第42話 彼らの笑顔に夢を見た
土曜日の午後。
織音のところに泊まるのだと嘘をつき、大きめの鞄を持って家を出た。
向瀬駅で藤矢と待ち合わせ、ともに坂を上る。彼に手を取られることがないよう、両手はしっかりと組んで。学校を介しての警告が効いているのか、彼は以前より控えめな態度で朱莉に話しかけてくる。それでも緊張は緩めない。
カフェ『ねこだまり』は、その名のとおり猫尽くしの店だった。店長は渋めの壮年男性で、カウンターでネコの置物を磨いている。コースターには黒猫の絵。ティースプーンには猫の顔。メニューにもネコが走り、ショーケースの中に並ぶケーキの上にはネコのチョコレートが刺さっている。
相手が藤矢でさえなければ楽しめそうな、朱莉好みの隠れ家カフェだ。ただ、高校生にはお高い。八百円という値段におののきながらホットレモンティーを頼む。藤矢はホットコーヒーを頼んだ。コーヒーを飲めない身としては、やや負けた気分だ。
朱莉は飲み物の到着を待たず、早速封筒をテーブルに置いた。長居するつもりはない。
「これ、藤矢くんが撮影したものですか」
「そうです。英星大学の学祭に行って、たまたま見かけたので。推しさん、彼女さんがいるんですね」
「そんなことはどうでもいいんです」
「でも仁科さんは推しさんのこと好きですよね。だから僕と向き合ってくれない」
「そこも、どうでもいいんです。きっと説明しても理解はしてもらえないので」
声は下げる。冷淡に、平静に。ただ事実を事実として伝えるだけで、相手を震えあがらせることもできる。朱莉の師はそれを、ずっと昔に教えてくれた。
「藤矢くん。これは肖像権の侵害です」
「……ぇ?」
「あなたのやったことは、訴えられる可能性のある行為です」
朱莉だって、これが本当に民事訴訟として成立するとは思っていない。けれど、堂々と押しとおす。
「こういったことを平気でできる人を、わたしは信用しません」
勝手に写真を撮られることの不快と恐怖を、朱莉は知っている。それがどれほど人を追い詰めるのか、その先に流れた幼なじみの涙と悲鳴を覚えている。
「……僕は、ただ。仁科さんに事実をお伝えするために」
「ここに写っている男性は、わたしの恋人ではありません。知人です。彼の恋人の有無なんて、伝えていただく必要のないことです」
「でも、知らないままじゃ仁科さんはずっとこの人を追いかけるじゃないですか」
「わたしがこの人を推しだと言ったことだって一度もないはずです。あなたが思い込んでいるだけです。わたしの知人だというだけで、無関係な人にまで迷惑をかけるようなことをしないで」
気まずそうな様子の店員が、テーブルに湯気の立つコーヒーとレモンティーを置いて会釈する。ちゃんと輪切りにされたレモンが添えられていたり、小さなミルクポットも置かれたりして、高いだけのことはあるのだなと思った。
「だったら、僕はどうしたらいいんですか。何をしたら僕を相手にしてくれますか」
「どうしたって、藤矢くんを相手にすることはありません。これだけのことをされて、あなたを好きになることなんて、ありえない」
「それでも、僕は本当に仁科さんのことが。仁科さんの声が好きで!」
ここに至って、まだ彼は。
朱莉の声を好きなのだと言う。
「でもね、藤矢くん。この声は……偽物なんです」
あるいは、悠のように、結衣のように。
朱莉の本物を知って、それでも好きだと言ってくれたら。そんな人がいたら。朱莉だって、素敵な恋をできる日が来るのかもしれない。
――あなたなら、どう?
目の前のアーモンドアイが、真ん丸く見開かれている。いつも全力でこのメッキ声を追い求めてきた彼は、どんな顔をするのか。今初めて、朱莉は藤矢 涼平に関心を持った。
押さえつけた喉を解放して。すべての調整を外して。思うままに、この喉が、息が、声帯が生み出す声そのままを。
「この声が、わたしの。仁科 朱莉の本物です」
甲高く耳につく。甘ったるいクセがある。大人を小馬鹿にしていると言われた。ぶりっ子だと陰口を叩かれた。そんな朱莉の、持って生まれた声。
「とてもトラブルを生みやすい声なので、普段はいっさい使いません。藤矢くんが今まで聞いていた声はすべて、わたしが訓練して身につけた武装です」
藤矢は口を薄く開いたまま、朱莉の顔をまじまじと見た。
「……からかってます?」
「いいえ。真実をお伝えしています」
いつの間にかソファから立ち上がっていた藤矢は、拳をかすかに震わせた。
「僕を、騙していたんですか」
「騙すつもりなんてありませんでした。わたしにとってこの声を隠しておくことは、みんなと普通に過ごすために――」
ガチャン、とカップが転げる音がした。
次に、痛いと思った。
なんだろうと左手を見たら、白い袖口がコーヒーを吸って茶色く変色していた。
じりじりと、痛みが侵食していく。
「っ……ぁ、つ」
「卑怯者」
藤矢の辛辣な言葉に、目を瞠る。
「ご、めんなさ――」
「聞きたくない。気持ち悪い」
強く痛みを感じ始めた左手を押さえて、肩を震わせる。もしも受け入れてもらえたら、なんて。そんな夢みたいなことが、どうして思えたのか。
――ああ、そう。夢を見たの。
友人たちの素敵な恋に。ありのままを受け止めて、一緒に歩いていく姿に。その笑顔に、自分を重ねたかった。
「お客様!」
駆けつけた店員が朱莉の手に、タオルに包んだ保冷剤を当ててくれる。
朱莉を上から睨みつけていた藤矢は、鞄を掴んで立ち去ろうとした。
そんな藤矢の前に男が立ちはだかる。あまりにも昨日までの姿と違うから、それが誰なのか、すぐにはわからなかった。
ちょうど眉にかかるぐらいの下ろした前髪も。スッキリとしたサイドや襟足も。ほんのりパーマのかかった遊び心のある毛先も。レイヤーカットなる、段が重なったようなスタイルも、髪の束感も。
朱莉が見せたのだ。こういうのが、彼には似合うんじゃないかと。
「柊、ちゃん……」
地声で呼びかけても、柊吾は返事をしなかった。無言のまま藤矢の胸ぐらを掴んだ彼は、低音に下げきった声を荒ららげることなく静かに告げた。
「二度と関わらないでくれ。きみに朱莉の声を聞かれたくない」
どんと突き放された藤矢はたたらを踏み、ぎちりと奥歯を噛み鳴らした。
「言われなくても……こんな詐欺師、こっちから願い下げですよ」
吐き捨てるように言い、柊吾の横を通り抜けた。カランというドアベルの音を、朱莉は背中で聞く。
「お客様、どうぞ奥へ。きちんと冷やさないと」
「ごめんなさい、ソファにもかかってしまって」
「そんなことはお気になさらずに」
心配そうに眉を下げた店員の顔に、あれ、と首をかしげる。写真の彼女は衣装に合わせた濃いメイクを施していた。そのため雰囲気はやや異なるが、妙に確信がある。
――この人だ。
藤矢が撮った写真に写っていたのは、この女性だ。
朱莉が呆然と店員を見つめていると、その店員の肩に柊吾が手を添えた。
「都美。俺が変わる」
「ぁ、でも」
「連絡くれてほんとに助かった。あとはこっちで引き継ぐから。会計は俺にツケといて」
都美と名前で呼ばれた店員は、こくこくとうなずいたあと伝票を持って走っていった。入れ替わりに朱莉のそばにしゃがんだ柊吾が、上腕をぐいっと掴んでくる。
「立って。朱莉」
「……ぁ」
「早く。痕にしたくないから」
強引に店の奥へ連れて行かれる。
従業員用の手洗い場に連行されたかと思えば、コーヒーを吸った袖口もろとも蛇口の水を浴びせられた。
「冷たいだろうけど、このまま待って。着替えになるもの借りてくるから」
まだ声は低く保ったまま。淡々と告げた柊吾は、店のほうへ戻っていった。
ひとり残されたら、藤矢の冷たい声がどこからともなく降ってくるような気がした。
――卑怯者。
彼のやり方はあまりにひどかったけれど。あんなに熱心に自分のことを追いかけてくれる人なら、もしかしたら。そんな、馬鹿な期待をかけた。
手洗いシンクに、ぱたぱたと涙が落ちる。悪意を持って柊吾にカメラを向けるような男に期待をかけて。そうまでして、自分は恋が欲しかったのか。
――本当だ。卑怯だ。
柊吾が腕を組む可愛らしいリリーティアを見た瞬間、心臓を裂かれたかと思った。その痛みを消すために、いつかの夕暮れに抱いた焦がれを上書きしたいがためだけに、藤矢 涼平を利用しようとした。
「朱莉」
柊吾の声に、びくりと肩を震わせた。
朱莉がおずおずと顔を向けると、柊吾は目を丸くしてタオルを朱莉の顔に当てた。
「泣かなくていいよ。聞く必要のない言葉だった」
それから朱莉の左手に目を落とし、ため息をついた。
「あと少し頑張ろうか。中尾寺の駅前の皮膚科なら今日も夜診やってるみたいだし、おじさんたちに連絡入れとくから保険証とか持ってきてもらおう」
そこに、さっきの店員が入ってきた。
「柊さん、これ。私の制服の予備で良かったら」
「ありがと、都美。片付け任せて悪いね」
「大丈夫です。あと鞄を。テーブルの上にあった私物らしきものとか、スマホとかも全部入れておきましたので」
「助かる」
都美が朱莉に笑顔で会釈して、店内に戻っていく。
「冷やしてから、更衣室借りて着替えて帰ろっか……あ、ここ俺のバイト先って話してなかったっけ。都美は大学の研究室も同じでさ」
都美、と。また名前を聞いた。
彼のリリーティアをやっている、可愛らしい女性。ミルクティ色のロングヘアが、やっぱりどこか三次元離れしている。
朱莉は無傷の右手を伸ばして、短くなった柊吾の髪に触れた。
「あ! そうだよ、どうどう? 柊吾くんちょっと若返ったことない!? ほんとついさっき完成したとこ。せっかく月曜日の朝のサプライズにしてたのにさー。こっちがサプライズ食らうと思わないじゃない」
素敵だなとシンプルに思った。自分の見立てに感心するぐらいだ。
都美という彼女のために変身した柊吾は、誇らしげにえくぼを作った。
「ね、どう?」
長年の推しの新しい魅力を前に、朱莉の脳が限界を訴える。苦しいほどに似合っている。
朱莉は引き結んでいた唇をこじ開けた。肺から息を送り出し、気管をとおし、喉に当てて。
そこで、息が引っかかった。
この感覚を知っている。小学生の頃何度も味わった。このままでは声が滞る。ぎゅっとまぶたを閉ざして落ち着けと自分に言い聞かせる。
――自分で、越える。
もう彼に守られずに。彼に導かれずに。いい加減に自力で乗り越えろと自分を奮い立たせ、息を押し出した。
「すご、く……かっこいいよ」
音になったことに安堵した。
使ったのは、低く下げた作り声だ。これでいい。彼には大事な人がいるのだから、朱莉が乃愛に似た声で彼の気を引くべきじゃない。
「朱莉? さっき言われたこと、気にしてる?」
「ちがう」
「じゃあ急にどうした? いつもみたいに地声で大丈夫だって。ほら、このお兄さんに聞かせてごらん?」
彼には大事な彼女がいる。彼は彼女のためなら、ここまで大胆に容姿を変えることをためらわない。素敵な恋だ。推し事帖にどんどん書き込むべきものだ。
なのに、楽しんで見守れない。柊吾の恋だけがどうしても推せない。同じ幼なじみでも、同じ恩人でも、悠の恋はこんなに楽しめるのに。
「いつまで、妹?」
兄同然という、柊吾だけが持つ特殊性。それがきっと朱莉の推し事の邪魔をしている。
戸惑い顔の柊吾の左手が、朱莉の頭をいつもみたいにくしゃっとなでた。
「朱莉が大学卒業するまでかな。それまではしっかり兄としてサポートしますよ」
「……そ、っか」
あと四年以上も。気の遠くなるような数字に、悔しさと安堵が同時にやってくる。妹でいたくないと思いながらせめて妹でいたいなんて矛盾が、あまりに醜くて指先が震えた。
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