第27話 雪の降るこんな日に

 合格後、向瀬高校に向かったあの日。


 結衣が落とした受験票を、男の子が拾ってくれた。長い前髪の奥に見え隠れする瞳が翳っていて。声はかすれて沈んで、ひどく疲れているように見えた。


「古澤くん、だったの?」

「気づかなくて当然。別人みたいだったはずだから」


 彼は結衣がすんなり読めるよう、受験票をくるりと回して手渡してくれた。体調が万全でないのだろうに、細やかな気遣いを結衣にくれたのが嬉しかった。


 別れ際、ふと不安になった。彼がこのままふらりと消えていってしまいそうに思えたのだ。


 だから結衣は彼に祝辞を贈った。ありふれたわずか五文字しか思いつけなかったけれど。少しでも彼が上を向いて笑顔になれたら。そんな気持ちを込めた贈り物だった。


「『おめでとう』をもらったら、俺の感情はまだ動けた。まだ生きてるってわかった。だったら、もう一度頑張ってみようって」


 淡く微笑んだ悠は、口元にその笑みを残したまま「だけど」と軽く目を伏せた。


「佐伯さんのおかげでここまで来られたって言える自分になりたくて。でも、全然駄目で。他人は怖いわ、木田に先越されるわ。勢いで告白して困らせるわ。好意の押し付けであれだけ悩んだのに、いざ自分の番になったらまともにコントロールできてないし」


 良いとこないなぁとつぶやく悠の声が、少しかすれた。そんな自分を叱咤するように、彼は首を振る。


「ちゃんとしてから全部伝えるつもりだった。こんなに悩ませることになって……本当にごめん」


 彼が犬なら、いま、尻尾が下がって耳が折れたなとか。そんなどうでもいいことを考えたら、無意識に手を伸ばしていた。


 うつむく悠の前髪に指をかける。ぴくりと反応した悠は、少し顔を上向かせて、受け入れるようにまぶたを下ろす。


 そっと髪をよけ、ひたいにある彼の傷跡をしばらく見つめる。そうしたら、自分の中にある頑なな殻にぺきりと穴が空いた。


 これは誰の話だろうと自問する。思ってもいなかった答えが、小さな声で自分の内から返ってくる。


「あの……変なこと訊いていい?」

「なんでも。全部白状するから訊いて」

「古澤くんの好きな人って、もしかしてなのでしょうか」


 途端に悠が吹き出した。


「ち、違う!?」

「いや、もしかしてが付くからさ。ほんとに頑固なんだなって思っただけ」


 ひとしきり笑ったあと、彼は「よしっ」と立ち上がる。


「大丈夫。本日の古澤は、佐伯さんの不安を完全に払拭するまで帰りません」


 悠はベンチに置いていた鞄に手を伸ばし、中から大小ふたつの袋を取り出した。大きいほうはリボンのついたギフト包装。小さいほうは使いまわした感のある雑貨店風な袋だ。


 彼は両方を手に考え込んだあと、大きいほうをいったん鞄に戻した。


「手、出して」

「こう?」


 結衣が両手を皿にすると、悠は袋を開けて中身を出す。

 手のひらに、黄色いリボンをつけた小さなクマ――と、なぜかレシートが乗った。

 とても見覚えのあるクマが手の中で転がる。


「鮭食べるクマさんだね」

「詳しく聞いたところ、二酸化炭素でも生きていける新種でした」

「家計と地球に優しすぎる」


 黄色のリボンは十一月。足の裏に二十一の刺繍。最初のデートの日、結局群れに帰すことになった悠のバースデイ・ベアだ。


 それはわかるのだが。


 ――このレシート……何?


 結衣は謎のレシートを摘み、まじまじと見た。

 B・ベアとあるからには、このクマのレシートなのだろう。なぜかふたつ購入している。

 日付は、十月三十一日。時刻は十八時五十二分。


「……あれ?」

「まさか、レシート溜めがちで常々財布パンパンの自分に感謝する日が来ようとは」

「え、え!? だってこれ、最初のデートの日!」

「あのあと買いに戻った。俺の好きな黄色つけててまさに俺って思ったから、やっぱり欲しくて」


 レシートを回収した悠は、入れ替わりにスマホを見せてきた。クマ二匹がフックに下げてある写真が表示されている。片方は黄色、もう片方はピンクのリボンだ。


「もしや佐伯グマもですか?」

「一頭飼いじゃ寂しいから」


 そのまま、悠は次の画像へとスライドさせていく。


「こちら、俺のメガネケースです」

「はい」

「こっちはヘッドホン」

「は、はい。え、何?」

「ベッドはこう。で、ブックスタンド。あとスリッパと、マグカップ。タブレットカバー」


 ね、と微笑まれて、結衣は反応に窮した。突然の私物展覧会。ピンとくるのは色ぐらいだ。


「ええと。全部……黄色い、ね?」

「正解。クマと違って購入日の証明はできないんだけど。昨日今日じゃなくて、かなり前から黄色コレクターやってます」

「変わった自由業だね」


 ぶふっとまた吹き出した悠は、肩を揺らしながらスマホを鞄に放り込む。そして、残った大きなギフト袋を結衣の膝に乗せ、リボンを解いた。


 中から、これまた黄色なマフラーが出てきた。


「俺に『普通』と『おめでとう』をくれた女の子が、ひまわりみたいに笑ったから。二年前から、俺の好きな色になりました」


 結衣は一瞬息することを忘れて、しぱぱと瞬いた。

 その間に悠がマフラーを手に取り、結衣の首にゆったりと巻く。すっかり冷えていた首周りを柔らかい感触が包んだ。


「偽物みたいに言ってたけど、青だって佐伯さんの大事な一部だよ。あのときは受け止められなかったけど、今は感謝してるし、すごいことだと思ってる。それに、ピンクも絶対似合うだろって思う」

「うん」

「でも、俺にとっての佐伯さんはこの色だった。最初からずっと」

「……うん」

「ヒーローに恋した覚えはないんだ」

「……う、ん」


 柔らかなテノールで、結衣の殻をどんどん剥がしていく。悠は結衣の手からおもむろに古澤ベアを拾い、結衣のアウターのポケットにぐっと突っ込んだ。


「俺のクマは今日から佐伯さんとこに居候させるから。それ見て、二年ほど黄色ばっかり集めてるやつがいることを思い出して。それで、好きになって欲しい」

「……クマを? 古澤くんを?」

「黄色を。ひまわりみたいな女の子を。そのままの佐伯さんを、もっと好きになって」


 最後の殻が、剥がれおちた。

 与えられるぬくもりに耐えかねて、首に巻かれたひまわり色のマフラーを強く握る。鼻の奥がツンと染みる。詰めていた息をほふっと逃がすと、唇が細かに震えた。


 誠実な瞳が、結衣を特別なものにする。

 ポケットにいる彼のクマが、今の結衣とおそろいの黄色を誇らしげに巻いている。

 悠の言葉が塗り変える。何にもなれないと諦めてきた無色の結衣を、夏に揺れる鮮やかな大輪と同じに彩っていく。


「ちゃんと伝わってる? 俺の好きな人は、誰?」


 ここまで積み上げられてまだ素知らぬ顔をするなら、彼の前から今すぐ消えたほうが良い。


「……私、です。佐伯 結衣です」

「まだ、もしかしてって思う?」


 結衣がぎこちなく首を横に振ったら、悠は小さく息をついて微笑んだ。


「ん。俺から渡したいものは、以上です」


 けれど、彼の表情がすぐに緊張に満ちる。結衣は手を引かれて、ベンチから立ち上がった。

 悠は結衣のマフラーを整えたあと、一歩下がった。結衣のつま先から六十センチほどの距離をとり、深呼吸して一度顔を伏せる。


 じっくりと時間をおいてから。

 もう一度、悠は瞳の真ん中に結衣を映した。


「これで本当に全部です。この自傷のことも、残念な中身もみんな知ったうえで――佐伯 結衣さん。俺と付き合ってくれますか」


 最初の告白とは違う。今度の彼は頭を下げない。震える指先を手のひらに握りこんで、結衣から決して目をそらさない。結衣の手にはペールボックスがなくて、がら空きの体全部で彼の緊張を受け止める。


 ――全部、終わったあとで。もし、俺にひとつでも『違う』って思うところがあるなら。


 彼が先にそう言った理由が、やっとわかった。


 長い前髪の奥に隠した深い傷跡を。わざわざ自傷という言葉を選ぶほどに、彼は嫌っているのだ。


 その傷を、彼はきっと途方もない覚悟でさらした。

 こんな頑固な結衣のために。思い込みで空回りして抱え込んだ不安を、ひとつ残らず拭い去る。それだけのために。


 ――似ているのかもしれないね。


 彼だって、自分自身を好きになれずにいる。消えない傷を汚点のように抱いて戦っている。


 佐伯 結衣はヒーローじゃないから。その傷をなくすことも、中学三年の彼を助けることもできない。

 けれど、これから彼のそばで試行錯誤していくことはできる。そのための場所を、彼は結衣に用意してくれた。


 ――だったら、一緒に頑張りたい。


 となりに立って、彼がどんなに素敵な人か伝えたい。深すぎる傷を負ってここまできた彼に、誰よりも優しくしたい。今この瞬間にも頭をわしゃわしゃとなで回して、彼を甘やかしたくてたまらない。


 そんな特等席を、誰にも譲りたくない。


「私。牛乳の早飲みできないけど、いい?」

「…………何の話?」


 悠が首をかしげる。その姿が、雨でもないのに滲んだ。ほんのり揺れる雨垂れのフィルタの向こうで、彼が目を瞠るのがわかる。


 唇を噛んでも、こみ上げるものを逃せない。徳の足りない自分には、もう忍耐が残っていない。


「レッドは、運動で。グリーンは、頭良い人で。イエローには、牛乳十秒が必須、でね?」

「あ、なんかわかる。小学生ってそういう謎ルール敷きがち」


 うなずいたら、つま先に雨が落ちた。追いかけるように、頬をまたひとつ、雨粒が滑る。


「あんまり、早くないけど。古澤くんの大事な黄色。私、もらっていい?」

「逆だよ。佐伯さんの色だから、俺の大事なものになった」


 美しさのかけらもない声が喉からこぼれ出そうで、手の甲を唇に押し付ける。同時に、結衣の体は悠の腕の中にすぽりと閉じ込められた。


「待っ……て。古澤くんのコート、汚れる」

「気にしなくていいから。嫌なら言って」


 そう聞いてくる悠はやっぱりずるい人で。そして、結衣は結局流される。


 仕方がない。かすかに震える彼の腕を突き放すことなど、どうしたってできない。


 彼の腕の中で身をよじる。手を伸ばし、前髪の奥で怯えている傷跡をなでた。彼が厭うこの傷だって大事にしたいのだと、指先で伝える。


 しばらくされるがままにしていた悠が、ふっと結衣の耳元に唇を寄せてきた。


「好きです」


 綺麗なテノールを少しだけかすれさせて、ちゃんと言葉にして渡してくれる。


 結衣は迷いなく悠の背中に腕を回した。


「私も、古澤くん……の、こと」


 しゃくりあげてしまって上手く繋がらない。それでも渡す。彼が惜しみなく与えて、結衣の中で大きく育ててくれたものを。

 広い背中をきゅっと掴んだ。冷えた指が彼の手と同じように震えた。


「大好きに、なりました」


 悠が息を飲む。ゆっくり大きくその息を吐いたあと、震えをぴたりと止めた彼の手はおずおずと結衣の頭をなでてきた。

 返されたありがとうは、ほとんど吐息だけのささやきだった。


 悠の手が、壊れ物でも扱うみたいに結衣の頭を何度もなでる。それから、あやすように背中を軽く叩く。そのリズムを味わっているうちに、結衣の雨は小降りになってきた。


「溜め込んで避けるより、思いっきりぶつかってきて。俺、倒れたりしないから」

「はい。反省してます」

「よろしい。たまにはケンカもしましょう」


 それから、と。彼の手はサイドの編み込みをするすると滑り降りてきた。


「悔しいぐらい可愛いけど。あんまり樹生に触らせないでくれると、ありがたいです」

「う……今度、樹生くんに改めて教えてもらいます」


 ちょうど今朝の支度中、みんなで樹生にアレンジ勉強会を開いてもらおうなどと盛り上がった。いよいよ結衣も不器用に別れを告げるべき時がきたのだと、気合を入れ直す。


 すると、大きなため息が降ってきた。


「あのさ。俺は、古澤……何くん?」

「え? 古澤、は……」


 言いかけて、ひたと止まる。結衣が答えに詰まると、悠は結衣の体を少し離して、すねた顔で見下ろしてきた。


「返事」

「古澤……悠くん」

「そう、更新しよう。樹生ばっか狡すぎる」


 そしてまた、ぎゅむっと結衣をつかまえる。


「俺も何か新しくしたい。佐伯ちゃんとか、ゆいこちゃんとか」

「結衣がいい」

「…………ちゃん付けでいいですよね?」

「無しがいい」


 LINEアカウントを交換したとき、確認のために読み上げた彼の声がもう一度聞きたい。そんな風に呼びかけられることに、ほのかな憧れがあった。


 悠が空を見上げたりうつむいたりと、忙しくなる。それから結衣の肩にひたいを落とし、こくっと喉を鳴らした。


「……結衣」


 大切な人の声が自分の名前を呼ぶ。それだけのことで涙はあふれるのだと知った。

 そんな結衣の顔のすぐそばで、悠の耳が真っ赤になっていく。


「これ、キツい。心臓の予備が五百ぐらい要る」

「一個を鍛える方向で頑張ろっか」


 悠の髪に、空から真白な結晶が降りてきた。

 見上げるとまたひとつ。今度は結衣の肩に。悠が伸ばした手のひらに落ちたら、じんわりと溶けた。


 空というものは大変に気まぐれで意地悪で。

 デートをすっぽかされた日には虹をかけるし、幸せなデートの終わりにどしゃ降りになったりするし。


 フラレた日を雲ひとつない晴天にするし。


「当面の間……さん付けで譲歩してください」

「うん。許します」


 そして、心が温かく満たされた日に、雪をちらつかせたりする。



 高校二年、十二月二十四日。

 今年最初の雪が降ったこんな日に。

 手を繋ぎ、ひまわりを咲かせ、名前を呼び合って少しばかり命を危うくしながら。


 あらためて。

 結衣と悠は、彼女と彼氏を始めた。



〈一章 恋は唐突に降るもの  了〉

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