第24話 エピローグにはまだ早い

 * * *


 相変わらずジャングルジムを引っこ抜く。影法師がたくさん結衣を囲って、無理だ無理だとはやし立てる。その真ん中で顔を真っ赤にして押したり引いたりしていたら、ジャングルジムは突然すぽんと地面から抜けた。


「絶対、大丈夫だから」


 夕暮れの中で軽々とジャングルジムを放り投げた男の子は、悠だった。





 十二月二十三日、二学期終業式。

 やけにすっきりした気分で目が覚めた。

 

 いつも通り、一番人気より二本早い電車を目指して家を出る。制服の上にコートを羽織って、中学から愛用の水色マフラーをくるんと巻いた。今年の十二月は例年より冷えて、明日はホワイトクリスマスになるかもしれないと朝のニュースが言っていた。


 ほふっと、こどもみたいに息の白さを楽しんでいたら、啓史に追いつかれた。


「姉ちゃん、何やってんの?」

「いかに白くなるかを試しているのだよ」

「小学生じゃん」


 呆れたように言っておいて、啓史もはぁふと息を空に向けて放り出す。


「昨日も遅くまで勉強してたみたいだけど、急にどしたの?」

「俺、向瀬受けようと思って」

「今から!? え、間に合うの?」

「もともと射程圏内だからさ。通学距離で弾いてただけ」

「ひな子のこと心配してくれてるなら、大丈夫だよ?」

「違う違う。なんか面白そうだなと思った」


 そんなに魅力あふれる学校だっただろうかと、結衣は首をかしげる。急に弟が大人びた顔をし始めるから、思春期は不思議だ。


「まぁ、無理しない範囲で頑張れ」

「おう! 古澤さんによろしく!」


 じゃあなと手を振って分かれ道の向こうへ走っていく弟の背中に、もう一度首をかしげる。


「なんで、古澤くん?」





 正門から本校舎まで続くプロムナードを歩くと、朝練中のテニス部の軽快な音がする。ぱかん、ぱかんという音はコートを飛び出し、プロムナードのアスファルトを跳ねる。反響を味わっていると、そばのフェンスがガシャンと鳴った。


 ぶつかったボールを拾い上げたのは木田だった。フェンスを挟んでしっかりと目が合ってしまったからには、とりあえず会釈ぐらいしてみる。


「佐伯」


 ラケットでちょいちょいと呼び寄せられて、結衣はプロムナード脇のツツジの植え込みに片足を突っ込んだ。

 フェンスに指をかけてその場にしゃがんだ木田は、何度か顔を上げ下げして、はぁとため息をついた。


「……ごめんな」


 ちょうど一年前だった。『ひな子ちゃんのとなり』じゃない自分になろうとして、結衣は幼なじみと距離をとり続けた。木田はきっと、結衣をそのまま見てくれた男の子だった。

 もっとお互いが踏み込めば、今とは違ったかもしれない。


「私も、ごめん」


 結衣が謝ると、木田は複雑な顔で立ち上がった。結衣もフェンスから離れ、今度こそ正しい区切りを刻んで、またプロムナードを歩いていく。





 体育館での全校集会を終えて教室に戻る途中、ひな子にばったり出くわした。

 ひな子は手を振ることも笑顔を向けることもなく、結衣から目をそらす。足早にすれ違う幼なじみに、結衣はまだ、何と声をかけていいのかわからずにいる。


「ゆいこー!」


 織音が背後からずっしりとのしかかってきた。


「お加減いかが?」

「だいぶ回復したよ。今朝は普通に食べたし、いい夢も見たし」

「お、どんなどんな?」

「ジャングルジム投げでギネス記録を更新しました」


 いぇいとピースサインを作ると、となりで朱莉がぶふっと吹き出し、口元を押さえた。


「どんな夢なの、それは」

「やー、長い戦いだったんたよ。ほんとに」


 ジャングルジムと結衣の戦いの記録を熱く語って聞かせる。軟体化の秘薬をジャングルジムに注入したくだりで、朱莉の腹筋を陥落させた。


 通りかかった九組の教室をふとのぞくと、悠とバチッと目が合う。三秒ほど金縛りにあったあと、小さく手を振ってみる。


 極寒の顔を一瞬で溶かし、彼はふわりと微笑む。また少し、地球をいじめてしまった。




 終業式は午前の三時間で終わり、今度はちゃんと客として、俊也の美容院を訪れた。

 初回にショートをおススメしてきたのは来店頻度を上げるための策かもしれない。切ったら切ったで、ちょっとした長さやボリュームの変化であっさり型崩れするのがショートスタイルである。


「そういえば、おかゆパーティしたんだって?」

「俊也さんってなんでも知ってますね」

「向瀬高校に優秀な諜報員を放っているもので」


 水曜日の大惨事のあと、結衣は二日間ダウンして学校を休み、土日で織音の家にお泊りするというなかなかの無茶をこなした。

 そんな結衣のために開かれたのがおかゆパーティだ。朱莉と織音と三人で、卵がゆ、鶏がゆ、白がゆを囲った。白がゆを並べた時点で、なぜ梅がゆにしなかったのかと三人で悔いた。


 たくさん話した。

 自分の今までを。ひな子とのことを。

 それから悠のことを。彼に恋をした結衣のことを。

 朱莉も織音もただうなずいて、ひと晩中、結衣の話を聞いてくれた。



 しゃく、しゃくと。約二ヶ月で伸びた分だけ髪を落としてもらう。前髪にハサミが触れるあいだ目を閉じて、再び開いたら仰天した。


「え、短!」

「オン眉いってみました。斜めに流せるようにしてあるから、幼くは見えないよ」

「うわぁ……これはまた……攻めた」

「お任せしてくれるとのことだから。プロとしましては、常に新鮮さをお届けしなくてはね」


 俊也はブローした結衣の髪を、前回同様ヘアオイルで仕上げていく。


「あれ? 香りが違う」

「これは僕から、弟の素敵な友人にクリスマスプレゼント。この間のサンプルボトルはオレンジなんだけど、こっちは冬季限定のローズです」


 鏡の前に、リボンのかかった小さなボトルがことんと置かれる。


「なんかもう、俊也さんに恋しちゃいそうですね」

「こざくんがうちに来てくれなくなるから、丁重にお断りします」


 彼の名前を出されると、ついうつむきたくなる。


 明日は約束のデートなのに、結衣はまだ踏ん切りがつかずにいる。今度こそはっきり断らなければと気負うほど、キャンセル申請したい気持ちが膨れ上がっていく。

 先延ばしにして好転するものなど、なにひとつないのに。


 くいーっと結衣の肩を揉んだ俊也は、鏡越しに笑いかけてきた。


「そういう女の子をおしゃれにセットしてあげたくてこの仕事をしてるんだけどね。予約が埋まっててどうにも」

「いえ、大丈夫です。大人なローズが味方についたので」


 ぐっと力こぶを作るような仕草で応じると、ぽんぽんと両肩を叩かれた。


「ひとつ、良いことを教えてあげようか」

「おっ! なんですか?」


 やや前のめりになった結衣に、俊也はすっと真剣な目をした。


「信じてみたら、なんとかなることもあるんだよ」

「……んー……頑張ります」


 なんだぁと拍子抜けしたら、セット椅子をくるりと回された。鏡越しでない俊也が、結衣の真正面に立つ。


「こざくんの初めてのオーダーは、学校でいちばんかっこいいやつになる、だった。その時からもう、彼の中には佐伯さんがいた」


 手のひらに、オイルのボトルが乗せられる。


「明日は、そんな男が本気であなたに挑んでくるので。どうか、本気で迎え撃ってあげて。彼の友人としてのお願いです」


 本気で迎え撃て。

 霧を晴らすような俊也の言葉で、我に返った。

 向き合うことから逃げて終わらせてしまった前の恋と、結衣は今、同じことをしようとしている。


 一度目のデートは、悠から結衣に。

 二度目のデートは、ヒーローの結衣として悠に。


 まだ、結衣はちゃんと彼に挑んでいない。彼が青でもピンクでもない結衣の彼氏をしたいか、試してもらっていない。


 ――そうなると、佐伯さんは俺の彼女をしたいかどうかわからないままで――


 このままでは。

 何も、始まらないのだ。


「ありがとうございます! 佐伯、全力で迎え撃ってきます!」

「お、初めて会った日の佐伯さんの顔になったね」


 跳ねるようにセット椅子を下り、会計を済ませてドアを開ける。スマホを見ると午後一時を過ぎていた。


 LINEを起動してメッセージを叩く。


【 ゆい >> 明日の行き先って決まってるかな 】


 ほどなくして、ぽこんとメッセージが届く。


【 こざわ >> 市民公園の方面に行きたくて。午後集合でどうかなと思ってました 】

【 こざわ >> 昼食をご一緒するには、まだ復調しきってないかなと思いまして 】


 どうかな、どうかなと揺れるペンギンがメッセージに付いてくる。


 優しいと可愛いの同時攻撃で、結衣の体温が上昇する。あわわと表情筋を引っ張って、顔面を物理的に引き締めた。


 その気遣いも。LINEになると、どうしてか敬語になるところも。隙あらば飛び込んでくるペンギンも。


 ――会いたい。


 苦しくなるとわかっているのに。彼の笑顔に、彼の声に、こんなにも焦がれる。


 知らなかった。

 恋は、自覚が進むほどに加速するのだ。

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