第46話 贅沢な妹

 長らく伸ばしっぱなしだった髪が、気持ちいいほど切られて落ちる。長さ十センチを超える毛束がクロスを滑るたびに、待合ソファにいる柊吾がしょんぼりとした顔になっていく。


「やりづらい。柊、顔伏せといて」


 俊也の声に朱莉は内心で同意する。あまりにも視線が刺さる。


「そんなに心配せずとも、絶対可愛くなるのにね。失礼な」


 俊也がからかうように言うと、弱々しい柊吾の声がソファから漂ってくる。


「……そんなことはわかってます」


 そこに、さらに力のない都美の声が続いた。


「あのぅ……柊さんはですね、サークルの魔の手から朱莉さんを守るために仕方なく撮影に応じただけなので」

「都美、ほんともう黙って」


 都美が説明を重ねるほどに柊吾がぐったりしていく。


「どうしてサークルの皆さんがわたしをご存知なんですか?」

「それはですね――」


 朱莉の問いに答えようとした都美の口を、柊吾がばふりと塞ぐ。いちゃついているとしか見えない姿を視界の端にとらえて、朱莉はため息をついた。高校生には聞かせてもらえないことが、この世にはたくさんあるらしい。


 すると鏡の中の俊也が、いたずら心のにじむ笑みを見せた。


「古澤 柊吾のリリーティアだって」

「……なんですか、それ」


 ちらりと待ち合いを見たら、柊吾の口から魂が出ていた。「なんで俊也さんが知って……」とかなんとかつぶやいている。


「柊ね。二年の新歓コンパで悪酔いしてさ」


 柊吾のリリーティア好きは当時すでに周知のことだった。酔いつぶれた柊吾に、悪ノリした仲間たちが都美をオススメしたらしい。『おまえの好きなリリーティアだぞ』といった具合だ。


「自分のリリーティアはとなりにいるから間に合ってます、だっけ? なぁ、柊」

「記憶にありません」

「潰れてたから覚えてないんだと。起きたらサークル内の誰もが知ってるネタになってたらしい」


 そのリリーティアを特定してみせたのが、都美だ。樹生から得た友人情報をもとに、朱莉にたどり着いた。


 リリーティアを学祭に連れてこいと皆がリクエストするも、柊吾は二年間断固拒否してきた。そんなリリーティアをネタに都美は柊吾を脅し、今年、初めて彼を被写体化してキス写真までもぎ取った。


「せっかくなら勇者コスもして欲しかったんですけど。断髪前ならパーフェクト勇者になれたのに」

「それは……ちょっと見たい、かも」

「おっ! 朱莉さんもいけるクチですか? よかったらリリーティアやってみません!?」

「都美、調子に乗るな」

「……すみません」


 ぴしゃんと兄に制されて、都美はしゅんと小さくなる。わりと朱莉好みの可愛らしい人だ。

 そんな都美はまた前のめりになって、柊吾をビッと指さした。


「とにかく! 朱莉さんが不安に思われるようなことは何ひとつないんです! 私、柊さんのことは呼吸するマネキンぐらいにしか思ってません!」

「すごい言われようだけど、俺だって拡声器ついた創作馬鹿ぐらいにしか思ってないからね」


 夫婦漫才みたいなノリだ。織音と樹生の掛け合いに近しい空気感がある。


「あの……そのリリーティア。わたしじゃなく、わたしの声帯のことなので、本当にお気遣いなく」


 俊也が顔周りの長さを確かめながら「声帯って?」と尋ねてきた。


「地声がリリーティア役の千崎 乃愛に似ているので」

「なんですと!? え、え、是非お聞きしてみたい!」


 食いついた都美に、朱莉は苦笑して返す。


「風邪のあとから不調で。今は披露できないんです」

「はわー……それは残念です。お元気になられたら聞かせてくださいね」


 残念顔の都美だったが、時差をつけてコテンと首を傾けた。


「あれ? じゃあ、柊さんのデスクに積んである緘黙かんもく症とか発声障害とかの本って何です? 風邪なら関係な――」


 途端、都美はソファの背もたれの向こうに沈んだ。日没にしては俊敏すぎる太陽だ。


「俊也さん。お宅の妹、ほんと……ほんとに」

「さすがにごめん。よぉく言い聞かせる」


 おそらくまた、朱莉が聞いてはいけない話だった。過保護な柊吾が過剰な心配を爆発させているのだろう。そういうことはわかった。


 俊也や都美を相手に、柊吾が大人びた話しかたをする。いつもの、陽気で少年じみた兄じゃない。ここにひとり混ざった高校生の自分がどうしても異物で、朱莉はついうつむいてしまう。すると頭に俊也の指がかかり、くっと上を向かされた。


「ん、良し。あとは乾かしてから調整します」

「はい」

「大丈夫。すっごく背伸びさせるから」


 軽く肩を叩かれて、朱莉は眉を下げた。これは結衣が通うのもわかる。美容師恐るべし。なんでも相談したくなってしまう。



 細かな調整を終えて、手持ちタイプの三面鏡と正面の鏡で前、後ろ、サイドと確かめる。

 切りっぱなしボブなんて、自分がやればせいぜい日本人形とこけしのミックスだろうと思っていたのに。完成した自分の姿に、ぽかんと口を開けてしまった。


「ええ……もう絶対通う……」

「最高の褒め言葉いただきました。内巻きも外ハネも可愛いし、顔周りは残してラフに耳に掛けると、こう」

「大人っぽい!」

「ね。想像以上だと嬉しいですが」

「雲の上です! ありがとうございます!」


 セット椅子を回した俊也は、パンッと手を叩いた。


「都美。もっかい謝罪」


 すくっとソファから立ち上がった都美は、てててと寄ってきて深々と頭を下げた。


「本当にごめんなさい。こんな誤解を招くようなこと、二度といたしません」

「いえ。本当に写真の処分に困っただけなので。そんなに気に病まないでください。お騒がせしてすみませんでした」


 俊也から鞄を受け取り、朱莉も礼を述べてから美容室を出た。





 すっかり日が暮れた中、線路沿いを駅に向かって歩く。少し後ろをずっと柊吾がついてくる。


「朱莉。ごめんね」


 先ほどまでの大人スイッチは完全にオフで、いつもの柊吾がくねくねしている。


「ねー。朱莉ちゃーん。ごめんなさい、俺が悪かったからー」


 無視しきれず、足を止めた。


「謝ってもらうことなんてないから」

「あるよ! 俺が泣かせたんだから!」

「驚いて勝手に水分が出ただけ」

「悠とおそろいにしようとか、絶対自棄でしょ? 電話きてすぐ研究室から飛んできちゃったよ」

「気分転換したかったの。それより、勝手に都美さんに会ったりしてごめんなさい」


 柊吾がとなりにやってくる。並ぶ寸前、朱莉はまた歩き出した。


「朱莉、ちょっと話そうよ。ね?」

「全部もう聞いた。写真は渡せたし、お礼も言えた。わたしが勘違いしてただけだった。髪もスッキリした。何も問題ない」


 嫌味ったらしい口ぶりに、自分でも呆れる。


 大したことじゃないはずなのに。

 柊吾はただの隣人で、その人に彼女がいようといまいと、誰とキスをしようと、朱莉には何を口出しする権利もないのだ。


 ――もう、推し事とかしんどい。


 推し事帖にぐるぐるとロープを巻き付けて、マトリョーシカよろしく何重にもなった箱の奥底にしまい込む。


 黙々と歩いていたら、ぐっと手を引かれた。その感触に、びくりとして思わず立ち止まる。


 滑らかさがない。皮膚の盛り上がりや引きつれがあるのがわかる。振り向いて確かめたら、傷跡の残る左手が朱莉を掴んでいた。


 ――綺麗な手だったのに。


 子ども心に、そう思っていた。いつも朱莉をなでてくれる手が。いつまでも自分より大きな、彼の手が。


 朱莉が守れなかったものがそこにある。


「ほんとに都美とは何もないんだよ?」

「……関係ない」


 ぶんっと大きく振っても、彼の手を振りほどけない。何度もそうやって繰り返して、朱莉はやっと彼の顔を見上げた。


 困り果てたように下がる眉を見たら、唇が震えた。


「柊ちゃんが誰と何しても……わたしには関係ないもの」

「そんなこと、ないから」

「あと四年、妹をやらせてもらうだけのおとなりさんだから」

「朱莉、落ち着いて」

「落ち着いてる! おかしいのは柊ちゃんでしょ! これ以上何を話すことがあるの!」


 ぐっと手を引かれた。体に足が付いてこなくて、そのまま前のめりで倒れてしまうかと思った。


 けれど、たどり着いたのは柊吾の腕の中だった。


「何してるの。兄、なんでしょ。柊ちゃんは」

「そう、だね」

「現実じゃ、妹にこんなことしないのよ」


 突き放そうとするのに、柊吾の腕がどうしても離してくれない。


 苦しい。

 体が。心臓が。ありとあらゆる感情が掻き回されて濁る。


「やめて」


 とん、と彼の胸を叩いた。そうしたら、背中をとんとんと叩いて返された。駄々をこねる子どもをあやすかのように。


「落ち着いてるから、離して。妹に怒る権利なんかないんだから」

「怒ればいい」


 あっさりと返されて、はっと笑ってしまった。いくらなんでも甘やかしすぎだ。


「彼女作らないでとか言ったらどうするのよ」

「どうもしない。言っていい」

「……あんなこと、嘘でもしないで欲しかったって」

「二度としない。ごめん」


 きっぱりと言い切られて、混乱が膨れ上がる。


「二度と……って……そんな」

「やんないよ。サークル連中にどうしても見せたくないって、俺のガキっぽいわがまま。次は間違えない」


 まるで、朱莉のことを独占したいのだと言わんばかりで。理解できないもどかしさに、柊吾の服をぎゅっと掴む。


「他には? 全部言って欲しい」

「……どうして」

「朱莉を甘やかしたいから。なんだって聞く」


 妹とは、なんて贅沢なポジションだろう。


 ひくっとしゃくりあげるたびに、兄の手が頭をなでる。せっかくセットしてもらった髪に気を使ってか、彼の手はいつもよりずっと丁寧に動く。その動きに、全身を締め付けられる。


 憧れですらこんなに苦しいなら、自分には恋なんてできない。

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