第47話 あなただけの特別

 * * *


 翌朝。新しい髪型は素晴らしいのに、朱莉の顔は最悪だった。できるだけまぶたを擦らずに耐えたのに、奥二重がいつもよりぽってりとしている。


 こんな何か起きましたと言わんばかりの顔で登校する気にはなれず、母に休みたいと告げて部屋に戻る。


 ここでベッドに埋もれれば乙女だが、受験生にそんな暇はない。ずる休みで得た時間は過去問を解くためにある。机に向かい英星大学の過去問集に手を伸ばしかけて、その手を止めた。


 ずっとこの大学を目指していたけれど、特筆してこの大学にこだわる理由もない。ただ、レベルと距離のバランスが理想的だっただけだ。


 ――もっと、遠いところでもいいのかもね。


 頭にいくつか遠方の大学を浮かべていたら、机の上でスマホが震えた。


【 古澤柊吾 >> 今日は休む? 】


 慌てて正面側のカーテンを開けた。窓は閉めたままで外を見たら、仁科家の門前に柊吾が立っていた。


 いつもと逆の立場で、彼と顔を合わせる。思ったよりはっきりと表情が見えるものだ。下から見上げる朱莉が柊吾のあくびをちゃんと見ていたのだから、逆も見えて当然なのだが。上から見下ろして初めて実感が湧く。


 からからと窓を開けた。今まさに歩き出そうとしていた柊吾は、バネでも弾いたみたいに朱莉の窓を見上げた。


 大きく両腕を振る彼は、昨日の大人顔じゃなくて。えくぼの見える、いつもの彼で。


 昨日みたいな苦しさはもうたくさんだと思うのに、朱莉はLINEメッセージを打ち込んだ。


【 朱莉 >> 明日は、六時五十分 】


 門の前でスマホを確かめた柊吾は満面の笑みで、両腕で大きな丸を作った。





 翌日からも、朱莉は毎朝柊吾と一緒に家を出た。

 心配性の兄だから、まだ藤矢を警戒してくれている。さすがにこれ以上何もないと思う朱莉だが、柊吾のやりたいように任せた。


 ふたり並んで電車に揺られ、朱莉はいかにも受験生らしく英単語の暗記に勤しむ。柊吾は美容室での一件などなかったような顔をして、単語帳を朱莉の手から奪う。なのに英単語そっちのけで、数学の公式暗唱クイズを唐突に出してきたりする。


 少し意地悪なその横顔を見上げて、単語帳を持つ彼の左手にちらちらと目をやる。


「傷跡、気になる?」


 あまりに視線を送りすぎて、一週間が過ぎた頃、柊吾に問われた。


「少し……。古傷って痛くなったりしないの」

「全然」


 そう言って、柊吾は左手を大きく広げた。


「見た目にはけっこうなんだけどね。寒さでうずくとか、そんなことは何も。クッションとかなでたら引っ掛かりはするかな。あとは……」


 彼はその手をぎゅっと握って、胸の前で掲げた。


「オタク気質な俺のテンションがあがる」

「……うん。わぁ。かっこいい」

「朱莉ぃ、引かないでよ! サークルではけっこうウケるのに!」

「そういえば柊ちゃんのサークルって」

「真面目な集まりですよ。デジタル映像技術研究会」

「活動内容はアニメ鑑賞会?」

「なんでわかるの!? 朱莉、天才!?」

「経験則よ。うちの父でも当てるわ」


 こんな馬鹿みたいな会話すら、ひらりひらりと積もって、積もって。


 ときどき、どうしてか泣きたくなる。そんなことに頭を割いている場合じゃないのに。






 受験生とはいえ、息抜きしたい日はある。予備校の講師はその一日の緩みで落ちるだなんだと言うけれど、一日緩めて落ちるならだいたい落ちるだろうと朱莉は思う。


 そんなわけで、クリスマスぐらいは盛大に。

 織音の家でパーティとお泊りだ。


 二十四日は外して、二十五日から二十六日。今年で三度目となる恒例行事である。去年は結衣の正式な交際開始祝いを兼ねて、素晴らしく盛り上がった。今年もまた、前日結衣がどのようなイブを過ごしたかで盛り上がるのは間違いない。


 受験生であることを一応は考慮して、集合はやや遅めの午後五時。結衣と朱莉が三原家を訪ねるのに合わせて、織音の母、詩穂しほがおめかしモードで出かけていく。これも、三年連続。


 織音は五歳で父を亡くしていて、詩穂は長らくひとりでいた。織音の高校進学後に良い出会いがあったのだという。そんな詩穂をデートに送り出す狙いもあって、クリスマス会は開催される。


「おかーさん、全然おデートしないからさぁー。別にひと晩あけるくらい平気なのにねー」

「織音は会ったことあるの?」

「あるよー。すっごくいいひと。早く再婚したらいいのに、どうしてもあたしのこと気になるみたいでさ。だから大学からひとり暮らしすんだぁ」


 こんな話を聞くと、いよいよ卒業が近いのだと実感する。


 詩穂の用意してくれた料理を並べつつ、織音が手配済みだという宅配ピザを待っているとインターホンが鳴った。


 予想通りといえば予想通りなのだが、宅配人は樹生である。なにぶん、今どきのピザは店頭引き取りが圧倒的に安い。


「まぁな。クリスマスにご予定フリーのオレを便利に使うのは当然の流れや。当然やけど……せめてひと切れぐらい食わせてもろてよろしい?」

「しかたないなぁー寂しがり屋さんですなーたっつーは」

「こざんとこ持ってって食い切ったろか思たわ……」

「え、ひど」


 ピザを織音に渡したあと洗面所に向かった樹生は、リビングに戻るなり迷わずキッチンへ向かった。食器棚から皿一枚とフォークを取り、テーブルに置かれたピザの箱を開く。フォークでささっとひと切れ分けて皿に乗せた。そこで「せや」とコップを取りに行き、冷蔵庫からオレンジジュースを出してきて注ぐ。


 あまりに、この家に慣れすぎている。


「樹生くん……織音ちゃんとこに住んでるの?」

「へ?」


 結衣の至極もっともな問いに、樹生は食事の手を止めた。


「織音の家庭教師カテキョで通っとるけど。え、織音から聞いてへん?」


 朱莉も結衣も首を振る。


「そのお礼に詩穂さんから料理教えてもらっとって……ってのも、聞いてへん?」

「ないよ」

「まったくないわ」

「織音ぉー、オレ説明してもて良かったん?」


 樹生が奥の部屋に呼びかけると、織音は大きめのプレゼント袋を抱えてリビングに戻ってきた。


「いーよー別に。たっつ、これおかーさんからクリプレ」

「え、何々! めっちゃ上がるやん!」


 キッチンでざざっと手を流した樹生は早速リボンを解いた。


「……鍋やん」


 女子三人も袋の中をのぞく。中に収められた箱には、ちょっと良さげな海外メーカーの両手鍋がプリントされている。


「たっつも春からひとり暮らしすんだから、絶対いるでしょーって」

「自分のためでもないピザうて、鍋もろて帰るオレのクリスマスよ……」


 がっくりとうなだれる樹生が少々不憫ながら、皆で笑ってしまう。すね顔の彼は袋にリボンを結び直し、椅子に掛けていたジャケットのポケットから大小ふたつの袋を取り出した。


「織音、これ詩穂さんに。ちっちゃい方は織音がもろといて」

「なになに!?」

「ハンドクリーム。いつもお世話になってますーって。織音はおまけ」

「やたー!」


 もう推し事に情熱を注ぐまいと思った朱莉だが、やっぱりこのふたりに何かしらの進展を期待してしまう。うっかり推し事帖を納めた箱に手を伸ばしかけて、心の中でべちんと自分の手を叩いた。


 使った皿とフォーク、それからコップをきっちり片付けた樹生は、ジャケットを羽織って鍋を抱え玄関に向かう。


「お嬢さんがた、今宵は夜ふかしのご予定?」


 スニーカーのかかとを引っ張りながら問われて、三人で顔を見合わせる。


「去年の感じなら、余裕で十時は越えるわよね」

「寝落ち一等賞の織音ちゃんなら早いかも」

「今年は! 今年こそは日付け変わるまで頑張る!」


 織音の意気込みにくっくっと笑って、樹生は「まぁ、織音には無理やろな」と言いながら三原家の玄関ドアを開けた。


 樹生にしてはずいぶん幼く見える笑顔を残し、最後に織音にちらりと視線を投げてから外に出る。


 扉が閉まるのを待って、三秒。

 朱莉は耐えきれずに靴を引っ掛けて、勢いよくドアを開けた。


「高砂くん!」

「え、あ。びっくりした」


 今まさに敷地外に出るところだった樹生は、朱莉の呼びかけで戻ってくる。


「珍しない? あかりんちゃんがオレ呼び止めるとか」

「ほんとにごめんなさい。これだけは絶対踏み込まないつもりだった……のに」


 何をやっているのだと思いながら、唇を軽く噛む。ここまで来て後戻りはできず、意を決して尋ねた。


「高砂くんは。恋を、している?」

「切り込んできますねぇ、今日のあかりんちゃんは」


 樹生はニッと笑って、空いた片手をジャケットのポケットに突っ込んだ。


「するつもりはなかったんやけどな」


 こんなにあっさりと認められると思わず、朱莉はしばし返答に詰まる。


「そう……」

「けど、オレにしても、こざにしてもゆいこちゃんにしても。あかりんちゃんの参考にはなれへんで。あかりんちゃんの恋は、誰も肩代わりしてくれへんし」


 何事も鋭い友人を前に、ぐぅの音も出ない。


「高砂くんて、ときどき厳しい」

「すんません。オレの優しさは特定個人向けなもんで。こざもそんなこと言うとったやろ」


 ――俺の愛は結衣さんにしか向けられない。


 九月の教室で、当たり前のように悠が口にした言葉だ。


「そういうもんなんちゃう? 他と違う特別みたいなもん。小難しく考えんでも、あかりんちゃんやったら答え出せそうやけどな」

「それがわからないから、こうやって高砂くんにまで聞いてしまってるのよ」

「いやいや、オレに聞くまでもないて。わかろうとする気あるんかってだけの話」


 意味ありげに笑って、樹生は歩いて行ってしまう。

 やんわりとした口調でとことんまで突き放されて、朱莉は自分の情けなさに沈みそうだ。


 他と違う特別なら、あった。

 ずっとあったのだ。自分にだって。誰より特別だと思っていたものが。


 これ以上に特別なものが今もみつからないまま。だから朱莉は迷子になっている。


 そのとき、一度姿を消した樹生が、ひょこりと顔を見せた。


「三人寄れば文殊の知恵てあるやんか」

「はい?」

「ちょうどええんちゃう? 楽しいパーティをお過ごしください」


 軽く手を振って、今度こそ樹生は鍋と一緒に帰っていった。

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