第23話 わたしたちの完璧なヒーロー
断言するひな子を前に、まさかと首を振った。
これまで結衣が幼く淡い恋心を抱いた男の子はみんな、いつの間にかひな子に夢中になっていた。どんなに結衣が仲良くなっても、最後には『川上さんじゃないほう』になった。
そんな馬鹿なと自分のひらめきを必死に否定しながら、それでも確かめずにはいられない。
「ひな子……今までも、ずっと?」
「だってみんなそうなんだもん。男の子って勝手だよねぇ」
小学校から変わらない無邪気な笑顔を前にして、すとんと腑に落ちた。
ひな子は今も夕暮れの公園に、ジャングルジムのてっぺんにいる。レッドの前座で正義を振りかざす結衣を、ずっと待っている。
「勝手なのはどっちよ!」
織音が声を荒らげても、ひな子の微笑みは崩れない。これが結衣にとっての最善だと、信じて揺るがない。
「ちょっと! 人の話――」
「織音、黙っとり」
暴れ出したがる織音を物理的に抑え込んだまま、樹生が静かに言葉で制する。
「外野には無理や。ゆいこちゃんの声しか聞く耳持っとれへん」
「でも!」
「大丈夫やて。ゆいこちゃんが一番わかっとる。なぁ?」
樹生に言われ、結衣は苦い思いでうなずいた。今ここでひな子に何か言うべきなのは、間違いなく結衣だ。
「結衣……」
「ありがと、朱莉。大丈夫」
ずっと支えてくれていた友人の手に軽く触れ、結衣は階段を上る。
結衣が変わっていくことを、我慢だとひな子は言った。
――ひな子も、そうなんだなぁ。
これが影法師の問いかけを無視し続けた報いなのだろうか。
需要があるのは、青の佐伯 結衣ばかりだ。
「ひな子の言う『そのまま』って、素早さのブルーの私かな」
ふたりにとって思い出深いその言葉に、ひな子が目を輝かせる。期待に満ちたこの瞳を裏切るのかと思ったら、結衣のみぞおちがビシビシと悲鳴をあげた。
「それ。私じゃ、ないんだ」
ジャングルジムを引っこ抜く夢を見た。
地面からおもちゃみたいにすぽっと引き抜いて、遠投したり、踏み潰したり。いろいろと記録を打ち立てた。
朱莉がくれたロングスカートを着て、姿見の前でくるりと一周した。シンデレラはきっとこんな気持ちだったのだろうと思った。落ち着いた紫地のスカートのチェック柄には、ピンクのラインが入っていた。
「ひな子、私ね」
向瀬高校は、通うにはやや遠い。毎日登る坂だって楽じゃない。学力的にも当時の結衣には厳しかった。それでもここを選んだのは、ひな子が他校を受けると聞いたから。
合格発表の日。入学書類の入った紙袋を手に正門を出たところで、結衣はひな子とばったり会った。
こんなはずじゃなかったのにと、そう思った。
いつからか。ひな子と向き合うとき、自分が惨めでたまらなかった。
ずっと、ずっと。佐伯 結衣は。
「ずっと、ひな子になりたかった」
幼なじみの笑顔がひび割れる瞬間を見る。
吐き出した本音は、同時に結衣のことも斬り付けた。胸が軋んでぎりりと痛む。
「結衣、ちゃん?」
「ふわふわロングで、ピンクの、ひな子になりたかったよ」
徳が足りないから、ロングには届かなかった。青にもなれず、ピンクにもなれず。
結衣は、結衣にしかなれない。
「嘘だぁ」
引きつった笑みで、ひな子は結衣の袖に触れた。そしてその手が、ぐっと腕を掴んできた。
「嘘……だよね」
「ごめん。嘘じゃない」
「そんなはずない。だって結衣ちゃんはいつも笑ってた。楽しかったでしょ?」
結衣の腕を掴んだひな子の手は、小学生のか弱く小さな手じゃない。結衣だってそうだ。
「ね? 嘘なんだよね?」
夕暮れの公園から見上げる空にはカラスが飛んで、帰る時間をとうに過ぎてしまったから。歪んでいくひな子の表情から決して逃げずに、現実を受け入れる。
すがりつく幼なじみの手を、ゆっくりと引き剥がす。
『お困りひな子』の助けを呼ぶ目に、結衣は静かに首を横に振って応えた。
「嘘だったら、良かったのにね」
ひな子の言うとおり、本物のヒーローなら。そうしたら結衣は、悠のとなりに堂々と立っていられたのに。
彼の彼女を、ちゃんとやれたのに。
――好き、だなぁ。
宿った嬉しさは、育てかたを知らずとも勝手に膨らんで解をくれた。けれど、その解を渡すあてがない。
悠がくれた恋は、初めから結衣のものじゃなかった。
「なれたら、良かったなぁ」
ぐいと肩を掴まれる。
強引に振り向かされたと思ったら、両頬をばちんと朱莉の手のひらに挟まれた。
「ならないでよ」
「朱莉ぃ、痛いよ……」
「痛くしてるの!」
校内ではほとんど使うことのない朱莉の地声が、階段を上へ下へと渡っていく。いつも大人びて落ち着いた朱莉の目から、ほろりと涙が落ちた。
「結衣が言ったのよ。私に。作り声じゃなくたって良い声だって」
「うん……言った」
「私の友だちはこの佐伯 結衣なの。ヒーローだのロングのピンクだの、そんなヤツお呼びじゃないのよ!」
朱莉の怒声が呼び水となり、破裂したように織音が泣き出す。感情の発露が素直な織音が、こんなとき羨ましい。
両頬もみぞおちも痛い。木田が呆然としていて、ひな子はどこか虚ろな目で震えていて。朱莉は結衣を抱きしめるし、織音はぶつけどころがないのかポカポカと樹生を叩きながら大泣きしている。
教室にわずかに残っていた生徒たちが遠巻きに様子をうかがっている。階段ホールなどというはた迷惑な場所で、収拾のつけ所が迷子だ。
「あーあー。肝心な時に肝心なやつがおらんし」
樹生が天井を仰いでぼやくから、不覚にも結衣は笑ってしまった。悠がここにいたらきっと、結衣はもっと惨めだった。
* * *
「姉ちゃんが自分らしくないことしてんの、俺もう見たくないんです。高校入ってからうまくひなちゃんと距離取れて、ちょっとずつ変わってきてたのに。最近、また無理してて」
啓史のまとまりきらない吐露を受け止めながら、悠はアルバムを閉じた。勝手に彼女の過去をのぞいてしまったことを申し訳なく思う。
こんな場に同席させてしまった隼斗にも悪いことをした。居心地の悪そうな旧友は、悠と目が合うたびに笑って気まずさを隠している。
テーブルに乗せていたスマホが震えて、樹生からのLINeメッセージを受け取る。後で返すかと通知を見送ると、そこからメッセージが
さすがに確認すべきかと、啓史にひと言断ってから画面を叩く。流れてきた大量のメッセージを、悠の頭はすぐには処理しきれなかった。
――なんで今!?
よりによって、自分がいない間に彼女と友人たちがてんやわんやになっている。LINeの情報だけでは掴みきれない。ただ、今まさに啓史に聞かされている話が絡んていることはわかった。
「啓史くん。佐伯さん、川上さんとぶつかったっぽい」
「え……え!?」
「とりあえず今から学校出るらしいから、俺行くし。佐伯さんに内緒で来てるなら、すぐ出るか時間潰して出るかしたほうが――」
「待って!」
立ち上がった悠の手を啓史が掴む。
「
「その話はまた改めて」
「だって、古澤さんもひなちゃんと同じじゃないですか。姉ちゃんがヒーローだから付き合ったんでしょう!?」
断言する啓史に、悠は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「ごめんハル! おれが話しちゃったんだよ。市内合同大会のやつ。あれから、佐伯さんは悠のヒーローだって……そう、いう……」
説明するうちに、隼斗の顔が引きつっていく。
「隼斗……それ、佐伯さんにも言ったの」
「ご、めん。そんなつもりなくて。ただ、ありがとうっていうつもりで」
「言ったんだ」
「……ごめん」
とすんと椅子に座り、頭を抱える。
「いつの話?」
「先月の、土曜」
「……第二土曜日?」
「うん」
――やっと、繋がった。
彼女の言った、『ちゃんと』の意味するところ。
オーバーサイズスウェットとスキニーパンツ。ダウンベストにスニーカー。使わなくなったオレンジのヘアオイル。
初めてのデートとはまったく雰囲気が違う結衣の姿。
「ハル……おれ、また」
「隼斗のせいじゃない」
間違いなく、悠が招いた結果だ。
もっと早くありのままを伝えていれば、こんなことにはならなかった。
たん、たん、と。
人差し指でテーブルを打つ。
誕生日のデート。あのとき、悠の言った『可愛い』に結衣はうつむいた。
――どんな、思いで。
握りしめた右手を、ダンッとテーブルに叩きつける。
「ハルッ!?」
「大丈夫。ちょっと自分を殴りたくなっただけ」
おろおろする隼斗を見ながら、沸騰しかけた頭を冷ます。悠の拳に怯んでしまった啓史に向かって頭を下げた。
「佐伯さんを悩ませたのは、確かに俺だと思う」
「それじゃ――」
「なので俺が解決します。時間、ください」
啓史が「えっ」と面食らった隙に、悠は鞄を掴んで立ち上がる。そのまま店の出入口まで走って、去り際に振り向いた。
「隼斗!」
「え、おれ!?」
「そう! あとよろしく!」
束の間あたふたとした末、隼斗がぐっと親指を立てた。
帰ったら、いつかの親友ともう一度話してみよう。そう決めて、悠は全速力で駅へ向かった。
階段をひと息に駆け上がり、人の流れを避けながら改札に向かう。
「こざ!」
樹生が悠を見つけて手を振る。その横に、朱莉と織音の姿もある。
けれど、結衣がいない。
合流した途端、悠はぎょっとして朱莉の顔を見た。涙ぼろぼろの顔を必死にハンカチで押さえているのだ。
「どういう状況?」
と、隣の織音を見ると、こっちはこっちで、涙こそないものの瞼がパンパンだ。
「三原さんまで!?」
「こいつ、めっちゃ目ぇ擦るんやもん。そら腫れるて」
樹生が苦笑すると、織音はぶうとむくれて樹生の腕をつねった。
ひどい状況なのは理解したが、肝心の結衣がいない。悠がきょろきょろと周りを見回すと、樹生が親指でくいくいと商業ビルのほうを指した。
駅との連結口から、結衣が走ってくる。
「織音ちゃん、これ……って古澤くん!?」
最重要人物である結衣の顔だけが平穏で、それが余計に異様に見える。
走ってきた結衣は、濡らしたハンカチを織音の瞼に乗せ、新しいポケットティッシュを朱莉に渡す。ついで、ペットボトルのお茶を樹生に手渡してから、はたと動きを止めた。
「どうしよ、古澤くんのが何もない!」
「そんなのはいいから!」
結衣に伸ばした悠の手が、ばしりと撥ねつけられた。
悠が目を瞠ると、結衣のほうも驚いた顔で自分の手を見つめた。
「ごめんなさい。ちょっと、びっくりしただけ」
結衣が取り繕った笑みを浮かべる。
――涙は自浄やぞ。出してなんぼや。
いつだったか、樹生にそうやって悠は叱られた。
朱莉と織音がこうやって自浄に励むほどのことがあったのに、今、結衣だけが笑っている。
「佐伯さん、ちょっと話せない?」
「あー、と。今日は、いろいろあって混乱中というか。樹生くんがみんな知ってるから、聞きたかったらそっちでお願いしたいです」
悠を見上げた彼女の奥に、分厚い壁がある。
何も期待していない。諦めてしまったような瞳。二年前、鏡の中から悠を見つめ返すのは、いつもこんな瞳だった。
自分もそうだった。だからわかる。今どんなに言葉を尽くしても、結衣は慰めとしか受け止めてくれない。
「明日から、朝、駅で待ってていい?」
「……ごめん」
「帰りも?」
「うん。ごめん」
「LINeは?」
結衣はふるふると首を横に振った。
「ちょっと……休憩、したい。テスト頑張りすぎたから」
うつむいた彼女は、みぞおちのあたりを手で押さえた。
「じゃあ、いつなら話せる?」
「え……と」
「今、何言っても聞けないと思うから。準備できるまで待つよ。いつまででも待つ」
悠が彼女を追い詰めている。それでも退けない。ここで踏み込まなければ本当に終わるとわかっているから。
初めの告白と同じように押していく悠に、結衣はふっと息を吐いて小さな声で答える。
「二十四日、なら」
クリスマス。前回のデートの終わりに、悠が提案した保留。その最終期限だ。
みぞおちに当てた結衣の手がきつく握られる。
長いと、思った。あと一週間も、この状態の彼女を放って置くのか。迷う悠がふと視線を移すと、じっと成り行きを見守ってくれていた朱莉と織音が、この一週間は任せろと言わんばかりにうなずいた。
――だったら、耐えるから。一度涸れるまで、俺も一緒に待つから。
痛みを握りしめたような結衣の手を、両手で拾って強引に開く。
「二十四日、もう一度デートしよう」
デート、と。結衣がかすれた声で復唱する。彼女のほんのりと赤い頬を、悠は軽く指の背でなでた。
「佐伯さんがいちばん好きな服を着てきて。絶対、大丈夫だから」
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