第26話 答え合わせの時間

 * * *


 五センチ弱のヒールは、結衣と悠の距離を縮める。整った彼の顔が、いつもより近くにある。


 初めの頃は近寄り難かった。好意を惜しみなく出してくる彼にいつも緊張した。周囲に対する壁の厚さと、結衣に尻尾まで振りそうな懐っこさ。その落差に戸惑った。


 今は、違う。結衣のほうから、もっと近づきたい。


 今日の悠は、前髪をやや流し気味。どう見てもワックスか何かがついているので、わしゃわしゃはできない。

 仕方なく、キレイめコートの滑りやすい袖を引っ張って欲望を満たす。直接手を触れる勇気はない。徳が足りない。今世ではできる限り徳を積み、来世の自分を良くしたいものだ。


 ――もうちょっとだけ。


 悠の行きたいところはわかっている。公園内にある市民体育館だ。そこで、彼がずっと避けてきた、結衣を選んだきっかけの話をする。


 ひな子と結衣の間にあったことを、樹生から悠に伝えてもらった。ヒーローの佐伯 結衣がハリボテだと、もう悠は知っている。


 きっと、それでも良いのだと悠は言ってくれる。そんなものはきっかけに過ぎないからと。優しいのだ、彼は。


 ――でも、それはいつか駄目になるから。


 悠は良くても、結衣が耐えられなくなる。人の恋を横取りしたようなこの感覚を抱えたまま、厚かましく悠のとなりに立ち続けてはいられない。



 クリスマスマーケットの楽しい雰囲気を満喫するにも限界があって、とうとう商店街を後にする。

 午後二時半、ふたりは市民公園の入口にやってきた。


 広い芝生の広場には、この寒さの中でも遊ぶ家族連れがちらほら見える。ときおり吹く北風にひゅっと縮こまる大人たちに見守られ、元気な風の子たちが走り回っている。静かすぎなくて良かったと、結衣は胸をなでおろした。


 風が冷たい。もこもこアウターで守りきれない首が冷える。手持ちのマフラーは水色しかなくて、今日は意地でもつけないと決めた。


「はー、満足した!」


 努めて明るく、終わりを告げる。結衣は広場の隅にあるベンチに駆け寄り、ぺしぺしと座席を叩いた。


「古澤くん、ここ。ここにお座りください」


 どうぞと執事みたいな仕草で着座をうながすと、悠がくつくつと笑って座ってくれた。


「はい。次は?」

「クリスマスといえばー?」

「え、なんだろ。サンタ?」

「惜しいっ!」


 悠の隣に鞄を置いて、リボンをかけた赤い袋を取り出す。


「お納めください」

「佐伯さん……これはもしや」

「世にいう、クリスマスプレゼントというやつです」

「わっ、え、ほんとに!?」

「彼女なので!」


 ふふんと鼻高々に胸を張る。前世で徳を積めなかった人間に与えられた在庫ギリギリの忍耐を切り崩して、彼女という肩書を自分から主張した。


 しゅる、とリボンの解ける音がする。

 悠が袋を開けて、止まることなく、中にある箱の蓋も持ち上げた。


 これこそ、結衣のプランAリベンジの真髄しんずい。『前回よりちょっとは綺麗にできたよクッキー』である。

 厚さが均一にならず、型抜きにも手こずった。調子に乗ってトライしたアイシングは魔物を生んだ。でも味はいい。織音にも朱莉にも絶賛された。


 しかし、悠は硬直してしまった。

 結衣は悠の側にしゃがんで、ベンチに両腕を乗せて体重を預けた。外したかもしれないと、一気に不安が押し寄せる。


 結衣からすると永遠のような沈黙の果て、悠の指がクッキーをひとつ取った。最初に手に取るのがいびつなジンジャーマンとは、お目が高い。


「かたちはアレですが! 衛生面も気を付けたし、毒はないので――」


 カリッと。悠がジンジャーマンの右腕を噛んだ。かっ、こっ、と音をたててから、こくっと喉が動いた直後。


 悠の左目から、涙がひと筋、頬に線を描いた。


「古澤くん!? クッキー嫌いだった? まずい? 岩? なんか異物入ってた?」


 立て続けに問うと、ことごとく彼は首を横に振った。頬を手のひらで雑に拭って、ジンジャーマンの残りを食べ干す。


「……生きてて良かったなぁと思って」

「この不細工クッキーがそんなにも!?」

「そんなにも」


 悠はもうひとつクッキーを口に入れてから「あっ」と声をあげた。


「これって冷凍保存できるかな!」

「いや、食べてしまおう?」

「そっか。でも一日一枚にしたら年明けまでは」

「腐るから。食べよう?」


 見るからにしょんぼりした悠は、スマホを取り出してクッキーを写真におさめる。やたらと丁寧に蓋をして、再び袋に入れてリボンをかけた。

 鞄にそっとしまって、何かじんと染みたかのように胸に手を当てる。


「ありがとう」


 そして、ほふっと息をついた。


「交代してもらっていい? 俺からも渡したいものがあるから」


 それは結衣にとって、別れの言葉に近いものがある。復調途中の胃がしくりと痛み、手で押さえた。

 手のひらがとらえる鼓動がやたらに大きく思える。


 今日は、思うままに動いた。悠のことを考えながら、自分のやりたいことも譲らずに。


 ――喜んで、もらえたよね。


 涙するほどというのは理解できないけれど、間違いなく喜んでもらえた。ネコパフェも楽しそうだった。


 大丈夫。

 このままの佐伯 結衣だって、きっと。


 立ち上がった悠は緊張した面持ちで歩き出す。結衣はその後ろをついて、心拍数を急上昇させていく。


 ――言わなきゃ。


 二年前のあの日に悠がたどり着く前に。

 たとえ、彼がもう全てを知っていても。自分の口で。


 管理センターの横を過ぎると、体育館が見えてきた。そのまま歩き続けて、悠の足が体育館入口前で止まった。懐かしそうに見上げる彼の横顔が、怖いぐらい綺麗に見えた。


 ――全力で。自分の、全部で。


 ぎゅっと拳を握りしめる。


 届かなくても。今日の夜、朱莉と織音とグループ通話を繋いでみっともなく大泣きすることになっても。


 自分なりの恋をした。今日を逃げずに迎え撃ったと胸を張るために。


「古澤くん。今日楽しかった?」


 悠がこちらを向いて微笑みで応じる。静かな波みたいなその笑顔が好きだ。


「私だと、こんな感じです」


 足は重い。ブーツのかかとを滑らせるようにして、一歩前に出た。


「ここで古澤くんを助けた、古澤くんが好きになってくれた私は、私じゃなくてね。本当の私は全然、ヒーローなんかじゃないんです」


 ――まだ、泣かない。


 熱くなっていく頬に。じわじわと締まっていく喉に。わずかに残った結衣の忍耐を叩きつける。


 悠が体をこちらに向けた。結衣はゆっくりと前に進む。互いのつま先が六十センチの間隔になったところで足を止めた。


「だから、今日の私にひとつでも『違う』と思うところがあったなら。ここで古澤くんの彼女をおしまいにしたい」


 視界は少しだけ歪む。でも、まだ耐えられる。

 顔は見ない。見たら泣く。全自動浄化装置が結衣の意に反して、彼の同情を誘おうとする。

 六十センチ開いた地面だけを睨みつけるようにして、ニットの裾をぎゅっと掴んだ。


「だけど。もし、ヒーローの青でも、ひな子みたいなピンクでもない私といて、今日が満点に楽しかったなら。今度は古澤くんが私の彼氏をできるかどうか試してみてくれませんか」


 ひと息で出し切って、はっと息をついた。

 これで、全て。ただの佐伯 結衣として、本気で挑んだ。


 少しの達成感と、膨大な後悔が押し寄せる。顔を上げられないまま、じっと答えを待つ。


 緊張と怯えが時間を無限に引き伸ばす。急激に喉が渇いてくる。つばを飲むこくりという音が異様に大きく聞こえて、その音にさえ肩が震えた。


 悠の足が動く。

 六十センチの距離が、四十センチに変わる。


 冷えた指先に彼の指が触れる。

 こぼれ落ちそうな何かを拾い上げるみたいに、彼は結衣の右手を下から掬った。


「冷た……」


 今度は左手。両方の手をまとめて包むと、悠はさらに距離を詰めた。


「試す必要なんかない」

「でも!」

「佐伯さんを好きになった場所は、この体育館じゃないから」


 音のない息が結衣の口からしゅほっと出た。想定の範囲を半径二キロに拡張しても入らないような言葉のせいで、声帯は役目を放棄したらしい。


 何度も瞬きを繰り返す。

 慰めじゃないのか。彼の気遣いじゃないのか。

 そんな可愛げのない猜疑まみれの目を結衣が向けると、彼は「ほら」と笑う。


「簡単に言うだけじゃ納得しないと思った。佐伯さん、こうと決めたら頑固みたいだから」

「……だって……ここしか」

「大丈夫。なんとしてもわかって欲しいから、今日は俺なりにいろいろ用意してきた。ただ……」


 一度、言葉を切って。

 結衣を包み込む彼の両手が、少しだけ力を込めた。


「全部、終わったあとで。もし、俺にひとつでも『違う』って思うところがあるなら。遠慮はいらないから、ちゃんと言ってください」


 結衣が告げたものと近しい言葉を口にして、悠は結衣の手を引いて歩き出す。





 体育館が見えなくなり、レンガ調に舗装された歩道を歩くうちに、悠はぽつぽつと喋り始めた。


「無礼にもほどがある話だけど。体育館で怒鳴った佐伯さんのこと、奇特な人だなとしか思えなかった」

「え!?」

「水かぶったところでようやく、迷惑かけたなって。あとは、謝る回数が一回増えたなとか。感情があまり息してなかったらしい。かなりあとになって、柊吾にそんなこと言われた」


 テニスコート前、研修棟前を通過してしばらく。見えてきたのは、屋内プールのある建屋だ。 


「ここって……古澤くんと話した」

「良かった。少しは覚えててくれて」


 少しどころか、結衣の中では鮮明な部類に入る。シャワーを借りたあと、悠と話した場所だ。


 建屋の入り口から少しそれたところにある褪せたベンチに、悠は鞄をおろした。座面を手で軽く払い、汚れていないか確かめるようにしてから、結衣に座るよう勧めてくる。


 結衣が座ると、悠もとなりに座った。


「佐伯さんも見たとおり。女子は俺のこと珍獣扱いで、その分、男子からは疫病神扱いされててさ。こっちは三代遡っても日本人で、どっかの跡取りでもなくて、体硬くて、成績は中の上とか盛ったけど、実際は中の下なのに」

「あ、それ。ちょっと楽しかった」

「俺も楽しかったよ。佐伯さんがここで一緒にやってくれた、『普通』の証明」


 悠は種明かしを楽しむ子どもみたいに、ふふっと笑う。


「誇張抜きで、心臓って動いてんだなって思った。俺の感情を佐伯さんが動かしてくれた。ここが、好きの始まり」


 懐かしく目を細めた悠は、ふっと視線を地面に落とした。両膝を伸ばして、かかとでトンッと地面を打つ。


「でも。そのあと俺の感情はまた止まった。二年前の、誕生日の夜に」


 ベンチから立ち上がった彼は、結衣の正面に回り込んでしゃがんだ。膝同士がぶつかるほど近くから、結衣を見上げてくる。 

 そして、自分の前髪を軽く上げ、結衣にひたいをさらす。形の良い左眉の上に、大きく横に一線を引いたような古い傷がある。初めてのデートの前日、結衣が気づいたあの傷跡だ。


「怪我、したの?」

「自分で切った」


 息が止まったかと思った。

 結衣が目を瞠ると、悠はぱっぱと雑に前髪を下ろす。


「自棄を起こしてさ。うちの家族も朱莉の家も巻き込んで、柊吾に大怪我させて、みんな駄目にして。向瀬に受かったけど、もうどうでも良くて。全部終わりにするつもりで、最後に入学書類だけ取りに行って……そこで佐伯さんの受験票、拾ったんだ」

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