第29話 いつもとひと味違う朝
高校三年九月、最終月曜日。
文化祭から、あっという間に二週間が過ぎた。最後のお祭りを終えた三年生はこの先受験一色である。
鏡の前で、あ、あ、と声を確かめる。今日も作り物のアナウンサー声は好調だ。
朱莉の地声はアニメ感が強い。小学生の頃はよく、日曜朝の定番、変身して戦う女の子アニメに出てくるヒロイン――の横でプカプカ浮いているマスコットに例えられた。
このせいで、典型的ないじめを経験した。小学校にはろくな思い出がない。当時に比べたら少しは低くなったが、それでもまだ他者の
意識して、低く。喉を開けて、息を喉奥にやや押し返すようなつもりで。朱莉はそうやって武装を整えてから家を出る。
続いて、仁科家の門を出たところで必ず足を止める。そこから見上げるのはおとなり、古澤家だ。
ちょうど朱莉の部屋と向かいになる角部屋の窓が、毎朝七時にからりと開く。くぁぁとあくびをしながら柊吾が顔を出す。
今日も推しアニメのコラボTシャツを身につけ、いかにも寝起きのぼさついた頭を軽く手櫛でなでつけながら、柊吾はふっと視線を下げる。門前にいる朱莉に気付いたら、ふにゃりと相好を崩して手を振ってくる――と、朱莉は勝手に解釈している。相手に押し付けさえしなければ、捉え方は自由だ。
やんわりと弓型になる彼の目を遠くに見ながら、朱莉も小さく手を振り返す。柊吾の顔を必ず見られる貴重な十秒を今朝も味わってから、駅へ向かって歩く。
これは推し活、いや、もはや仕事。そう、推し事である。
一日の活力。生きていると感じる瞬間。推しは朱莉の体を軽くし、ラッシュアワーの電車にも前のめりでぐいぐい踏み込ませる。
訂正。前のめりは無理だ。
みちりと人を積み込んだ電車のドアが開いて、朱莉はうわぁと顔をしかめる。上手く滑り込めるスペースを見つけて、適当に捕まる場所を確保して息をつく。九月の車内は、空調を中途半端に手加減するからいけない。まだ夏を手放したくない九月が、停車するたびに熱気と湿気をドアから放り込んでくる。
あと一本早いだけで、混雑度はやや緩和されるのに。
それもこれも、柊吾が七時きっかりに顔を出すのが悪い。
一度推し事を諦めて電車を早めたら、通学は快適だが心を北風が吹き抜けた。あれは高校一年の七月のことだった。真夏日に北風を体感するほど、心がしおれた。
そんな経験をして、推しと朝のラッシュを
朱莉の最寄り駅である
駅から南側へ向かうのが、共学私立校の
推しと同じ路線の電車で、同じ時間だけ揺られて同じ坂まで上って高校に通う。
つまり、毎日が聖地巡礼。
とはいえ、通学中に柊吾と会ったことは一度もない。たとえ隣家に暮らしていても、彼の生活スタイルはほとんどわからない。高校生と大学生とはそんなものだ。
さて今朝は……と、朱莉は車内でも推し事を始める。現在の観察対象は、英星高校の
混雑する車内で、初々しい男女の姿をそれとなく視界に入れる。電車の振動でお互いの体がぶつかって、それだけで照れ笑いを浮かべているのがいい。
心の推し事
向瀬駅で電車を降りると、二分違いで下りの電車がホームに入る。朱莉が橋上にある駅の改札にたどり着くと、下り線側の階段から珍しく結衣が上がってきた。
駅の時計を見ると、七時五十分。この時間ならとっくに学校への登坂終盤にいるはずの結衣は、朱莉を見つけて焦り顔で走ってきた。
「はー! 人すごかった!」
「珍しいじゃない。寝坊?」
「昨日LINEしてたら遅くなって。アラーム抹殺しちゃった」
「働きもののアラームにもう少し優しくありなさいね」
結衣は、いつも朝七時三十五分にこの駅に到着する。そんな彼女と並んで坂を上るべく、隣家の次男、悠は朱莉より二十分ほど早く家を出る。
そんな悠はどうしただろうかと改札を見れば、黄色いイヤホンを耳に突っ込み、周囲に見えない壁を張り巡らせながら結衣を待っていた。
「あわぁ! 先行っててねってLINEしたのに!」
結衣が急いで改札を抜ける。彼女に気づいて表情を明るくした悠は、いそいそとイヤホンを外して迎えた。
朱莉は少し足を緩めて、改札をまだ抜けずに、朝のふたりの逢瀬を見守ることにした。
結衣がワタワタと両手をばたつかせ、苦笑した悠が何か言葉を返す。そして、彼は柔らかく目尻を下げて彼女のぴこんとした寝癖をきゅきゅっとなでた。
――最ッ高!
車内の初々しいカップルも悪くなかったが、やっぱり結衣と悠には敵わない。圧倒的に推せる。
彼らの正式な交際開始からついに九ヶ月。すっかりぎこちなさが消えた今のふたりから放たれる、ともに在ることが自然の摂理であるかのような空気感が、朱莉の精神を整える。
心をパンパンに推しで満たした。こっそり改札を抜けて先に行こうとしたら、結衣がパッとこちらを向く。
「朱莉ー、行こー!」
「……そうなるのよねぇ」
結衣はこんなとき、朱莉を放っておかない。悠を大事にしながら、朱莉のことも同じく大事にする。
朱莉と悠の真ん中に立つ結衣を見るたびに思う。『結』という字は、実に彼女にふさわしい。
そんな結衣らしさに朱莉が笑うと、悠が同じように笑みを浮かべる。女子から極寒王子と呼ばれる幼なじみは、昔みたいな人懐っこい表情をまた朱莉に見せるようになった。
そこに背後から、関西色のイントネーションを持った樹生の声がぽぉんと飛んでくる。
「なんで朝から集合しとんの」
んん、と三人同時に振り向くと、ぶはっと樹生に笑われた。
「いやいや、そろい過ぎやろ。おはよーさん」
くっくっと肩を震わせて、樹生が追いつく。さすがに四人一列は幅広なので、女子が前、男子が後ろという陣形が自然に出来上がる。
駅を出てコンビニ前を通過すると、てたたと足音が追いかけてくる。レジ袋をガッサガッサと鳴らし、「うぉぉぉい!」と叫ぶのは織音だ。
さっと結衣のとなりに並び、織音が早口に問う。
「なになに!? 朝から何集会?」
「結衣のお寝坊祝いよ」
「やぁん素敵! ゆいこ、もっとお寝坊しよう! こざーくんにばっかり独り占めはさせないぜ」
「うぅ……そんな寝坊常習犯になりたくないぃ」
こんな他愛ない会話が幸せで。この五人でいる時間が、今は何より大切で。
朝七時には推しエネルギーを補給して、学校では結衣と悠の優しい空気感を堪能して、織音と樹生の分厚い友情を楽しむ。これ以上ないほど、朱莉の日々は満たされている。
だから。
「あの! 仁科 朱莉さん!」
こんな、聞き覚えのない男声の呼びかけも。
「よかったら! これ、もらってください!」
ぐっと突き出されたコンビニのレジ袋も。
「瀬ノ川学院高等部、一年F組、
突然の名乗りも、突然の告白も。
「…………はい?」
朱莉は、まったく必要としていなかった。
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