第18話 ハッピーバースデイ、トゥ

 悠の頭の中をすごい速さで英単語が流れていった。数学も、古文も。この短期間で詰め込んだあらゆる知識を流して、自分を守ろうとした。


「……はは」


 隼斗の渇いた笑いが、そんな悠の思考を止める。親友は悠の指から小さな紙を引き抜き、たった四文字に何度も目を走らせた。

 その目が往復するたびに、悠の血が凍りついていくような気がした。


「そっかぁ。こうなっちゃうか」

「渡し……間違えたんじゃないかな。俺のと隼斗のとさ」


 ひきつった笑いで、同意を求めた。けれど、隼斗は首を振った。


「なんか、そんな気がしてたんだわ。最近、やたらハルのこと見てるなって」

「考えすぎだ! 俺は何も」

「してないよ。いいな、何もしてなくても好かれるやつは。得だよな」


 悠のどうしようもない息苦しさを打ち明けた、たったひとりの理解者。

 その隼斗が眉をひそめて悔しげに笑う。


「おれは凡人だからさ。どうしてもうらやましいよ、ハルのことが」


 隼斗は手にしたクッキーの袋をぐしゃりと悠のカバンに押し込んだ。

 それを引き金に、悠は弾丸みたいに走り出した。


 親友の我に返ったような呼び声が聞こえた。けれど、足はもう止まりようがない。


 ――気持ち悪い。


 今食べたばかりの、甘ったるいクッキーが。

 半ば強引に押し付けられた、親友の彼女の手作りが。


 誰もが自分の誕生日を知っていることが。

 誰かが自分の消しゴムを隠し持っていることが。


 周りをそんな風に暴走させて、親友を傷つける――自分が。


 家に帰りつき、靴も脱がずにトイレに駆け込んだ。鞄を足元に転がしたら、ふた袋分のクッキーが散らばった。


 目を瞠った。悠が渡された袋の隅にだけ、目印みたいにハートが描いてある。


 胃がひっくり返った。飲み込んだクッキーを吐き出して、ぜ、は、と短く呼吸を繰り返す。つんとした独特のにおいが喉から鼻に上がってくる。手探りでタオルを掴み、口を押さえた。


 トイレの壁にドンと背中を押し付けたら、片手が固いものに触れた。

 見ると、カバンから飛び出したペンケースだった。


 頭が回らない。ただ、自分が気持ち悪いと、それだけが悠の全部を満たしていく。


 ペンケースを開けて、カッターを掴む。

 カチカチと刃が飛び出す音が、とても遠く聞こえた。


 古澤 悠の中身は本当に凡庸だ。特別バスケが上手いわけでも、頭が良いわけでもない。向瀬高校にだって受かる保証はない。


 なのに、この顔があるだけで、正しい悠を誰も見つけられない。


「邪魔……」


 本当の自分は、虚飾の奥にいる。だったら見えるようにすればいいだけのことだ。

 誰に。

 誰も彼も。本当の悠から目を背け続ける、全てに。


「悠ッ!」


 頭を殴るような強い叫びは、兄のものだった。


「柊吾?」


 滲んだ視界で兄の姿をとらえる。悠のひたいに、柊吾はタオルをぎゅっと押し当てた。


「押さえてて」

「……なんのために?」

「けっこう深いとこまで切れてる。しっかり押さえて」


 切れてる。何が。

 ゆっくりタオルを離すと、血がべとりとついていた。ひたいから目に、つぅと垂れてくる生温かいものを感じる。


「悠……柊ちゃんッ!」


 悲鳴に変わった朱莉の声で、悠はようやく自分のやったことを理解した。カッターを持ったままの自分の右手に視線を移して、ひゅっと息を飲む。


 柊吾の手が、カッターごと悠の暴走を押し止めていた。


「あ、ぁ」

「取りあえず手、離そうな。ゆっくり」

「柊……」

「うん、ここにいるから。朱莉、急いでおじさん呼んできて。それから、うちの親に連絡頼んで良い? 今日は早く帰るって言ってたから、そろそろ連絡つくと思う」


 柊吾は冷静に、朱莉を落ち着かせるように指示を出す。その間も、柊吾の袖口がどんどん赤く染まっていく。そこでやっと、悠はカッターを手離した。


 両目からぼろぼろと大雨みたいな涙がこぼれ出て、息がひゅっひゅと暴れだす。柊吾は無事な右手を悠の背に回して、とんとんとゆっくり叩いた。


「大丈夫。大丈夫だ。落ち着いてゆっくり息して」

「柊……兄ちゃ……俺」

「うん。少し休もうか、悠」


 しゃくりあげる合間に、悠は何度も兄を呼んだ。


 朱莉の父に連れられて病院へ向かう車の中、ぽつり、ぽつりと。自分の周りで起きたことをひとつ残らず、独り言みたいに取り留めなくつぶやいた。朱莉のすすり泣きだけが、ずっと悠の声に応えていた。





 それから冬休みに入るまで、悠は保健室登校を続けた。

 周りは様変わりした。平日不在がちだった母は職場と交渉し、家にいる時間を増やした。両親と学校の間では何度も話し合いの場が持たれた。朱莉は古澤家に寄り付かなくなり、あんなに仲の良かった柊吾と朱莉が笑い合う声も聞こえなくなった。悠が隼斗と言葉を交わすことも、もうなかった。


 悠を追いかけ回してきた過剰な熱の塊は、嘘みたいに冷え切った。やっと、静かになった。


 悠の拠り所は勉強だけになった。

 ほとんど空っぽになった自分の中にかすかに残ったのは、いつかのひまわりの笑顔と、名前も知らない彼女が見せた夢みたいな未来だった。


 彼女だけが、悠のことを普通だと言った。

 そのひと言を抱きしめて、がむしゃらに合格を追い求めた。けれど、いざオンラインで自分の合格を確認したら、なんの感慨も湧かなかった。


 もうこれで、終わりにしていい。そんな気持ちで電源を落とす。ベッドに身を投げ出して、世界を遮断する。


「悠、どうだった?」


 部屋のドアの向こうから、柊吾の声がする。合格だったと伝える自分の声はかさついて、このまま涸れ果てるのを待っている。


「入学書類、一緒に受取りに行かないか?」

「……いい。ひとりで行く。ちゃんと行くから、安心して」


 だるい体をベッドから起こして、中学の制服を引きずり出す。腕を通すことすら重い。全身に鉛でも積まれたようで、これが自分の体とは思えなかった。





 駅六つは遠い。

 駅から続くひたすらな登り坂が、いっそう気を重くさせる。ほんの半年前夢に描いた高校は、たどり着くとどこか褪せて見えた。


 受付で受験票を見せて、ずっしりとした紙袋を受け取る。山程書類の入った封筒や学校案内、これから入学までのスケジュール表が入っている。それを手にぼんやりと歩いていたら、足元に受験票がひらりと飛んで来た。


 風にまかれそうな紙一枚を拾い上げる。


 【受験番号8061 佐伯 結衣】


 印字された名前に、目を滑らせた。


「すみません!」


 走ってきたショートヘアの女子生徒が、ひょこんと悠に頭を下げる。その顔がこちらを見上げてきた瞬間、受験票を持った悠の両手が震えた。


 ――あの子だ。


 ひと目でわかった。ぱちりと開いた彼女の目が、悠を市民体育館に引き戻す。


「あの……これ」


 カラカラの喉から絞りだした、味気ない声。震えるままの右手で差し出した受験票。

 それを、彼女は不審がる顔も嫌がる素振りも見せず、ほっとした様子で受け取った。


「ありがとう」


 軽く会釈して立ち去ろうとした彼女は、くるりと振り向いて「あのっ」と声を上げた。


「合格、おめでとう!」


 半年前と変わらない笑顔。冬の終わりの中に、あの日のひまわりが咲いた。鮮やかな黄色が悠を照らした。


 今日は祝われるべき日なのだとようやく気づいた。おめでとうと悠からも返したかった。けれど。


 ――俺のこと、覚えてないかな。


 走り去る彼女に伸ばしかけた手を、力なく下ろす。


 ――もう一度会いたくて、ここにきたんだけど。


 一歩も動けずに、重い紙袋を握り直す。


 ――むちゃくちゃ、頑張ったんだけど。


 伸びた髪が、悠を外界から遮断する。おまえは異物だと、悠自身を閉じ込める。


 何を交わすこともできないまま。

 季節外れのひまわりは、校舎の中に消えていった。


 





 気づいたときには走っていた。まだ寒さの残る二月の中、駅まで続く坂を転げるように駆け下りた。

 痛いほど拳を握りしめて。


 無茶苦茶に走り回って、線路沿いの道に出る。後ろから追ってきた電車の轟音に紛れて、悠は声を張り上げた。


「なん……で!」


 どうして自分は、彼女にまともに声をかけることができなかったのか。その資格がないとさえ思うのか。


「俺がいったい何したってんだよ!」


 あまりに悔しくて、喉を焼くように叫ぶ。


 ただ耐えてきた。好意という暴力にも、嫉妬という圧力にも。


 耐えれば終わる。

 熱が冷めれば自由になれる。


 悠は何もしなかった。そうして結局、柊吾を傷つけた。朱莉を泣かせた。


 通りがかった不動産屋のガラスに映る自分を見た瞬間、人目も憚らずけたけたと嗤った。まるで亡霊だ。


 だらしなく伸びた髪をぐっと掴む。何かに誘われるように、視線の先にあった美容院のドアを引く。臨時休業の木札がカタンと揺れた。


「すみません、今日はお休みいただいて――」


 息は切れ切れ、涙目で汗だくの中学生に、若い男性美容師が仰天した顔をする。


「きみ、どうしたの。大丈夫か?」


 すっと差し出されたタオルを、悠は遠慮もせずに受け取った。息の整わない口元に押し付けて、汗で湿る前髪を手で払った。


「……髪、今すぐ切りたくて。ハサミ貸してもらえませんか」


 無茶な頼みだとはわかっている。それでも、もう一秒だって耐えがたい。


 美容師はしばらく無言で悠を見つめた。

 おもむろにセット椅子を回し、空席を悠に示す。


「どういたしましょうか?」


 どこか面白がるようなその目に誘われ、思い切り一歩を踏み出した。

 躊躇う理由がない。

 今、自分はこんなにも悔しい。


「春から、俺、向瀬高校に通うんです」

「うん」

「学校でいちばん、かっこいいやつになりたい」

「……バッサリいっても大丈夫?」


 決意を試されるような言葉を受け、悠はもう一度、鏡の中の自分と向き合った。


「お願いします。俺、ちゃんと生きたいから」


 出会ったばかりの美容師に、悠は深々と頭を下げた。



 


 家に近づくにつれ駆け足になった。

 重い紙袋をガサガサ鳴らしながら、悠は走る。

 走って走って、見えてきたのは、門前で落ち着きなくうろつく兄の姿だった。


 柊吾は悠に気づいてバッと手を挙げ、その手を一瞬振ったままの位置でぴたりと止まった。


「悠!? え、髪どうした!?」


 そんな柊吾の前まで走りきって、はっと息をつく。弟のあまりの変貌ぶりに狼狽える兄に向かって、まだ整わない呼吸の合間から、切れ切れに伝える。


「あの子も……いた。合格、してた」


 直後、悠は両肩をがっしと掴まれた。


「やったなぁ、悠!」

 

 柊吾の満面の笑みを前に、今さら気づく。

 あの日からずっと、兄は悠の前で笑顔を絶やさなかった。それはきっと、悠が閉ざしてしまった扉の向こうでも。


 両親は決して愛情の薄い人たちではない。ただ、悠と柊吾のためにと、仕事にもっとも重きを置いてきた。

 その両親に代わって、たった四つしか違わない兄が、幾度も悠の学校に足を運んだことを知っている。

 知っていたのに、自分がいちばん不幸だという顔をして、悠は扉を閉ざし続けてきた。


「やっと……わかったんだ」


 頬に一筋の涙を伝わせながら。悠はやっと兄に笑顔を返す。

 この合格を。今日この日を。誰よりも強く、祈るように、柊吾は待っていてくれたはずだ。


「佐伯 結衣さん。名前まで可愛い」


 くしゃりと笑顔を歪ませた柊吾が、大きな傷跡の残る左手を自分の顔に押し当てた。


「兄ちゃん。俺もっかい頑張ってみる」


 返事のかわりに、柊吾はうなずいて悠の肩をさする。


 やっと扉を開けた悠を出迎えたのは、兄の涙が地面を打つ、はた、はたという優しい音だった。

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