第43話 隣家の息子、恩を返す

 * * *


 週が明けると十一月になった。


 藤矢に義理をとおすつもりで送った謝罪のLINEメッセージは、二日たっても既読がつかなかった。Webで見つけたいくつかの確認方法を試して、藤矢が朱莉のLINEアカウントをブロックしたのだろうと判断した。


 左手の火傷は応急処置のおかげで軽く、水ぶくれにならずに済んだ。長時間の水浴びの成果か、日曜日は風邪で一日を寝て過ごし、起きたら喉が潰れていた。


 目に見えない誰かが朱莉の願い事を過剰に叶えてくれて、かすれ声の合間に素晴らしいハスキーボイスが出る。ハスキーすぎて道行く人の関心を集めるので、復調するまでささやきで通すことにした。


 ほとんど吐息のささやきには、とてつもなく大きな利点がある。


「ん、なになに?」


 朱莉が口を開くと、結衣がすいすいと寄ってきて耳を貸してくれるのだ。会話のデフォルトが内緒話になることで、友人との距離がぐっと縮まる。この吸引力を前にしては、掃除機の有名メーカーも裸足で逃げ出すに違いない。


「……俺、ちょっと嫉妬に焦げるかもしれない」


 複雑な顔の悠に、優越の笑みを向ける。へへーと笑う結衣が可愛い。


 三日間経過を見て、通学時の警戒態勢を解除した。念のため出発時間は早めて家を出る。悠と一緒に電車に乗って、向瀬駅からは結衣とも合流する。


 帰り道も通常ルートに戻し、ときどきコロッケ欲しさに回り道をする。


 少しずつ日常を取り戻す中、ひとつだけ諦めたことがある。


 朝六時四十分。朱莉が家の門を開けるとき、隣家の二階の窓がからからと開く音がする。その音を背中で聞きながら、朱莉は中尾寺駅へ向かって歩き出す。


 もう、彼を見上げることはしない。

 彼の恋を推せない自分に、彼を推しと呼ぶ資格はない。





 声の回復を待っていてはいつになるかわからないので、土曜日の昼さがりに母、友恵とカフェ『ねこだまり』を訪ねた。先週の騒ぎの謝罪と、借りていた制服の返却のためだ。


 朱莉と好みの似通った友恵は『ねこだまり』の内装にすぐさまテンションを高める。朱莉は朱莉で、前回は落ち着いて見られなかった天井のペンダントライトなんかを見上げる。ステンドグラス調のライトカバーにしっかり猫がいる。どこまでも可愛いお店だ。


 渋く寡黙そうな印象の店長は思いのほか良く喋る、果ては好々爺と呼ばれそうな人柄だった。謝罪金は固辞したあと、菓子折りはウキウキと受け取ってくれた。


 すぐに帰るつもりだった朱莉たちは席に案内され、ドリンクを一杯ご馳走になってしまった。これでは謝罪に来たのだか奢られに来たのだかわからない。


「なんだか、逆に申し訳ないことになっちゃったねぇ」


 困り顔の友恵の前に、チョイス用に全種類のケーキをひとつずつ乗せたカバー付きプレートが置かれる。


「良いんです。ちゃんと俺のバイト代から引かれるので気にしないでください。しかも従業員割りですし」

「あらぁ! 柊くん!」


 腰から下だけのカフェエプロンに、黒パンツに白シャツ。カフェ店員の装いがこれほど似合うホモサピエンスが他にいるだろうか。


 ――いや、いるわ。ハリウッドとかにゴロゴロしてるわ。


 相変わらず彼に対して加点が効きすぎている自分の目を軽くこすった。


「朱莉もおばさんも、ひとつずつ選んでください。当店おすすめはガトーショコラですが、俺はレモンパイも捨てがたいです」

「えー、どっちにしようかな。柊くん奢ってくれるの? いいの?」

「おばさんにバイト代で奢ったりするの、昔から夢だったんです。いろいろあってすっかり遅くなっちゃいましたけど」

「もー! となりにまで孝行息子!」


 友恵がご機嫌でケーキを眺めてあれこれつぶやくのを横目に、朱莉はスマホのメモアプリを立ち上げた。


【今日みやびさんは?】

「ああ。今日はラストだから夕方にならないと来ないよ……ってか、朱莉、まだ声だめなんだ?」

【ささやきしか無理】


 続いて打ち込もうとした朱莉の手を軽く押さえて、柊吾はソファのそばにしゃがんだ。


「直接言って。どれぐらい声出るのか知りたい」


 そう言って、どうぞと耳を寄せてくる。さっぱりと短くなった髪は彼の頬も耳も隠してくれないので、手を添えるとうっかり朱莉の手が肌に当たってしまう。


「みやびさんにもお礼言いたかったんだけど」

「あー、そうか。じゃあ制服だけは今日もらっとくし、都美にはまた相談しとくよ。わざわざこっち来なくても、向瀬の正門前とかでも良いんだし」

「でも、お詫びなのに」

「あのね。本当に詫びに来るべきなのは、朱莉でもおばさんでもなく、瀬ノ川の彼だからね? まぁ都美も会いたがってたし、近々会えるようにするよ」


 朱莉の頭をくしゃっとなでたあと、柊吾は立ち上がってオーダーシートを出した。


「で、どうします?」

「じゃあお母さんはガトーショコラにする!」


 朱莉は柊吾のおすすめのレモンパイを指さした。


「はい、かしこまりました。少々お待ちくださいね」


 カウンターに入っていく柊吾を目で追いかけて、友恵はほぅっと息をついた。


「やーっぱりかっこいいねぇ、柊くんは」


 うなずいていい場面かわからずに、朱莉は微笑でごまかした。すると、友恵はどうしてか寂しそうな顔をする。


「そうだ! 今度柊くんとお礼兼ねて遊びに行って来たら?」


 それの何がお礼なのかと朱莉は軽く身を引いて、ぽちぽちとスマホを叩いた。


【迷惑だよ】

「そんなことないわよ。柊くんなら喜んでくれると思うけどなぁ」


 今回柊吾が救いの手を差し伸べてくれたことで、友恵に妙なスイッチが入ってしまったかもしれない。この母は昔から柊吾をことさらに気に入っている節がある。


 現実を見て欲しいと、我が母に呆れる。この数週間の彼は、長年仁科家に世話になったという恩義とか、妹分の受験成功という使命感に燃えてくれたのだ。


【柊ちゃん、彼女いるから】


 朱莉がメモを見せた途端、友恵が勢いよく立ち上がった。


「ええ!?」


 母がこんなに驚くところを初めて見たかもしれない。朱莉が身振りで座れと説くと、友恵はあたふたと周りを見回しながらソファに沈んだ。


 いくぶん声を落とし、前のめりで尋ねてくる。


「ほんとに? 勘違いじゃなく?」

【古澤 柊吾ですよ。世の中が放っておくと思う?】

「いやいや。世の中が追いかけても、あの柊くんよ? 何かの間違いじゃないの? 一年中推しTシャツのあの柊くんに三次元彼女? それってほんとに生きてる人間?」


 柊吾に対する友恵の印象がありありとわかる反応である。仕方ないなと、内心で柊吾に詫びながらささやかな暴露を打ち込んだ。


【コスプレイヤー】

「……ぁあー……」


 納得のあぁが友恵の口からひょろひょろと繰り出された。相手が二・五次元となると信憑性が跳ね上がる。これが、仁科家から見た古澤 柊吾像だ。


 朱莉は苦笑して、前回飲み損ねてしまったホットレモンティーに口をつける。背伸びしたところで、いつも常備している三十パック入りの安い紅茶との違いはわからない。


 そこで柊吾がカウンターから戻ってきて、朱莉たちのテーブルにケーキを置いた。


「朱莉がレモンパイで、おばさんが……え、どうしてさっきの今でそんな剣呑なんですか」

「柊くんがいつの間にか女泣かせになったなって思ってるの」

「……なんです? 朱莉、なんかあった?」


 朱莉が苦笑して首を横に振ると、柊吾は困り顔でテーブルに手をついてしゃがんだ。


「なんかあるなら言ってくださいよー」

「柊くんが、さぞやモテるんだろうなぁって話よ」

「記憶にないですし、モテたいとも思わないんですが?」


 友恵はじっと柊吾の顔を見て、ふっと顔をほころばせた。


「柊くんに何かお礼しなくちゃね。リクエストない?」

「それはもちろん、朱莉の大学合格です」

「欲のないお兄ちゃんねぇ」


 別のテーブルから声がかかって、柊吾は返事をしながら向かっていく。


 朱莉は奢ってもらったケーキにようやく視線を定めた。

 レモンパイを真ん中に据えた白い皿に、チョコレートで猫の足跡が描かれている。この可愛い仕込みを柊吾がしたのだろうかと想像したら、なんとなくイメージにそぐわなくて可笑しい。


 レモンパイをひと口味わう。柊吾のおすすめは、なんとも朱莉好みの味がした。




 帰り際、柊吾にカフェの外まで見送られる。


「ごちそうになっちゃった。ありがとう柊くん」

「いえ、とんでもない。お気を付けて」


 朱莉も軽く手を振って、友恵と一緒に歩き出す。


「あ、朱莉」


 呼び止められて振り向いたら、柊吾はしまったという顔で口元に左手を持って行った。手の甲の傷痕が朱莉からよく見える。


「……最近。朝、元気出ないとか、そういうことない?」


 歯切れの悪い問いに、朱莉は首を横に振って答える。むしろ、厄介な問題が片付いてすっきりとした朝を迎えている。


 けれど柊吾はやっぱりどこか気まずそうに「そっか」とだけつぶやいた。

 そんな様子を見ていた友恵が、一歩彼へ近づいた。


「ごめんなさいね、あのとき私たちが間違えてしまったから、ちょっと手こずると思うわ」


 言葉に詰まる柊吾を置いて、友恵は朱莉の元に戻ってきた。朱莉が戸惑って柊吾と母を交互に見ているうちに、くるりと店に背を向けて歩きだしてしまう。慌てて追いついたら、友恵はどこか寂しそうな顔をしていた。


「朱莉も、ごめんね。あなたがちゃんと笑ってるところ、母さんずっと見てないね」


 急に何を言い出したのだろうと思い、友恵の横顔を見つめる。友恵はそれ以上何も言わず、ただ微笑んでいた。

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