第21話 足踏みの時間

 * * *


 十二月第二週には期末考査がある。ここで足を引っ掛けてしまうと、終業式の翌日から二日間、年末補講を受けることになる。二十四日、二十五日。つまり、クリスマスだ。

 

 皆が学業に一極集中する時期だから、結衣が悠と関わらなくともさほど注目されない。勉強期間だといえば納得してもらえる。

 その気にさえなれば、悠ひとりを避けるぐらい簡単なことだった。



 定められた期限は二十四日。強引な押し切りは交際を始めた日と同じ。今度も結衣は流された。せめて答えだけは、何に流されることもなく自力で導き出したい。


 けれど、思考がぐるぐると巡って何ひとつ言葉にすることができないまま、日々がただ過ぎていく。


 悠の誕生日を台無しにして、結衣はブルー佐伯になることを拒否した。だったら彼女を下りるべきとわかっていて、その決断を毎日毎日揺るがせては、頭に常時三本ほど発煙筒を吹かせている。そろそろわかってきた。恋とは地球を敵に回すものだ。


 自分の本質が、正義の青なら良かったのに。

 そんなことを思っていたら、金曜日の映画チャンネルでは肌が真っ青な特殊メイクのハリウッド映画が放送されたりする。


 これこそ正しい青ではと、吸い寄せられるように画面に見入る。


「近っ! 姉ちゃん何やってんの」


 テレビ画面まであと五センチのところまで迫っていた結衣は、啓史のツッコミで我にかえった。


「青くなるって難しいよね」

「CGの手を借りんことには、人類はまだその域に達せんと思うよ」

「やはりCG。CGが全てを解決するのか」

「姉ちゃん、大丈夫か? 勉強のしすぎでおかしくなった?」

「あー……そうだ。勉強だ、勉強」


 とぽとぽとリビングを出て、階段を上がる。期末考査へのプレッシャーか、みぞおちがしくりと痛んだ。





 昼食場所を五組の教室に移し、織音の勉強を手伝いながら食事を済ませる。今回こそ補講を免れたい織音は、パン片手に必死だ。


「樹生センセにもお願いしたいとこなんだけど、あっちも大変らしくて」

「あっちって?」

「こざーくん。頑張ってるらしいよ」


 結衣がお茶でこふっとむせると、すかさず朱莉が背中をさすってくる。


「禁止ワードみたいになってきたじゃないの」

「だ、いじょうぶ……」


 おにぎりを食み、またお茶をひと口。


「結衣、今日もそれだけ?」

「ん。母の愛情おにぎり。美味しいよ」


 期末考査を来週に控え、いよいよ結衣の内臓が緊張に負けつつある。じっくり時間をかけておにぎり一個をなんとか食べるような状態だ。


「ゆいこ。テスト終わったらお泊り会する?」

「んー……食がこれだと楽しめないよねぇ」

「確かにー。寒くなってきたしね。なんでもカワタの豚まん会も無理かー」


 いつの間にか、織音が肉まん派から豚まん派になっている。関西系の言語感染力は強い。


「織音。ここ間違ってる」

「んがっ! もーやだー数学やーだー」

「頑張んなさい。結衣も頑張って口動かす」

「はぁーい」


 お母さん味をにじませる朱莉に、不出来な娘ふたりがそろって返事をした。


「あ、こっちにおった」


 廊下側の窓から、樹生が教室に身を乗り出す。


「織音ぉー。今度こそほんまに英和ちゃん貸してー」

「はぁ? なんで持って帰るわけ? 辞書なんか基本置きっぱじゃん」

「あんね、織音ちゃん。頑張り屋の樹生ちゃんは辞書だってたまーに持って帰んねん。崇め讃えてええよ」

「わぁーすごーい樹生ちゃんえらーい折り目つけたら殴るぅー」

「オレのと違ぉて美しすぎる辞書やしな。丁重に扱うわ」

「んぎぃっ!」


 相変わらずのふたりのやり取りの横から、悠がひょいと顔をのぞかせる。結衣に目を合わせ、こいこいと手招きした。


 まだ進捗半分のおにぎりをいったん置いて、窓に近づく。

 悠は小さなレジ袋をぬっと差し出した。受け取って中をのぞくと、小ぶりなりんごゼリーが入っている。


「差し入れ」

「あ、りがとう」


 不調を伝えた覚えはない。最近はLINEもあまりしていないぐらいだ。

 ちらりと朱莉を見ると、涼しい顔で目をそらされる。情報流出経路はあっさりと割れた。


「ゆいこちゃん、マジで痩せたんやない? ほんまに大丈夫か?」

「テスト前に弱くて。終わったら落ち着くと思う」


 ふっと、悠の指が結衣の頬をかすめた。


「無理しすぎずに」

「……うん」


 触れられた部分だけ、細胞が新しく息吹をあげるような気がする。胸が詰まって目を細め、小さくうなずくしか返せない。

 もっと触れてくれたらいいのに。そんな強欲が、また弱ったみぞおちに噛みついてくる。


「……ほら、やっぱりまだ付き合ってるって」

「ぽいねぇー」


 五組女子のささやきが聞こえる。すかさず織音が反応した。


「気になるなら直接聞けばいいじゃーん? 古澤くんに。はいどうぞー?」

「べ、別に!」

「てか三原に言ってないじゃん」


 感じ悪い、とぶつぶつ言いながらそっぽを向く。いつかの瀬ノ川女子のような反応だ。


「……織音ちゃんのほうが、よっぽどヒーローだね」


 結衣がつぶやくと、織音はきょとんとして首をかしげた。


「あたしはいつだって姫よ? イメージカラーは情熱の赤」

「女王の間違いやろ。イメージカラーは激情の真紅」


 新たなじゃれ合いの火種がついたところで、悠が樹生を引っ張っていく。

 結衣と織音も席に戻り、昼食と学びを再開する。


「結衣」


 先に完食して片付けていた朱莉が、いつもの昼休みより抑えた声音で呼びかけてくる。


「テスト前だろうがなんだろうが、結衣の話ならいつでも聞くから」

「そうだそうだ! あたしは単語帳片手になるけどさー。耳は開いてる!」


 無理強いせず結衣の答えを待ってくれる大切な友人たちに、胸をじんわり温められる。


「話せるところまで頭が動いたら、聞いてくれる?」

「もちろん」

「やっぱりお泊り会もいるね。おかゆパーティしよ。おかゆ最強」


 笑顔のふたりに見守られながら、悠から届いた差し入れの蓋を開ける。

 りんごゼリーは、泣きたいぐらい優しい味がした。





 期末考査開始の月曜日。結衣は久しぶりに寝坊という失態をおかし、いつもより遅く家を出た。ジャングルジムがどんどん巨大化するせいで、最近は寝覚めが悪い。ギネス記録は遠のくばかりだ。


 寝坊とはいっても結衣のいつもが無駄に早いだけで、本来この時間が標準だ。少々の通学ラッシュと普通ペースの登坂を覚悟し、啓史と同じ時間に家を出る。


「そっちもテストじゃないの? 朝練あるんだ?」

「朝勉……直前詰め込みが大事」

「もー。受験生しっかりしなよー」

「姉ちゃんみたいに向瀬狙わないから余裕だって」


 まったく、と弟の暢気さに呆れていると「結衣ちゃーん」と追いかけてくる声がした。


 テスト週間なら高校も朝練はない。寝坊した自分を呪いながら足を止めた。


「おはよ、ひな子」

「ひなちゃんじゃん。久しぶりー」

「わっ! ケイちゃん大きくなったね!」


 はっと白く息を舞わせるひな子が右手をひたいにかざし、啓史を見上げるような仕草をとる。ひな子からすると、啓史は中学一年生で止まっていたのだ。成長期の二年は大きい。


「結衣ちゃんと登校できるの、入学式以来な気がするー」

「すぐ合唱部入ったもんね」

「結衣ちゃんも入ると思ってたのになぁ。今からでも歓迎だよ? アルトはまだまだ募集中!」

「無理無理。朝から声なんか出ないもん」

「結衣ちゃんの声、かっこよかったのに……」


 ひな子は残念そうに軽く顔をうつむかせた。アルト相手にかっこいいと表現するのはひな子ぐらいなものだ。昔からこの幼なじみは、結衣を過大評価したがる。


 どうフォローしたものかと思っていると、ひな子は自ら持ち直してまたご機嫌な顔をした。


「そういえば、ショート! やっぱり結衣ちゃんに似合うね」

「お、おお!? ありがとう」

「ずっと言いたかったんだけど、なかなかタイミングがないんだもん」


 かれこれ一ヶ月もたてば、ショートヘアはやや型崩れしてきた。あごが見え隠れするところまで伸びた結衣の髪を、ひな子は懐かしそうに見つめてくる。


「今のもいいけど、昔みたいにもっと短いのも見たいなー」

「あー、うん。そのうち再挑戦しよう、かな」


 久しぶりの同伴登校に、ひな子の思い出話が止まらない。今日はこれで学校まで行くのかと思うと、軽く胃もたれする。


「……姉ちゃん。どうしよ。筆箱忘れたかも」

「はい!?」


 唐突な啓史の告白で、会話がぴたりと止まった。あわわとした顔の啓史が、鞄の中をカサコソと漁る。


「ちょ、取りに帰りな?」

「帰る、けど。鍵もスマホも持ってない!」


 結衣は忘れ物常習犯の弟に頭を抱えた。

 母も朝から仕事に出る。啓史を送り出したあと、すぐに出発しているはずだ。


「もー何やってんの! 一回帰るよ!」

「うわー! ごめん姉ちゃんもひなちゃんも!」

「ごめんねぇ! ひな子、先行ってて」


 残念な弟の背中を押して、雑に手を振る。「気を付けてー」というひな子の声を聞きながら、姉弟そろって全力疾走した。


 門を曲がったところで、啓史が突然足を止める。


「え、どしたの!?」

「しっ」


 啓史は静かにと指を立て、その場で長々と息を吐いた。


「姉ちゃん、一本あとの電車でも間に合うだろ?」

「ギリギリにはなるけど」

「んじゃあちょっと遅れて行きなよ」


 弟に一杯食わされたと気づいた。もぉ、と啓史の胸に拳を突き出すと、大げさに「ううっ」と返される。


「ひなちゃんて、今もあんな感じなんだ?」

「うん? 相変わらず可愛いよ」

「……そっか」


 急に大人びた表情をみせて、啓史はしれっと鞄からスマホを取り出す。


「ぼちぼちかな」


 そう言って、まるで探るように曲がり角の向こうをのぞいた。


「啓史、ありがとね」

「いいよ。俺がちょっとモヤモヤしただけだし」


 啓史の指がオーケーサインを出すので、結衣もゆっくり歩き出す。


「別に、切らんでいいと思うよ」

「髪?」

「そんで、あのいい匂いのやつ。また使ったらいいと思う」


 照れくさそうに、そんなことを言う。大きくなったのは背だけじゃないんだなと、結衣は弟を見上げた。

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