある日、ぽこんと柊吾がこぼした。


「家でぐらい、地声で良いんだよ」


 すこし拗ねたような口ぶりで。

 ディスクを再生すればいくらでも千崎 乃愛の声は聞けるのだから、さほど困るものでもないだろうに。


 そう考えて、ひらめいた。乃愛では駄目で、朱莉なら叶うもの。


 名前だ。


 大好きな声で名前を呼ばれると、自分が特別になった気がする。朱莉がそうであるように、柊吾もきっとそうなのだ。


 ――この声だけは、柊ちゃんの特別になれる。


 ほんのりと苦い気持ちを飲み込んで、朱莉は笑った。


「しょうがないなぁ、柊ちゃんは。じゃあ、わたしの乃愛ちゃんボイスは柊ちゃんにあげるよ」


 柊吾は少しばかり驚いた顔をして、それから、出会った頃よりずっと大人びた微笑みを朱莉にくれた。

 夕日に染まる彼の瞳は、どこか、大切なものを見つめるように切なげだ――と思いたい。当然、朱莉の勝手な欲目である。声ひとつでほだされてくれるほど、現実は甘くない。


 いつまでたっても朱莉は彼の妹みたいなもので、年齢四つの差が恨めしくてたまらない。柊吾の部屋着に今日も彼の推しが輝いていることだけが、朱莉にも望みがあると思える唯一の救いだ。




 穏やかな日々が翳るのはあっという間だった。


 悠がコンプレックスだった中性的な顔をすべてさらすほどの短髪になって。


『家がとなりだからって調子乗んな。変声ブス』


 そんな手紙が朱莉の机に入るようになって。


『兄弟二股狙い。男好き』


 手紙を悠に拾われて、もう家には来るなと言われて。


 朱莉は何もできなかった。

 学校での様子を柊吾にLINEで伝え、ひたすら幼なじみを案じるだけの、あまりにも無力な子どもだった。


 そんな朱莉にときどき、柊吾から声が届く。隣家側の窓を開けたら、いつもそこに彼がいる。二メートル半先にある彼の笑顔を見て、スマホを耳に当てて声を聞く。


【朱莉はちゃんと自分のこと守って。悠のことは大丈夫だから】

「柊ちゃんは大丈夫? 大学受験って大変でしょ?」

【大丈夫。朱莉の声で元気出てきた。むちゃくちゃ頑張れちゃう】


 電話越しでも、彼は朱莉の声を褒めてくれた。



 中学三年の秋、悠に素敵な出会いがあった。幼なじみの顔に晴れやかさが戻るにつれ、柊吾からの電話も頻度が上がっていった。


 受験勉強の合間の二十分ほど、お互いの窓を開けて。顔を見て、スマホを耳に当てる。まず柊吾の話を聞いて、それから朱莉の話を返す。


 たったそれだけのことで、鼓動は速くなる。柊吾の声が鼓膜を抜けて、朱莉を守ってくれる。毎日学校の机に押し込まれている悪意の手紙なんかでは、朱莉の心はひとつも傷つかない。どれほど声を貶されても、朱莉の二メートル半先にはいつだって、この声を世界一の宝のように讃えてくれる人がいる。



 中学三年の十一月初め。柊吾からLINEメッセージが届く。悠の誕生日である二十一日に、久しぶりに古澤家に来ないかという誘いだった。


 悠が塾から戻るのを待って、ただケーキを食べるだけのささやかな祝い。そんな小さな約束でも、朱莉は天にも登る心地がした。悠の苦しい日々が終わりを迎える合図に思えた。


 これをきっかけに以前のような日々が戻るのだ。

 そんな幸せな夜に、なるはずだったのだ。





 十一月二十一日。

 病院から自宅に戻った時には、夜十一時近くなっていた。朱莉の目の前にはまだ、悠が流した血の赤や、柊吾の握りしめたカッターが見える。何も考えられず、リビングでぼんやりと座り込んでいた。


「朱莉、ちょっといいかい?」


 義之の声に顔を上げる。ラグの上にへたり込んだ朱莉の前に義之は正座した。そして、朱莉の前に見覚えのある手紙を置く。


 それは朱莉の声を貶し、柊吾や悠との関係を根拠もない憶測で罵る、悪意に満ちたいつもの手紙だった。


「お父さん……これ」

「悠くんが車で話していたろう。朱莉に手紙がって。ごめんね。母さんに朱莉の部屋を探させた」

「わたし、こんな手紙ぐらい」

「古澤さんの家に行くのは、やめにしよう」


 世界が色をなくしたかと思った。


「父さんたちには、朱莉を守る責任がある。知ってしまった以上、これまでのようにさせてやることはできないんだ。柊くんや悠くんにだって負担がかかる。朱莉にまで何かあったら、悠くんはもっと傷つくことになる」

「でも……でもお父さん! わたし、柊ちゃんと」


 今日はケーキを食べると、約束した。

 悠も一緒に、三人で。ささやかに、誕生日を祝うのだと。


「いいかい、朱莉。朱莉が柊くんに感じているのは、憧れだ」

「あこ、がれ?」

「ずっとお兄さんがわりとして側にいてくれたからね。父さんたちより朱莉を支えてくれただろう。そんな柊くんに憧れを抱くのは当然だ。でもね、そうやって柊くんに寄りかかっては、いつか朱莉が柊くんを押し潰してしまう」

「わたし、柊ちゃんの……荷物になってるの?」

「そう。高校生になる朱莉ならわかってくれると思ったから今話している。柊くんから離れなさい。朱莉はもうじゅうぶんに、彼に守ってもらっただろう?」


 おそるおそる、母、友恵の顔を見る。

 友恵はどこか寂しそうにうなずいた。


 ――そう、なの?


 柊吾の関節の張った指が滑らせるシャーペンの音を聞きながら。話すたびに上下に細かく動くまつ毛を見ながら。夕日に朱く色づく頬を見ながら。鼓動をいつもよりずっと忙しくさせ、息苦しさを覚える。


 頬にかかった朱莉の髪を、柊吾の手が耳にかける。その指に、頬を焼かれてしまうんじゃないかと目を閉じる。

 スマホから響く声にさえ溶かされる。二メートル半先にある笑顔に、どうしてか泣きたくなる。


 簡単に砕けてしまいそうで、何もかもを変えてしまいそうで、軽々しく口に出せないようなこの想いが。


 ――恋じゃ、なかったの。


 ラグに放り投げていたスマホのバッグライトがついて、LINEメッセージの受信を知らせる。


【 古澤柊吾 >> まだ、起きてるかな? 】

【 古澤柊吾 >> 家の前まで出てこれるかい? 】


 弾けるように立ち上がって、リビングを飛び出した。


「朱莉!」


 父の静止を無視して、サンダルを引っ掛ける。十一月の夜は冷たくて、風は肌を斬りつけるようだった。


 門前に立っていた柊吾は、朱莉を見るなり目を丸くした。すぐさま自分の上着を脱いで、朱莉の肩に引っ掛けてくれる。


「柊ちゃん……大丈夫?」

「うん。怖い思いさせて、ごめんな」


 柊吾の左手は包帯で隠れて、指先にもたくさんのテープが巻かれている。朱莉が伸ばしかけた手を引っ込めると、柊吾は逆に、負傷した手で朱莉の頭をなでた。


「見た目ほどじゃないから、心配ないない」

「うん」


 柊吾はほふっと息を吐くと、その手を下ろした。


「おじさんから聞いた。朱莉んとこにも嫌がらせ来てたんだって?」

「たいしたことないよ。慣れてる」

「そういう問題じゃないでしょ。朱莉はすぐ強がるからなぁー、心配だよ」

「ほんとに! わたしは全然大丈夫なの! だから――」

「もう、家には来ないほうが良い」


 しん、と。夜の空気がまた少し冷えた。息を吸い込んだら、喉が痺れた。


「おじさんもおばさんも心配してる。うちの両親も、もちろん、俺も。これで朱莉に何かあったら、悠は立ち直れないかもしれない」

「それ、いつまで?」

「これからずっと」


 父に言われたときは、体のすべてが止まるほどに感じたのに。


 柊吾の口から告げられるなら動揺しない。当然だとまで思う。

 彼の左手が包帯で隠れているから。朱莉のまぶたの裏には鮮やかな赤がこびりついて、鼓膜には悠の悲鳴が焼き刻まれているから。


 何もできない無力な朱莉は、いままでずっと守られてきたのに。

 その大切な人たちを、守ることができなかったのだから。


「……わかった。もう、いかない」

「朱莉も悠も、高校生になるしね。そろそろ線を引くときだと思うから」

「わかってるって。もう子どもじゃないから、わきまえてます」


 苦笑交じりに拗ねてみせたら、目の前が突然真っ暗になった。

 自分が柊吾の腕の中にいる。まるで夢のような温かさに包まれた。けれど、すんと鼻を抜けるのは、まだかすかに残る血の匂いだった。


 何もかも、二度と戻らないのだと突きつけられた。


「朱莉ちゃん。俺、良いお兄ちゃんでしたでしょ」

「もちろん、ですとも。世界一のお兄ちゃんです」

「じゃぁ、ご褒美にアレください。十九話のリリーティア」


 その瞬間、朱莉は悟った。いつかの夕暮れの中、柊吾は目を覚ましていて。自分の抱えたこの想いは、とっくに彼に知られていたのだと。


 第十九話後半、三分二十秒。柊吾が五十回見てなお涙する、『誰が為の異世界開拓期』の名シーン。リリーティアは、愛した勇者にあの言葉を告げて――命を落とすのだ。


「朱莉。お願い、聞かせて」

「……わたくしには」


 ここで終わる。父が恋ではないと言ったものが。朱莉の中にやさしく積もって、どうしても言葉にできずに、壊れないように抱きしめて守ってきた硝子細工みたいなものが。


「……柊ちゃんより、欲しいものなど……ないのです」


 砕けて。砂みたいに、十一月の風に巻かれていく。


 ぽん、ぽん、と。柊吾に背中を叩かれた。


「良い声だよ。朱莉のその声を素敵だって言う友だちに、きっと出会える。向瀬は良い学校だから」

「そう、だといいね」

「受験頑張って。朱莉なら大丈夫だから」

「心配性だなぁ、柊ちゃんは」


 ぐっと、彼の胸を押す。朱莉は笑って彼の腕から離れた。


「今までありがとう、柊ちゃん。お世話になりました」


 笑顔のまま。振り向かずに。


 朱莉の恋でなかったものは、この夜静かに息絶えた。

 彼を初恋とは呼ぶことはできなかった。


 だから。

 古澤 柊吾は推しであり、仁科 朱莉は今も、恋を知らない。

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