第17話 天高く、向日葵咲けど

 悠が家に帰り着くと、リビングからひょいと柊吾が顔をのぞかせた。


「遅かったね。俊也さんとこ?」

「ちょっと喋ってた。柊吾もまた遊びに来てって、伝言」

「俊也さん、とんでもないカラーにトライさせようとすんだよね」

「いいんじゃないの? 大学生らしくて」


 靴を脱ぎながら適当に返すと、柊吾がジト目で見てきた。


「悠、ブリーチかけまくって真緑になった俺とか受け入れられる?」

「ごめん。想像の斜め上だった」

「な? 朱莉に幻滅されちゃう」


 渋面で口を尖らせる。そんな小学生男子みたいな部分を今なお持ち合わせた、大学三年生の兄である。


 そんなことを言いながら、柊吾はもう、朱莉とは軽い立ち話ぐらいしかしないくせに。そう思っても、悠には兄の変化を咎める資格がない。


「俺、夕飯まだなんだ。悠の分も出していい?」

「ん。すぐ着替えてくる」


 単身赴任中の父や仕事が押しがちな母の分まで、柊吾が家にいる。世の大学生が飲みだなんだと騒いでいるのに、我が兄のなんと甲斐甲斐しいことか。


 洗面所にいってコンタクトを外す。眼鏡に変えたついでに、ひたいにある傷を指でなぞる。


 悠も家族も、朱莉までも巻き込んで。この傷が、二年前、全てを変えてしまった。

 

 




「古澤くん! 読んでください!」


 人生の風向きが変わったのは、急激に背が伸びだした中学二年の頃だ。それまでは学年でいちばん小柄で、女子からも女子扱いされるほどだった。


 急に手紙をもらうようになった。世にいうモテ期である。悠という名にふさわしく、ついに我が世の春きたれり。


「まじか……まじかぁ!」


 思春期駆け出しの男子中学生は浮かれた。


 異性からの突然の手のひら返しに戸惑いながらも、自分の良さがあることを知って強気になる。多感な中学生時分、そんな経験をしたのは悠ばかりではないはずだ。


 ただ、悠の場合、そんな浮かれ心地は長続きしなかった。



 ある日、消しゴムをなくした。

 直前まで確かにあったはずの消しゴムが、休み時間明けに忽然と姿を消した。

 見つけたのは、クラスの女子のペンケースの中だった。問いただすと、彼女は「だって」と泣き出した。女子三人が駆けつけて、彼女をかばい、悠を責めた。


 好きな人から消しゴムをもらうと両思いになれる。出典不明のおまじないが流行り出した時期だった。


 次はお気に入りのシャーペンが消えた。部活用のタオルも消えた。


 それからしばらくして、ノートの新しいページに「好きです」と見慣れぬ筆跡で書き込まれているのを見つけた。それをいつ、誰が書いたのか、悠には見当もつかないまま。物証として残しておいた書き込みは、翌日、誰かの手で破り捨てられていた。

 翌週、教科書の隅に見つけた同じ文言は、また別の筆跡。怖くなって、毎日机を空にして帰るようになった。


 書き込みを回避したら、下校中、誰かにつけらていると感じるようになった。わざと遠回りして、ひと目を気にしつつ家の裏手から泥棒のように帰宅する。


 次は部活だった。


「こざわくーん!」


 声援がうるさい。シャッター音が耳障りだ。迷惑だと先輩から睨まれ、体育館を使用する他の部からクレームが出るようになる。


 真っ先に悠が考えたのは退部だった。しかし部活動は校則で義務付けられていて、転部希望は先輩らに拒否された。休むことは許されず、試合では控えに下がらせてくれない。

 それでいて、騒がしさの責任はおまえにあるのだと。悠に、苦手意識のあった短髪を強いた。


 初めは冗談めかした口調だった。それが集団の力で膨れ上がり、冗談で終われる軽さを失った。先輩らはそれでもけらけらと笑っていたが、ここでノーと言えばどんな視線で全身を刺されるか容易に想像がついた。


 悠に許されるのは、愛想笑いでうなずくことだけだった。



 教師の言葉を、悠は一生忘れない。


『可愛い恋心じゃないか。そんなに邪険にしてやるな』


 好意は免罪符になる。

 その感情は、あらゆる暴走を黙認できるほどに尊重される。理不尽で一方的な自己エゴの押し付けは、可愛いと評される善行に。そこから派生した妬みもまた、思春期に与えられる得難い経験として許容される。


 ――本当に?

 

 担任も顧問も、悠から目を背けた。こんな自分を知られるのが嫌で、家族にもひた隠しにした。朱莉を通して現況のいくらかはバレていたけれど、兄や両親に何を聞かれても、大丈夫と笑ってかわした。


 教師から贅沢な悩みだとまで言われたから、胸の内を明かしたのは、親友の長塚ながつか 隼斗はやとだけだった。


「おれ、先輩に文句言ってきてやる」

「いいよ。俺が自分で切るって言ったんだから」

「けどさ!」

「乾くの早いし、これはこれであり。すっげぇ寝癖つくけどな」


 強がりで笑うと、隼斗も無理矢理に笑ってくれた。息するのがつらい日々を、一緒に笑い飛ばせる貴重な相手だった。


 三年になれば、きっと解放される。

 そんな悠の見込みは外れた。面倒な先輩は卒業してからも面倒で、試合のたびに応援席を陣取り、厳しい目を悠に向けた。そんな姿はいつしか同級生を刺激した。


「全く、古澤には困るよなぁ」

「まぁ、俺らと違って特別な男だから、しゃーないって」


 特別なものになった覚えは無いのに、勝手に線を引かれ、悠は弾き出された。


 男子は離れ、反発するように女子は加熱した。


 恋のようで恋でないものだと、後になればわかる。ルールを敷きひとつのものに熱狂するその過程に、皆が楽しみを見いだしていただけのことだ。そんなものに、悠は利用された。


 一部の卒業生からの監視は止まず。

 試合前には短めに髪を切って。声援が邪魔するたびに、みんなに頭を下げて。


 そんな自分に疲れきっていた中学三年の九月。彼女は突然、悠の前に現れた。


「成績がすごくてらっしゃる? 全国上位?」

「や……中の上ぐらい」

「帰国子女とか、ハーフとかクォーターとか?」

「日本人×日本人。三代遡っても日本人」

「どこかの理事長の親戚とか、大会社の跡取り?」

「い、いや……普通の……会社員×会社員の子。変わってるとしたら、親が海外多くて留守がちってことぐらい」

「じゃあ、サーカス並みに身体が柔らかい!」

「むしろかたい!」


 見知らぬ女子の誘導に乗ってひとつひとつ答えるたびに、自分の普通が証明されていくようだった。


「普通、では?」

「すごく、普通……」


 彼女は、だよねぇと困ったように腕を組んだ。いったい何を悩んでいるのか皆目検討もつかないというその顔が、新鮮で嬉しかった。


 この異様で狭い場所を抜ければ、きっと悠はごく普通の男子だ。あと半年すれば、こんな経験はみんな笑い話になる。

 初めて、自分の行く先に希望が持てた。


「ありがとう」


 なんのことだかわからないだろう。悠の礼に彼女は目を丸くした。それから。


「何かわからないけど、元気になったなら良かったです」


 夏の名残の強い日差しの中に、ひまわりみたいな笑顔が輝いた。


 それじゃ、と立ち去りかけた彼女の腕を思わず掴んだ。その腕が細くて、あまりに白くて。腕を掴んでいるのは自分のほうなのに、逆に心臓を掴まれたような心地がした。

 

「あの! 三年生、かな。高校って、決めてる?」


 口は意志なんか待たず、勝手に動く。それを知った。


「え、と。向瀬高校」


 悠の中学からはほとんど進学しない、駅六つ向こうの高校。兄の母校だ。

 今の悠の学力では圏外だった。


「そっか……うん。ありがとう」


 最後の礼にも、やっぱり彼女は不思議そうな顔をして、それでも笑ってくれた。


 その笑顔に見とれながら手を振ったのが運のつきだ。


「あ……名前……聞いてない」


 ことの顛末を話したら、柊吾に詰めが甘いと笑われた。





 秋の合同大会が終わり、十月に三年の部活動が終了してから、悠の頭は勉強一色になった。向瀬を狙うなら、とにかく時間がなかった。


 不在がちな両親を捕まえて、すぐさま塾に通わせてもらう。講師は難を示したが、それでも志望校は向瀬一択で譲らない。


 塾には隼斗と、他校に通う隼斗の彼女がいた。学校にいるよりずっと快適だった。悠を知る生徒はたくさん通っていたが、受験シーズンに向けた今、皆に塾で騒ぐ余裕はない。合格実績を積み上げたい塾側も、生徒の浮わつきを許さない。


 ほったらかしの髪はずいぶん伸びた。そんなことに構う暇もない。

 何事もなく、このまま卒業まで。

 そんな期待の中で迎えた十一月二十一日。悠の誕生日だった。


「ハルくん。これ、あげる」


 隼斗の彼女から塾の終わりに渡されたのは、手作りのクッキーだった。


「今日、誕生日だよね」

「……言ったっけ、俺」

「ハルくんの誕生日、有名だから」


 自分のデータがそこらじゅうにばらまかれているのは知っている。けれど、それを親友の彼女が拾って持ってきたのが、悠の気持ちをざらつかせた。


「あ! 普通に差し入れだからね? 息抜きでみんなに作ったついでだから。隼斗にもスペシャル渡したし」

「じゃあ、遠慮なく……」


 普通の差し入れなら、隼斗のいる場で渡せばいいだろうに。


 ――考えすぎだろ。


 引っ掛かりはしたものの、自意識過剰だろうという恥ずかしさから無視した。


 帰りは隼斗も合流して、道すがら彼女を家まで送る。もう夜八時近い夜道に、隼斗とふたりになった。


「腹へったぁ」


 そう言いながら、隼斗が鞄からクッキーを出してきた。彼女の言葉が嘘じゃなかったことにほっとして、悠も自分の鞄から同じクッキーを取り出す。


「隼斗のおかげで、俺まで便乗して貰えた」

「作りすぎたって言ってたからなー。ストレス発散にちょいちょい作るらしい」


 いただきますと、ふたりそろって袋をあけて、ひとつ口に放り込む。市販のクッキーより硬さはあるけれど美味しい。もうひとつ、と手を伸ばしたときだった。


 指先に、何かが触れた。


「ハルの袋、なんか入ってんよ?」

「……なんだろ。メモ?」


 かさりと開いた紙には、四文字のメッセージが書かれている。


『好きです』


 いつかのノートや、教科書の隅にあったように。それはクッキーと一緒に、無記名で忍ばせてあった。

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