第20話 答えはまだ

 望まれた自分は、青だった。

 正義と引き立て役のブルー。


 いつも、佐伯 結衣はそうだった。与えられたその役に不満なんかない。


 ただ。

 ブルーという役を結衣自身が望んだことは、覚えている限り一度もなかった。それだけのこと。





 こんな日なのに、雨は降ってくれない。

 幸せだらけの初デートの日にはあれほど結衣を叩いたのに。

 良いことと悪いことは本当に仲睦まじい。今すぐ繋いだ手を引き剥がしてやりたい。


 家に飛び込んで、乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てた。


「結衣? もう帰ってきたの!?」


 荒々しい音に気づいた母の声がキッチンから聞こえてくる。構わず二階に駆け上がり、結衣は自室に飛び込んでドアを閉めた。


 はっ、はっ、と肩で息をする。何度もつばを飲んで、上がった心拍を抑えようと努力する。


 ボディバッグの底でスマホが震えた。汗で指を滑らせながらスマホを叩くと、LINE通知が二件溜まっていた。


【 朱莉 >> マイペースにやれてる? 】

【 おとサマ >> 夜、報告待ってるよん 】


 ふたりとも、ちょうど昼すぎ。緊張しがちな結衣を気遣うようなLINEメッセージだ。


 足を引きずるようにしてベッドまでたどり着くと、壁にはまだ、ふたりと決めたプランAのコーデが吊られたまま。


 振り向いた先にある机の上では、持っていかなかった小さなプレゼントが居残り中だ。リボンを解いたら、ギフトボックスに詰められた不ぞろいなクッキーたちが、行儀よく並んで食べられるときを待っている。


 あ、と思ったら、唇に塩気のある雫が乗った。

 ここまでどうにか耐えたのに、それはとうとう、出番を待ちきれずに降ってきた。


 空がちゃんと雨を降らせてくれないから。帳尻をあわせるのに、結衣が降らせるハメになる。


 ハンカチをバッグから引きずり出して、声を上げそうな唇にきつく当てがう。一緒にバッグから出てきた缶コーヒーは、もう温かさをなくしていた。


 ――私の、欲張り。


 悠は戸惑った顔で、答えを保留にした。きっと今日の結衣に満足してくれたから。そんな悠からすれば、ギブアップする理由など見当たらない。


 結衣だって、今日は完璧ではなかったけれど、よくやれたと思う。悠に望まれた自分らしく、彼をもてなせた。彼も笑ってくれた。


 このまま彼女を続ければ良い。そうすれば、彼を傷つけずにいられる。彼の優しさに甘えられる。


 最善は、はっきりとそこに見えている。



 けれど、もしも。


 彼が見つけてくれたのが、彼を喜ばせたのが、プランAの佐伯 結衣だったなら。

 あの笑顔が初めからみんな、ヒーローのブルーじゃない結衣のために向けられていたなら。


 それはどんなに――。



 * * *



 同日、仁科 朱莉は、人の体から煙が昇るさまを幻視した。


 午後二時四十五分。今日という日はどうしても落ち着かなくて、気分転換にコンビニにでも行こうかと家を出た。


 すると。

 今ごろは可愛い彼女の可愛い姿に忍耐を試されているはずの幼なじみが、困惑と真剣と絶望とひらめきを永久循環させながら、家の前を通り過ぎていくのである。


「ちょっと!? 悠! どこ行くのよ!」


 仁科家を過ぎ、古澤家まで過ぎて、果てなく歩きかねない悠を慌てて呼び止める。

 悠はようやく家に気づいたらしく、ずずいとバックしてきて門を開けた。


「ねぇ、結衣はどうしたの?」

「……朱莉?」


 懐かしく名前呼びで反応を示した悠は、さらに後ずさりして朱莉の前までやってきた。


「俺、今日いまいち?」

「いつもどおりの悠だけど」

「どっか、服装とかミスしてない?」

「ない、と思う。気合入り過ぎな感は、あるかも」


 そうかとうなずいた悠は、また古澤家のほうへ前進する。門に手をかけて、心ここにあらずといった雰囲気でぽそっとつぶやいた。


「フラれた……っぽい」

「………ぽい?」

「うん。たぶんフラれた、んだけど。もう少し保留にしてもらった」


 そして、またモヨモヨと幻の煙を吹かせて、彼は古澤家に吸い込まれていった。


 朱莉は幼なじみを追いかけて、古澤家の門に手をかけた。けれど駄目だと思いとどまる。朱莉がこの先へ行くことはできない。我が家のように行き来していた昔は、もう戻らない。


 悩んだ末、ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出した。通話ボタンを押して耳に当てる。

 ばくばくと心臓が騒ぐ。何度も深呼吸して、声を待つ。


【あかりちゃーん? どしたのー珍しい。柊吾くんですよぉ】


 隣家の長男はいつだって、電話口でおどけてみせる。朱莉とは約二年ぶりの通話なのに、何ひとつ変わらない。


「……あの。今、悠に会って。様子がおかしかったから」

【うん。帰ってきたね。出迎えるとこだよー】

「あ、だったらいいの。ごめんなさい、電話なんかして」


 家にひとりじゃないとわかれば、それでいい。朱莉が通話を終えようとすると【待って】と声が飛んできた。


 かららと窓の開く音がして、古澤家の二階から柊吾が顔を出す。


【んもぅーあかりちゃんたら心配性さん。暗い顔してたら幸せが逃げちゃうぞぉ】


 しんみりしたい朱莉なのに、けらっけらと軽い柊吾の声がそうさせない。くねくねと謎の踊りを披露するところも相変わらずで、大学三年生がこれでいいのかと心配になる。


「もー……切るよ?」


 やや呆れて言うと、柊吾の奇怪な踊りが止まった。窓枠に寄りかかり、彼は微笑んで朱莉を見下ろす。


【笑っててよ、朱莉。俺が大丈夫にするから】


 こんな切り換えが心臓に悪いところも、相変わらずだ。朱莉はきゅっと唇を噛み、大きくうなずいて通話を切った。


 スマホを胸に抱いて閉じた窓を見つめる。

 二年前の今日のことを、朱莉は今もまぶたの裏に焼き付けている。あの夜、大切な幼なじみが流した、悲しいほどに鮮やかな赤を。



 * * *



 上がりかまちにへたんと座り、悠はこてりと頭を壁に預けた。

 少々、混乱中である。

 事態のわりに落ち込みもなく、諦めもない。

 何を聞いても首を振るばかりの彼女相手に、とっさにクリスマスまでの猶予を願い出た自分の機転に惚れ惚れする。


『ごめん……私、古澤くんの彼女……ちゃんとできそうに、ないや』


 たどたどしく言葉にしながら、結衣はずっと涙をこらえていた。その瞳がもう、告白中の女子のそれなのである。


 皮肉にも、悠はこれまで嫌というほど見てきたのだ。校舎裏に呼び出して悠に好きだと告げるたくさんの目を。程度の差はあった。冷やかしもあった。それが悠にでなく恋に恋しているだけのことも、もちろん多々あった。けれど、その中のいくつかは真剣そのものだった。真剣そのものだったがゆえに、直後、抜け駆けだなんだと取っ組み合いの大喧嘩を悠の目の前で繰り広げる惨事にもなった。


 苦いばかりの数々の経験が、今、悠に言う。

 佐伯 結衣は、少なからず古澤 悠に好意を抱いている。


「なんで? なんでブレーキかかった?」


 頑なな結衣は何も答えてくれない。けれど、キーワードはもらった。『ちゃんと』だ。

 知れば知るほど、結衣は真面目だ。会計はきっちり折半したがるし、時間は守るどころかずいぶん早めに動く。受け取ったものにはきちんと返礼をという姿勢が見て取れる。


 そんな彼女だから、悠の好意を重く受け止めすぎた可能性はある。好意を超重量級に育ててしまったのは自分だ。


「出力、しぼり切れてなかったか」


 プレッシャーに感じただろうかと頭を抱える。自分でもそこはわかっている。結衣と関わりを持つにつれ、好意は天井知らずに膨れ上がっていった。


 本当に、彼女は可愛い。


 彼女に対して、なぜ木田が雑に接していられたのかわからない。目の前にいる人間をあんなにも大切にしようとしてくれる女の子を前にして――。


「はーるぅ、何ひとり百面相してんの」

「おっふぁ!」


 背後から突然声をかけられて、全身を跳ねさせる。


「柊吾、いたの」

「ちょっと出ようかと思ってたら帰ってくるし、なーんかぶつぶつ言ってるし」


 柊吾は悠の隣に座って、目を合わせた。


「大丈夫そう」

「ん?」

「珍しくあかりちゃんからお電話もらっちゃった」

「あ、そうか」


 十一月二十一日にフラれたなんて話を聞けば、朱莉が心配しないはずがない。もちろん、柊吾もだ。古澤家にとっても仁科家にとっても、この日付は呪いの数字じみたところがある。

 配慮の足りなかった自分に気づいて、隣家に向けて詫びの念を送った。


「兄ちゃーん。俺、フラれそう」

「の割に、元気そうじゃない。望みはありそう?」

「伝えかたが悪かったかなとか。押しすぎたかなとか。まだ、なんか道が残ってて欲しいだけの悪あがき中」


 柊吾の前で、率直に言葉に出す。ふぅん、と相づちを打った柊吾は、指を組んでうん、と伸びた。


「やーっと兄の出番ですか。可愛い弟は他人にばかり相談して、なーんにも教えてくれないし。俊也さんから又聞きするたびにこっちは心に風穴が開くというのに。うっうっ」

「……兄弟で恋バナとか、ないし」

「あるの! 憧れてきたの! 兄として助言とかしたかったの!」


 ご不満な柊吾はめそめそと口でわざわざ音にして雰囲気を演出し、それからふっと兄の顔になった。


「ま、この兄に佐伯さんのお気持ちがわかるわけもないんだけど。悠のことなら他人よりわかってるつもりでいるよ」

「んじゃあ、そのお兄ちゃんから迷える弟に、どうしたらいいか教えて」

「どうもこうもない。伝えたいことは全部伝えときなってだけ」


 至極一般論なアドバイスに、がっくりと項垂れる。はははと明るく笑った柊吾は、悠の背中をバシバシと叩いた。普通に痛い。力加減などない。


「考えてもみなって。恋愛なんて何の保証もないもの相手にできることなんか、後悔しないように走るの一点のみだろ?」

「それは、そう。身も蓋もないけど」

「ね? 柊吾くんたら天才だね。そして天才だから、悠はまだ一番大切なことを伝えてないんだろうなってこともわかってしまうんだなぁ」


 痛いところを突かれて、悠は口ごもる。


 悠にとって最大のブレーキだ。結衣につながるあらゆることは、消したいほどの過去の中にあるのに。過去の自分をさらけ出すのが恐ろしい。樹生にだって半年かけたものを、この短期間で結衣に伝えるのは到底無理とさえ思える。


 ひたいに残る傷跡を指でたどる。あの日がなければきっと自分は、入学と同時に、彼女に手を伸ばせた。


 柊吾が悠の肩をぽぽんと叩く。


「俺はね。悠がそれだけの傷を乗り越えたこと、誇らしく思ってるよ。少しは自信を持ちたまえ」

「柊――」

「あ、でも今日朱莉を不安にさせたから三十点減点」


 ニッと笑って、柊吾は階段を上っていく。

 兄の背中を見送り、悠は結衣のくれたお菓子をひとつ手にとって、コン、とひたいに当てた。


 電車の中で、お互い何も言えなかった。結衣がきつく噛んでいた唇が切れたりしていないだろうかと、今さら気にかかる。


「あんな顔、見せておいて……」


 結衣には自覚が足りない。悠の頭をわしゃわしゃとなでながら彼女がどんな顔をしていたか、鏡で本人に見せてやりたい。


 宝物でも見つけたみたいな。喜びに揺れる柔らかなまなざしを。


 だから、これが彼女の答えだなんて認めない。

 あのまなざしの語るものが好きという感情でないなら、きっとこの世に恋は存在しない。




 悠の元に、期末考査が終わるまで登下校を別にしたいというLINEメッセージが届いたのは、深夜三時のことだった。

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