第15話 世紀の大勘違い

 * * *


 十一月の第二日曜日。

 結衣は懐かしの市民体育館にいた。ここに来るのは中三の秋以来だ。


「姉ちゃーん!」


 弟の啓史がぶんぶんと手を振りながら走ってくる。我が弟ながら、こういう時の動きが幼い。バスケの試合中は機敏にやれているのだろうかとときどき心配になるほどだ。


 体育館前で、啓史のタオルと着替えが入った紙袋を渡す。


「もー。なんでまるごと玄関に置いてくかなぁ」

「ごめんてぇ。もうすぐ試合だけど、良かったら見てく?」

「ちょっとだけね」


 片道一時間もかかるところへきて、荷物を渡してとんぼ返りというのも味気ない。体育館二階のギャラリーへ向かう途中、いつぞや防火水を浴びた場所を通り過ぎた。


 あれから、二年。ここをきっかけに今、結衣は悠の彼女をさせてもらっている。

 あの過剰なまでの甘やかしは、彼にとって恩返しに近い感覚もあるのかもしれない。


 結衣がギャラリーの後方席に落ち着くと、下から啓史が見上げて手を振ってきた。啓史の友人たちがなんだなんだと集まってきて、最終的に他校生までもが皆手を振る。

 中学生から見ると、たとえ相手が結衣でも「素敵な年上のお姉さん」らしい。ふたつしか違わないのに可愛いものだなぁと笑って応じた。


 悠の可愛げもこんな風に微笑ましく見ていられるたぐいならいいのに。彼の場合はどうにもこうにも結衣の衝動を突き動かそうとするからタチが悪い。


「あの……すいません」


 結衣の後ろから、聞きなれない声がする。話しかけられているのは自分だろうかと、そろりと振り向いた。


「あ、やっぱりそうだ! 仁科の友だちさんだよね」


 背の高い、私服姿の男子。人好きのする笑顔を浮かべた相手の顔にピンとこなくて、反応に詰まる。彼はやってしまったという顔で、結衣のとなりに座った。


「覚えてないかぁ。前にほら、夕方、ハルと歩いてたときに会ったんだけど」

「……ああ! 古澤くんの!」


 ようやく記憶を引きずり出す。朱莉にスカートをもらった日、コンビニ前で遭遇した他校生だ。


「おれ、長塚ながつか 隼斗はやとね。仁科とハルと同じ東二中で、今は宮浜高校」

「佐伯です。佐伯 結衣」

「すごい偶然。今日、バレー部の後輩の応援で来てて」

「私は弟の忘れ物を届けに来た流れで」


 隼斗がへへと笑うので、結衣も笑い返す。


「隼斗ぉ、ナンパすんなよ」

ちげぇよ! ただの知り合い。先行ってて」


 彼の連れだろう友人数名が軽口を寄越して、ギャラリーを出ていく。だが、隼斗はそのまま結衣のとなりを動かない。


 状況が飲み込めない。

 知り合いというほど知り合いでもない。加えて彼は、悠が結衣を紹介したくないような気まずい相手なのだ。手にじんわりと汗を握りながら隼斗の出方を待っていると、体育館に試合開始のブザーが鳴り響いた。

 奇しくも、啓史たちの対戦相手は東二中だ。


「ハルはあんなこと言ってたけど、佐伯さんて……彼女よな?」

「え……っと、友人です」

「違うのかぁ」


 悠の意向を汲んで嘘をつく。隼斗が残念そうにうなだれるので、罪悪感が結衣の中に湧いた。


「でも、友だちは友だちなんだよな!?」


 うなだれから一転、今度はやや前のめりで確認される。勢いに押されてこくこくとうなずくと、隼斗は温泉に浸かったみたいな顔をして肩の力を抜いた。


「そっか。女子の友だちができたんだ。なら、良かった」


 悠は隼斗相手に厚い壁を築いていた。けれど隼斗のほうは、大切な友人を案じる旧友の顔をしている。


「あの……古澤くんて……その」


 何をどう聞いていいものか。結衣が尋ねあぐねていると、隼斗のほうから手を差し伸べてくれる。


「ハルさ。あの顔じゃん」

「天が気合を入れすぎた美顔ではありますね」

「うまいこと言うね、佐伯さん。まぁその美顔のせいで、中学んとき女子から熱狂的におっかけられまくってさ。集団ストーカーみたいなもん。それで男子からもハブられて、友だち作れるような状況じゃなかったんだ」


 良かった良かったと、隼斗は繰り返す。


「高校じゃうまくやれてるんだなぁ」


 安心しきった顔に、いいえ極寒王子と呼ばれています、などと言うわけにもいかず。結衣は曖昧に笑って返事を濁す。

 

 と、隼斗がぐいと顔を近づけてきた。んんんと難しい顔をする。


「佐伯さん。もしかして、なんだけど光陽こうよう中学出身?」

「そう、ですが」

「昔ここで水浴びたこと、ある?」

「……あ、る」


 途端、隼斗の目が輝く。


 ビビーッと審判のホイッスルが鳴り響く。体育館に歓声が響く中、隼斗は興奮気味に手を上下させた。


「ハルのために怒鳴ってくれた子だろ!? あれからアイツ志望校変えて、すっげぇ頑張って向瀬行ったんだよ! そっか、そっかぁぁ!」

「え、ええと?」

「うわ! もしかして、ハルから聞かされてない?」


 しまったと口を押さえた隼斗だが、まだ興奮の覚める気配がない。


「ハルが誰かにあんな風にかばってもらったの、すごいレアでさ。その……ほんとに嬉しかったと思うんだよ」


 だから、と。

 隼斗は確信を持った顔で宣言した。


「あの日から、佐伯さんはハルにとってのヒーローなんだ」


 そんな相手と再会なんて、運命だ。

 嬉々として隼斗が語る声が、急に小さく聞こえる。ダン、ダンと弾むボールの音と歓声の中で、結衣は楽しげに動く隼斗の口元をぼんやりと見つめた。


 あれ、と。結衣の思考が沼にドボンと落ちた。


 頭の中に、上品な紫のスカートをふわりと踊らせる自分が現れる。

 女子力お高めの結衣が、くるくると回りつづける。その足元にゴッと火がついた途端、バレエのようなステップから、情熱のサンバに踊りを変えた。


 ――あ、あぁぁぁ大勘違い!!


 激しい踊りが結衣の顔面にまで火をつける。北極の氷がどんどん溶けてしまう。クマを美味しく食べてしまった結衣に、ピンクのリボンをつけたクマが海の中で切なげに手を振っている。


 ――うわぁ! どうしよう、どうしよう! 消えたい!


 ちゃんと朱莉にも聞いたのに。きっかけはここだと、はっきり言われたのに。

 どうして今まで結びつけようとしなかったのか。


 あの日、悠が見たものは結衣だ。

 長年のレインボーブルーで培った、結衣の正義感の暴走だ。

 

 そんなことも知らずに、結衣は美容院で可愛げをオーダーし、女子力お高めのスカートでデートをした。次回デートにと、全力可愛いコーデまで用意してしまった。



 ハーフタイムのブザーとともに、隼斗が立ち上がる。


「長々ごめんな。そろそろ行くわ」

「あ、ぁぁ、うん!」

「おれが言うことじゃないんだけど……ハルのことよろしく!」

「はぃぃ! よろしくされました!」

 

 爽やかに手を振って、隼斗は駆け足で去っていく。そんな彼を、ヒーローらしく敬礼で見送る。そして、結衣はへなへなと座席にへたり込んだ。


「穴。穴、入りたい。誰か穴掘ってぇ」


 あまりに可愛いを連呼されるから、勘違いをして舞い上がってしまった。


 需要があったのは、正義のヒーロー、レインボーブルーの結衣だったのだ。






 世界最大のジャングルジムが空から降ってくる夢を見た。冴えない結衣の顔が鏡に映る、そんな月曜日の朝。


 俊也にお試しでもらってから嬉々として使ってきたオレンジオイルを、いやいやと棚に戻した。


「姉ちゃん? 昨日からどしたん」


 啓史が不審な顔で声をかけてくるが、弟に相談できるはずもない。

 きみの姉は浮かれて大勘違いをしていたのです、などと。


 私服はまだいい。着慣れたユニセックスカジュアルに戻せば一発解決だ。だが制服はどうしようもない。向瀬高校にはまだ女子のスラックスが導入されていない。中学時代に慣れ親しんだスカート下のジャージ履きしかないか。


 鏡と睨みあい、頬にかかる髪を引っ張ったり流したり。


「啓史ー。長すぎるかなぁ」

「切ったばっかじゃん。せっかく可愛げが上がったのに。ほんと、どしたん?」


 自分の勘違いがあまりに恥ずかしくて、俊也に相談に行く気力もない。タダで手を尽くしてくれた髪型にケチをつけるのが申し訳なくもある。


 結衣は今、約二年ぶりにヒーローを目指す術を全力で探していた。

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