第44話 推しを参考に動いてみる

 * * *


 週明けの月曜日。

 あ、と出した作り声はやや低いものの回復したといっていいレベルだった。


 今日からは時間を遅らせて、朝六時五十分に家を出る。結衣は残念がってくれたが、朱莉とていつまでも推したちの貴重な逢瀬にお邪魔し続けたくはないのだ。


 朝七時に戻さないのは、電車のピークタイムを避けるため。七時のあくびを見上げなくなった今、最も混雑する時間にわざわざ乗っていく必要がない。


 玄関をそろりと開けて隣家を見たら、どうやら窓は閉まっているようだった。朱莉はいつも開くところしかみないので、あの窓が何分後に閉まるのかを知らない。うっかり遭遇するのを避けたくて、慎重に行動を開始した。


 そうしたら、隣家の玄関ドアが開いた。せっかく朱莉が気を利かせたのに、悠ときらた寝坊したのか。そう思って待機したら、ドアからひょこりと出てきたのは柊吾だった。


「あ、よかった。おはよ」


 何が良いものか。えくぼ全開の柊吾の顔を恨めしく半眼で睨む。


「朱莉? 挨拶は大事だよ。ご近所付き合いは日々を円滑にする基本だよ」

「……おはようございます」

「はい、おはようございます」


 そして、柊吾は何食わぬ顔で門を出る。


「ほら、電車乗り遅れるよ」

「ほらじゃなくて」

「じゃあ、はら?」

「はらでもなくて!」


 荒い足取りで門を出て、ガシャンと大きな音を立てて閉める。


「どうして柊ちゃんがここにいて、なぜ今から出かけるの?」

「今週からバイトの朝シフトなんかを入れてみたから」


 あの猫尽くしなカフェはモーニング営業もしていたか。反論の余地なく朱莉はぐぬぬと拳を握った。

 ふいっと柊吾から顔を背け、速足で駅へ向かう。


「あ、ちょっと! 朱莉ぃ、なぜに俺を置いていくの。泣いちゃうよ!?」

「柊ちゃんと一緒に駅まで歩く理由がないからですが!」

「えー。俺が一緒に歩きたいんじゃダメ?」


 アスファルトの窪みに危うく足を引っ掛けるところだ。


「柊ちゃん……この年で兄と歩きたい妹はいないのよ」

「えええ! いるよ。『うちのさすがすぎる兄が毎度ご迷惑をおかけします』のマリンちゃんはうきうきで歩くよ!」

「マリンちゃんの中の人は乃愛ちゃんなのね?」

「朱莉、天才?」

「経験則よ。うちの母でも当てると思うわ」


 もう、と朱莉は脱力に肩をすこんと落とした。


「いいわよ。歩けばいいんでしょ?」

「やった」


 今日の柊吾は子どもっぽい。あの騒動の日も土曜のバイト中も大人感の強い柊吾を見たから。そのギャップにくじけそうだ。

 もう彼を推すわけにもいかないというのに。当の本人は呑気でマイペースに魅力を垂れ流すから困る。



 行き先が同じだから仕方のないことだが、当然車内でも一緒だ。

 彼と同じ電車で通学するなんて、推し事中にもなかったというのに。


「まだ声治らないの?」

「そんなことないわよ。今普通に話してるじゃない」

「そっちじゃなくて。地声」

「……乃愛は休業中」


 あれ以来、地声はつっかえて出せない。作り声のほうがよほど素直に出せる。


「朱莉さ。そもそも、なんで藤矢くんとふたりで会うことにしたの」


 思わず身を固くした。あの写真のことはまだ誰にも話していない。見知った顔が写っているものを勝手に処分するのは気が退けて、鞄の中で寝ている。柊吾に渡すのも抵抗があって、いずれ都美というあの女性と会える場を設けてもらったら返そうと思って持ち歩いているのだ。


「早く、終わらせたかったから」

「それだけ?」


 うなずいたら、柊吾は難しい顔をして車窓の外を見つめた。その横顔をちらりと見上げる。彼の耳はこんな形をしていたのかとか、あごのラインはこんなにすっと美しいものかとか。ついつい推し事を再開しそうになってしまう。


「朱莉? 俺、顔に穴があきそうなんだけど」

「いいなと思って」

「何!? 髪!?」

「そう」

「よかったぁ。この間ほら、サプライズがあんな感じでグダグダになったし、朱莉はあれから何も言わないし。似合わないのかってけっこう気にしてたんだよ」

「あの人にも、褒められたんじゃない?」

「ん?」

「バイトの。都美さん」


 柊吾は一瞬頭にひよこでも舞わせたような顔をしてから、ぐっと朱莉に顔を寄せた。


「なんか、誤解してない?」

「何が?」

「いや、都美は研究室とサークルとバイトがかぶってるだけだよ?」

「すごくかぶってるわね!?」


 予想以上の一致率に驚いた。それは親密にもなるはずだ。


「あとね。彼女は俊也さんの妹で」

「え、じゃあ高砂くんのお姉さんってこと?」

「うん。俺、俊也さんとは飲み友で。だから必然、親しくなった」


 だからと言って、キスを交わす仲にはなるまい。どこのアメリカンだという話になる。アメリカに対する偏見が多分に籠っているので、今夜の朱莉はきっと自由の女神に襲われる夢を見る。



 十五分の登坂を元推しと過ごす日が、こんな形でやって来るとは思わなかった。気まずいなんて物じゃない。誰か助けてくれと心で叫んだら、思わぬギフトが後ろから飛んできた。


「朱莉先輩だー!」


 その低い声にときめかずにはいられない。くるりと振り向いたら、可愛すぎる一年生男子が手を振っている。可愛いと言っても高身長。結衣と目鼻のパーツは似ていながら、全体としてはやや精悍。


 結衣の弟、啓史けいしだ。


 走り寄ってきた啓史は柊吾に気付いて、しまったという顔をした。遠目には、私服の柊吾を朱莉の連れだと思わなかったのだろう。


 せっかく現れた救世主を逃がすわけにはいかない。朱莉のほうから少し坂を下りて、啓史を迎えに行く。


「おはよう」

「おはようございます。てっきりひとりだと思って。ごめんなさい」


 この素直さも気配りも、結衣と同じ環境で育ったのだとよく分かる。三年と一年ではどうしても交流が少ないのが残念だ。関わる機会があれば全力で愛でるものを。


「今日はバスケ部の朝練なし?」

「もともとないんです。勝手に自主練で出てるだけで」


 と、足を止めていたら、柊吾が朱莉のとなりまで下りてきた。


「朱莉。彼は?」


 やけに冷たい声がする。何事かと思ったら、柊吾の横顔に警戒の色が見えた。そんなに構えずとも良いだろうにと、朱莉は柊吾の袖を軽く引っ張る。


「無害。無害。結衣の弟くん」

「……ぁ、あ! じゃあきみが啓史くん!?」

「え、はい! 佐伯 啓史……ですけど。もしかしなくても古澤先輩の?」

「兄ですー! うわー! 初めて会えた!」


 正体が知れた途端、警戒ゼロでシェイクハンドを交わすフレンドリーな柊吾になった。啓史も笑顔で応じた後、朱莉と柊吾を見比べて慎重そうに口を開く。


「もしかして俺、邪魔しちゃった感じですか?」

「いいえ。ご近所付き合いの一環だから気にしないでちょうだい」

「朱莉ぃ、その言いかたは冷たすぎない?」

「事実でしょうに」


 そんな朱莉と柊吾のやり取りをしばらく見ていた啓史は、にこりと笑って歩き出した。


「今日、一時間目から小テストなんで。先行きます。先輩もお兄さんもまた!」


 最高に爽やかな笑顔とともに、救世主が走り去ってしまった。


「あぁ……」


 朱莉がその後ろ姿に思わずうめくと、柊吾に背中をぽんぽんと叩かれる。


「俺、遠慮したほうが良かった?」

「どうして柊ちゃんの配慮がいるのよ」

「ずいぶん仲よさげだったから俺こそ邪魔したかなと」

「結衣の弟よ? 愛でる以外の選択がある?」

「そういうもの?」

「柊ちゃんが弟妹を愛でるのと同じ」

「そう……なら、良いんだけど」


 何か引っかかるのか。すっきりしない柊吾の声に、朱莉はまた彼の袖を引いた。


「藤矢くんみたいな何かじゃないわよ?」

「うん……だから余計に心配……」

「柊ちゃん?」

「いや、こっちの話。俺たちも行こうか」



 そうして結局、正門前で別れるまで新たな救世主は現れず。

 バイトへ向かっていく柊吾の背中をしばらく目で追い続けて、朱莉は長々とため息をついた。

 推し事のやめ方なんて参考書があったら今すぐ脳にインストールしたい。



 * * *



「あかりん、完全エネルギー切れじゃん。どうしたの」


 昼の即席食卓に突っ伏していたら、目の前にどすっと巨大なパンが置かれた。麦わら帽子のような形で、織音の顔面が隠せるほどの大きさである。


「織音、これなに?」

「カバの帽子パンだって。チョコチップついたパンが欲しかったんだけど、これしかなかった」

「大きすぎない?」

「いいのいいの、残ったら全部樹生が胃に収めてくれるから」

「人を残飯処理場みたいにすな」

「おやおや、樹生。いらないんだ?」

「食べますけど! 食べますけどね!」


 相変わらず仲がいいなぁと眩しく眺めていたら、もう何もかも考えるのが嫌になってきた。朱莉はぐったり突っ伏したまま「んー」と唸った。


 その目線にちょうど合う位置まで、結衣がしゃがんでくれる。


「朱莉。もう、藤矢くんのことは解決したんだよね?」

「そっちはもうすっきりさっぱり」

「じゃあ今度はどうしたの?」

「……うん。ちょっと、ね。推し事の難しさを痛感しているところよ」


 こんなにすっきりしないとき、推したちはどうやって乗り越えていただろうかと推し事帖をめくってみる。


 もやもやしているときの織音は、だいたい吠えているか食べている。どちらも朱莉向きではない。

 結衣のほうは長期戦で悩みがちだが、時々大胆に舵を切る。


 そう、切るのだ。


「そうだわ。高砂くんよ」

「え、オレ何やらかした?」

「高砂くんの友情割り。わたしだけ恩恵にあずかってないんだけど」

「ほん? 兄貴んとこ?」

「今こそ使いたい。使わせてください」


 結衣が目をぱちりとさせて、朱莉の腕をつついてきた。


「どうしたの急に」

「わたしに必要なのは厄落としだわ」

「いいじゃん、あかりん。瀬ノ川ボーイなんてでっかい厄食らったんだし、落としといたほうが良さそ。ほれ、たっつ、俊也さんに聞け」

「人を犬みたいに言うなて」


 不満を垂らしつつ、樹生がぽちぽちとスマホを打つ。と、すぐさま樹生のスマホがふるふると揺れた。


「ん……ぉー、今日の今日て無理やろ」

「行く行く」

「えー、めっちゃ前のめりやん。まぁええけど。姉貴もおるらしいけどええ?」

「もしかして、都美さん?」

「あれ。あかりんちゃん、知り合いやったっけ」


 朱莉はうなずいてから、鞄を開けて中を確かめる。ちょうどお誂え向きに写真も持ってきている。願ってもない機会だ。

 

 そうと決まれば、早速髪型選びである。


「オーダー聞いてもらえるっていってたわよね」

「うん。私のざっくりしたお願いでも、いつもイイ感じにしてもらえるよ」

「よしよし。楽しくなってきたじゃない。これよ、これ」


 美容室予約もできる美容系のサイトに飛んで、検索ランキング上位から順にスタイル写真を見ていく。服や髪型を見たりするのは元々好きなのだ。眺めているだけで気分が高揚するから、暇なときによく検索して回る。


 いつの間にか結衣も織音も一緒になって、これは、あれはと提案をくれる。そんな中ついに、朱莉の目を引き付ける写真に出会った。


「これ! これで行く!」


 直後、四者四様の叫びが、昼休み終わりのチャイムをかき消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る