第59話 全ては残念から始まった

 * * *


 高校二年、十月。

 第三火曜日。

 友人である佐伯さえき 結衣ゆい仁科にしな 朱莉あかりと公民館の自習室で勉強会をしたあと。


 織音おとは両腕をさすりながら、どん底の気分で線路沿いを歩いていた。


【 ゆい >> ありがとう。無理させてごめんね 】


 高校で出会った大事な友人が、気遣いが詰まったLINEメッセージをくれる。ぽちぽちとスマホ画面を叩いて、気にしないでとメッセージを返す。


 気分が落ちきった原因は、昨日その存在を認識したばかりの同級生、高砂たかさご 樹生たつきだ。月曜日に彗星のごとく現れた結衣の新彼氏、古澤こざわ はる――の、希少すぎる友人である。


 前日の昼休みに言葉を交わした時は、関西味溢れるテンポの速い会話が面白かった。あのときの樹生はおそらく、織音と会話したかったのではない。自分たちがじゃれ合うことで、初々しい友人カップルが過剰に注目されないようにという意図が見えた。


 織音は自分の容姿が一定数の男子を惹き付けることを理解している。立てばなんとか座ればなんとかで、清楚可憐な大和撫子を期待して異性が寄ってくる。織音の実態は大和撫子どころか獅子舞ししまいの獅子みたいなもので、陽気にカパカパ噛みついているうちに皆散っていくが。さすが獅子舞。邪気は自力で祓える。


 何にせよ、そういう異性の反応は、本人がどれだけ隠そうとも見える。だいたい目でわかる。織音を品定めする男子の目は、特有の粘り気を持つ。


 初対面の樹生には、その粘りがなかった。


 そんな樹生と自習室で鉢合わせた。ここぞとばかりに仲良くなってやろうと、織音から距離を詰めた。織音なりに、これまで不遇の限りを尽くしてきた結衣の新しい恋を、友人として盛りたてたい一心だった。


 果たして、目論見は大きく外れる。


 樹生のシャーペンが織音の髪を引っ掛けたところまでは偶然だろう。そのあとがいけない。あろうことか、彼はその偶然を大義名分にして、織音の髪に触れようとしたのだ。


 全身を嫌悪が支配していき、心音はうるさく、頭は冷えた。

 指先から凍りついていくような心地だった。


 結衣が止めてくれなければ、絶叫を上げて樹生をぱかすか殴るなり、蕁麻疹じんましんにもだえて即退場するなりしていたことだろう。異性が髪に触れるのを耐えられない。肌までなら嫌悪感で済むのに、髪となると体に異常を来たす。痛覚もないくせにどれだけ主張するのだと、織音自身がいちばん問い詰めたい。


 面倒な体質だ。内側では獅子が荒ぶり舞い踊るのに、外側は怯えて毛を逆立てた猫になる。


 その後こちらにヘアゴムを渡す樹生は、指先すら触れないよう丁寧に対応してくれた。空気をきちんと察せるし、悪い人ではないのだろう。それだけに、わざわざ手ずから織音の髪を結おうとした彼の行動が残念でならない。



 ようやく落ち着いてきた肌をゆっくりなでながら、線路沿い北側の道路を歩いてしばらく。


「三原!」


 ひとり歩いていた織音を、南方面へ帰宅の途に就いたはずの樹生が追いかけてきた。すでに駅で解散してからけっこうな時間が経っている。


 まさか送り狼になりたいタイプだったのだろうか。再びやる気をみせ出した嫌悪感を腹の底に叩き落とし、織音は驚き顔を作って振り向いた。


「え!? 高砂くんじゃん、どしたの」

「取り繕わんでええし。ほんまごめん、気ぃ悪かったやろ」


 はっと息を切らした樹生は、織音と人間ふたり分ぐらいのスペースをしっかり開けて足を止めた。一度眼鏡を外して、軽く眉間を押さえる。そして、眼鏡をかけなおして「えーと、な」と切り出した。


「今から、言い訳しますが。聞いてもらってよろしい?」


 不思議と、そのひと言で嫌悪と寒気がいくぶんか和らいだ。

 

「うい、よろしい」


 織音があっさりうなずくと、樹生は一瞬虚を突かれたような顔をしてから、すっと真剣さを瞳に宿した。


「オレな」

「うん」

「兄貴が美容師で。ほんで姉貴がコスプレイヤーでな」

「急に濃い話来るじゃん!?」


 真面目くさった顔で何を言い出すのかと思えば。

 織音が食いついたら、樹生は待て待てと手のひらを突き出して制した。


「兄貴の仕事眺めつつ姉貴のコスの手伝いしとるうちに、ヘアアレンジ沼にずぶずぶハマってもて」

「ははぁ?」

「三原の髪、あまりにもアレンジしたくなる髪質でな。ほんで三原がノリええもんやから、ちょい遊ばしてもらえたらーて。もちろん先に許可取りはする気やったけど、それでも、調子乗って距離感ミスったんは間違いない」


 ぱちんと両手を合わせて拝むように頭を下げられる。


「以上。あまりに軽率やった。ほんま、すいませんでした。納得はいかんやろうけど、オレのことで、こざ……古澤の評価を下げんとってもらえたら助かります」


 おやおや、と。織音はまばたきを繰りかえして樹生を見た。言い訳と前置いたからには、織音の髪なり容姿なりを褒めて、機嫌を取りに来るものと思っていたのだ。

 自分の評価修正はいっさい必要ないと言わんばかりの謝罪が、織音の好奇心を刺激する。あいかわらず織音のことなど眼中になさそうな目もいい。最後の言葉なんか、実に共感できる。


「や、わかるよ。あたしだって、ゆいこが楽しくやれるように、高砂くんと仲良くしたほうがいいよねーとは思ったもん」

「わざわざオレのとなり座ったんは、そういうことやろなぁて思た。思たのになぁ。こっちが暴走してもた。いじりがいありそうやなぁて邪念に負けた」

「そんなに魅力的か! アレンジ大好きじゃん」

「オレの中で唯一、他人に誇れる特技なんやわ。隙あらば披露したくなります。すんません」


 眉をくっと下げて、樹生が薄く笑みを浮かべる。元々が垂れ目気味なのも手伝って、どこか困り顔にも、自嘲めいても見える。


「こざと一緒におること多いから、今後も嫌でも目に入るやろけど。極力関わらんようにするし、適当に避けてくれてええし。以上、足止めてごめんな」

「ちょい、ちょいちょい。待って」


 きびすを返そうとする樹生を、織音は慌てて呼び止めた。とととっと樹生との距離を詰めて、握手を交わすのにほどよい距離で止まる。


「高砂くん。もっかい触ってみてくんない?」

「ほん?」


 眉間にしわを寄せて、樹生がゆるい相づちをくれる。ほん、という響きは絶妙に気が抜けて面白い。


「髪。触ってみれ」

「気ぃつこうてくれんでええよ」

「いや、これは人体の可能性に迫るな実験だ」

「いま絶対、崇高ひらがなやったやろ」


 織音がじりりと距離を詰めると、気圧けおされたように樹生が退く。しばらくそうして相対していたら、観念したようにふっと息をつかれた。

 樹生は鞄からウェットティッシュを取り出して、わざわざ自身の右手を拭った。そして、ゆっくりと織音に手を伸ばしてくる。


 肩にかかる髪をひと房、くるりと指に絡め取られた。

 刹那、織音の指先から首まで、ぶわりと悪寒が抜けていく。


「あ、ぶ、ぁ……」


 不可解な声をもらしたら、触れていた指がバッと離れた。


「悪ぃっ!」

「ち、が……こっちが、頼ん……うわぁ、やっぱり駄目だぁ」


 あっさりクリアできるかと期待したのに。鳥肌が立った両腕をさすり、その場でごまかすように足踏みする。


「あたし、男子に髪触られるの無理なのね」

「せやろなておもた」

「ゆいこはそれ知ってるから、さっきもあんな雰囲気になっちゃって」

「わかってる。三原が気にすることやない。無遠慮極めたオレが悪いんやから、こない頑張ってくれんでええて」


 織音の顕著な反応を目の当たりにして、樹生が冷静さの中にじわりと焦りをにじませるのがわかる。こんな失礼な反応をした織音に、いっさい気分を害した風もない。

 そこで、もう織音の心は決まった。この人がいい。直感だった。


「あのさ。あたしがこの体質克服できるように、高砂くん、協力してくんない?」


 たっぷり十秒ほどの沈黙を挟んで、樹生が「ほん?」とつぶやく。動揺がわかりにくい顔だなと思いながら、織音は畳み掛けた。


「一日一回、髪に触ってくれるだけでいいんだけど、無理? 無理ならいいし今すぐ記憶を消して森へ帰れ」

「生まれてこのかた人里ぐらしやわ、火起こしすらできへん」

「つまり無理だな? うん。わかった。織音サマは引き際をわきまえている。おかしな話をした。ではこれにて」

「勝手に畳むなて」


 背を向けようとした織音を止めて、樹生はスマホの画面を見た。


「三原。門限、お持ち?」

「おかーさんは基本八時帰宅。それまで何をしようと問題ない」

「んー……ほな、お時間いただいて。詳しいお話よろしい?」


 そう言って樹生が指さした先にあるのは、新幹線高架下こうかしたの小さな公園だった。

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