三章 恋は落とされ落ちるもの
第58話 徒歩三秒の友人
大学二年、四月。
「もおおおおぉ! 起こしてって言ったじゃん!」
【一時間も前に起こしたやん】
「ばっかぁ! 一時間も前に起こしたら二度寝するに決まってるじゃんか!」
【織音が二度寝しとるて気付こぉ思たら、この壁抜かんことにはなぁ】
関西なまりの強い
バンッとドアを開けて、アパートの外廊下に出る。ほぼ同時にとなりのドアも開いた。いつもどおりにおしゃれ魔神な樹生が顔を出したものだから、ボロボロの織音はキィッとむくれた。
織音の背中半分までの黒髪ストレートロングは、こめかみあたりで妙な寝癖がついて爆発しているというのに。樹生の明るいマロンブラウンヘアは、生来のクセをしっかり味わいに変えて、前髪は軽く右寄せ。左サイドの髪を耳後ろへと流した彼の定番スタイルが、朝からバシッと収まっている。
全方位から見て隙がない。それが余計に腹立たしい。
「もー! どうしたらいい!?」
「もうちょい、お願いする態度てもんがあるんとちゃいます?」
そう言いながら、樹生は腕時計をチラと確かめる。そして、眉を軽くハの字に下げて、唇は緩やかな孤を描く。どことなく困り顔にも見える、彼のいつもの笑みだ。
こうなると、もう樹生の中では許可がおりている。わかっているけれど、織音はあえてパチンと両手を合わせた。そのぐらいの礼儀はさすがに守らなければと、今さらになって思う。
「一限、間に合わないです。助けてぇ樹生サマ」
「はいはい。お入り」
彼が慣れた仕草で織音を招き入れる。織音はささっと玄関で靴を脱ぎ、キッチン兼廊下を通り抜け、奥の居室に入って座卓の前にちょこんと正座した。
「……ごめんなさいでした」
「反射で文句言うのやめや。その時間で寝癖のひとつも直せるんやしな」
「はぁい」
樹生は洗面所からアレンジ用の櫛やらオイルやらを持ってきて、ぽんぽんと座卓に置いた。ジャケットを脱いでぽいっと床に放り、まずはオイルを手に織音の後ろに立つ。
「伸びたなぁ。兄貴んとこ予約取っとくわ」
「やたー! お願いしまーす」
「またオレとセットでよろしい?」
「よろしいよー」
樹生がオイルを両手に広げる。織音の頭の両サイドにその手を近づけて、軽く一度咳払いを挟む。
「触るで」
「はい。どーぞ」
織音の許可を必ず取ってから、樹生が髪に触れる。少しひんやりとした指が、髪全体にオイルをなじませて離れる。
鏡を配置したりというサービスはないから、織音はされるがままに任せる。人に頭をいじられるというのはけっこう気持ちのいいもので、ついついまぶたを閉じたら「こら」と叱られた。
「三度寝したらここに放ってくし」
「ふぇいー」
叱りつけながらも、声は柔らかい。織音がこの状態でリラックスできることを、樹生が喜んでくれているのがわかる。アパートのとなり同士になって丸一年も過ごせば、いかに内心を読みづらい彼相手でもそれぐらいは察せるようになった。
「ところで樹生サマぁ……今週末、合コンなんですけどぉ」
「懲りへんなぁ。もうちょい自然な出会いを狙われへんの。ほんで今どき合コンてまだ息しとんの」
「そんなの待ってたら、おばーちゃんになる。そしてあたしはご飯会に敬意と気合を込めて合コンと呼んでいる!」
「……さいですか。ご苦労さんです」
髪を軽く引っ張られて、少し頭が後ろに傾ぐ。この感覚からして編み込みだろう。腕利きスタイリストは時間管理も完璧なので、何か凝ったことを始めているが織音は放っておく。樹生は人の髪をいじるのを何よりの楽しみにしているのだから、したいようにさせればいい。
ヘアピンを挿しつつ、樹生が尋ねてくる。
「合コン、何時?」
「七時」
「ほなオレのバイト前やな。早いけど、四時からやったら一時間で仕上げたる」
「やった! いっちばん可愛くしてねぇ」
返事はなく、樹生の指が一瞬だけ頬に触れた。顔周りの髪を残すか纏めるかで悩んでいるらしい。
「そこまで凝らなくていいよ?」
「いや、ここめっちゃ大事やしな。顔周り命」
「プロフェッショナルぅ」
樹生が横から回り込んで、真剣そのものの光を宿した瞳で織音の顔をのぞきこむ。
「ん。まぁ、ええでしょう」
自分の仕事ぶりに満足した樹生は、どうぞと洗面所方面へ手を差し向ける。促されるままに、織音は三面鏡を求めて立ち上がった。
左右対称の間取りで、ローチェストもベッドも座卓も色違いながら同型で。それでも樹生の部屋は織音の部屋とまったく印象が違う。圧倒的に物が少ない。織音が持ちすぎなだけかもしれないが。
生活感を感じない洗面所の三面鏡で、仕上がりを確かめる。左右の編み込みが後ろでひとつに合体して、ゆるくお団子化されている。ほどよい
「うぉぉ。なんか知らんけど可愛いぞ?」
「せやろ。織音ちゃん比七倍ぐらいで褒めてくれてええよ」
「わーい、ありがとうございまーす」
「軽ぅ……」
洗面所の壁にもたれる樹生は、くっと笑って首を回した。
「ほら、一限。間に合わんなるで」
「そうだった! あんがとね、樹生」
ささっと靴を引っ掛けて、ドアを開ける。
樹生がジャケットを羽織りながらシューズボックスの上に置いていた鍵を掴み、鞄を肩に提げて織音に続いて部屋を出た。
「織音、鞄は。ほんで、自分とこ鍵閉めたん?」
「ぎゃ!」
自分の玄関に置きっぱなしの鞄を引っ掴んで外廊下に出て、慌てて部屋の鍵を取り出す。鍵をかけようとしたら、樹生が織音の袖を掴んで止めた。彼は織音の部屋のドアをもう一度開け、ざっくり内部を確かめてから外廊下に戻ってくる。
「不審者なし、施錠してよろし」
「ありがとうございまーす」
「織音ちゃんはもうちょい、いろいろ気をつけましょね」
「はーい」
友人というより、保護者かもしれない。
織音と樹生が互いの存在を認識してから、早いものでもう二年半。
周りから少々首をかしげられるこの関係の始まりは、高校二年の十月に遡る。
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