第13話 自分らしさ

 * * *


 もらってばかりは心苦しい。

 だから、たまには早起きする。いつもより二十分早くアラームをかけたら、ジャングルジムを遠投するところで叩き起こされた。あの遠投はついにギネス記録を塗り替えたか、見届けられなかったのが心残りだ。


「もー、姉ちゃん! 洗面所ゆずって!」

「わかってる! わかってるからあと三分」

「だいたい姉ちゃんのが後に出るんだろ」

「今日は一本早い電車なの!」


 弟の啓史けいしとぎゃあぎゃあ言い合いながら、結衣はヘアオイルを少しだけ髪になじませる。そのままでもまとまりよい頭だが、サイドをふんわりさせるのが可愛さの秘訣だ。ショートヘアに戻ってから四日、多少は扱いに慣れてきた。


「姉ちゃんさぁ。彼氏できたろ」

「ど、ぅ、え!?」

「見りゃわかるって」


 自信満々な指摘だが、惜しい。彼氏は昨年十二月からずっといる。先月中盤から相手は変わったが。


 啓史にニヤニヤと見守られながら、最後に前髪をささっと整える。


「ほら、朝練遅れるよー」

「自分が占拠してたくせに。偉そうにしてっと彼氏にフラれるぞ」


 それも経験済みだが。

 中学三年生でまだ幼さのある啓史は、この姉がフラれたその日に新しい彼氏を作ったなどと信じもしないだろう。


 これ以上何か言われる前にと、結衣はさっさと家を出た。





 十一月に入り急に寒さが加速しだす。そろそろコートの季節だろうかと思いながら、向瀬駅の改札前で両手にはっと息をかけた。


 毎日悠が待っていてくれる場所で、今日は結衣が待つ。お返しにしてはささやかすぎるが、できることからやってみる。


 ただ待っているだけなのに、すでに鼓動が早い。この改札から出てくるとき、悠はどんな顔をするだろうか。あれこれ予想すると、胸がほこほこと温かみを持ち始める。


 少しの気恥ずかしさとともに待っていると、瀬ノ川学院の女子生徒が近づいてきた。見覚えがあると思ったら、いつぞや悠に冷たく追い払われたあの三人組だ。


「ねぇ、あの感じ悪い人と付き合ってるんですか?」


 悠のことを言いたいのだろう。自分たちの失礼さを棚上げしたような表現に結衣が「……まぁ」と返すと、三人は「ええー」とわざわざ大声で驚いてみせる。


「大丈夫なんですか?」

「あの人、めちゃくちゃ性格悪くないです?」


 きゃっきゃと朝からかしましい。性格が悪いのはどちらだと言いたい気持ちをふところに押し込めて、結衣は口を開いた。


「人違いじゃないですか? 彼に性格悪いところなんてありませんし」

「かばいたい気持ちはわかるけどさぁ。彼女サン、知ってる? 彼、写真一枚頼んだだけでキレるような人だよ?」

「普通、そうじゃないですか?」


 どうも結衣は、悠と写真の絡む話に縁がある。まるでいつかの市民体育館でのひと幕のようだ。ついつい、そばに防火水バケツがないかと確認したくなる。


「彼、別に芸能人でもモデルでもないです。拒否して当然だと思います」

「わ、なになに? 彼氏を撮らないでってやつ? かっわいー!」


 いつかの腹いせに結衣を煽ってやろうという気持ちが透けて見える。

 結衣は一度駅を離れてやり過ごそうかと、三人が作る壁の脇をするりと抜けた。


 すると、目の前にさらに大きな壁が現れた。ぼんとぶつかると、そのまま結衣の肩がくっと引き寄せられる。


「彼女に、何か?」


 ズンッと重い悠の声が結衣を守ろうとする。さっきまで強気だった三人は、何かモゴモゴと言い訳をしながらあとずさっていく。


「文句つけるなら、俺にしてください。彼女は何も関係ないので――」

「関係なくないです。言いたいことがあるならどうぞ。でも、彼の写真を撮るのは絶対にお断りします」


 悠を背中にかばい、結衣はハッキリと告げた。


「やってらんない」


 捨て台詞のようなものを雑において、三人は走り去っていく。

 結衣のほうは苛立ちがおさまらず、握り拳の右手をぶんぶんと上下させた。


「やってらんないのはこっちだってば」

「そんな怒ることないよ」

「嫌だ、怒ります。失礼すぎる!」


 振り続けた右手を、悠にパシっと捕まえられた。


「今朝はずいぶん早いね。手、冷えてる」


 無礼者のせいで、危うく今日の本題を忘れるところだった。結衣は悠の顔を見上げて、ふひっと笑う。


「たまには私がお出迎えしたいなっていう企画です!」


 悠はしばらく時を止めた。

 それからじんわりと右手を動かし、自分の頬をくにっと引っ張った。


「……俺、まだ夢の中?」

「むちゃくちゃ現実だから行こっか」


 二週間を経て、並ぶときの間隔は狭くなった。歩いていると互いの手が軽く触れる瞬間があって、そのたびに結衣は少しだけ緊張する。


 貝合せみたいな手繋ぎ。憧れは、ある。


 うずうずする好奇心を表に出さないよう努めて、今日も朝の坂道を上る。





 いつもなら弁当の結衣だが、今日は昼食を購買に頼る。忙しい母の愛を二十分早く箱詰めしてもらうのは気が退けたし、結衣が自分で詰める余裕もなかった。


 昼休憩に入ってからの争奪戦には絶対に勝てない。購買の常連である織音の助言に従い、二時間目終わりの二十分休憩を狙う。そこで、パンの先行販売があるのだ。


 もみくちゃになりながらもなんとか惣菜パン二種を勝ち取り、気分良く教室へ向かう。そんな結衣を軽い足音が追いかけてきた。


「はー追いついたぁ」

「あれ、ひな子も購買?」

「最近はそうなの。朝練にお弁当が大変で」


 朝から発声に努めた美しいソプラノで、ひな子はコロコロと笑う。鈴を転がすような、というたとえはこんな声のためにある。

 そんな鈴声帯のひな子は、慎重そうに声を押さえて話を切り出した。


「結衣ちゃん、変なこと聞くんだけどね……無理、してない?」

「なんだい急に」

「土曜日、珍しい格好してたでしょう。デートだったんだよね?」

「あー……そのような、ものです」


 結衣が照れ笑いで応じると、ひな子は真剣な顔で結衣の左手を引いた。


「結衣ちゃんらしくないなって、心配になったんだ」


 結衣の肩にずしりとのしかかる『らしくない』判定。昔から結衣を知るひな子の言葉だけに、説得力がある。


「そういうのってね、ずっと続けたらつらいと思うの。もし古澤くんの好みに合わせてるんだったら」

「違う!」


 声を張った直後、結衣の顔面がかぁっと熱くなった。


 ――む、むちゃくちゃ声出たぁ!


 結衣の放った「違う」が階段を反響して登っていく。慌ててひな子の顔を見たら、そこには懐かしの『お困りひな子』がいた。


 眉を寄せても眉間にシワが寄らない。漫画のヒロインみたいにきれいに下がる、ひな子の眉尻。この顔は、男子にからかわれたときの彼女の定番顔だ。


 小学生時代、引っ込み思案で学年一小柄なひな子は、男子からちょっかいをかけられることが多かった。『お困りひな子』は、結衣の出動サインだ。ブルー担当の結衣は幼年男子の淡い恋心という機微がわからず、正義の旗を掲げてプリンセスのためによく闘ったものだった。


 高校生になった今も、この顔には弱い。


「あ、あのね? 違うんだよ。古澤くんは、そういうリクエストとかする人じゃないからさ」

「じゃあ、結衣ちゃんが自分で選んだの? あんなスカートを?」


 『あんなスカート』に見せてしまった。メーカーと朱莉と朱莉の従姉に詫びたい。

 朱莉の品質保証付きスカートに罪はない。結衣が合わせたユニセックスパーカーとのバランスが、スカートの質を著しく損ねたのだろう。


 ――服買おう。すぐ買おう。

 

 残念なクローゼットの中身を思い浮かべながら、決意を新たにする。今月は悠の誕生日が控えていて、結衣は密かにお返しデートを考えている。


「実は、借り物スカートだったから。今度は自分仕様にするよ」

「やっぱりそうなんだぁ。結衣ちゃん、ああいう服好きじゃないもんね」


 ほっとしたようにひな子が言う。結衣は「んん?」と首をかしげた。らしい、らしくないでいけば、らしくない。だが、好き嫌いでいくと、必ずしも嫌いではない。


「んー……どうだろ」

「わたしは結衣ちゃんのスポーツカジュアル、好きだけどなぁ」


 そっちも嫌いなわけではない。嫌いならああもクローゼットを埋めはしないし、我ながら似合うとも思う。けれど、好きかと言われるとこれまた疑問だ。


 ――好きな服、とは?


 とんだ難題を引き当ててしまった。階段を上がりきったところで、結衣の足は完全に止まる。


「ねぇ。それ、わざと?」


 空気をぴりりと張り詰めさせるような織音の声がする。いつからそこにいたのか、階段ホール前の廊下で腕組みした織音が仁王立ちしている。


「えっ……と。三原さん」

「気軽に織音サマって呼んでくれていいのよ。で、川上さんのそれはわざとなの? それとも天然?」


 責めるような口調に、ひな子がたじろぐ。織音は早足で結衣とひな子の間に入り、レジ袋を下げた結衣の右手首を掴んだ。


「ゆいこにスカートが似合わないって暗示でもかけたいみたいだけど、それ、計算か天然かって聞いてんの」

「そんなことないよ! ただ心配になっただけで!」

「あーそう? でもこの織音サマはなーんにも心配してない。ゆいこはこざーくんにもったいないぐらい可愛い。だから川上さんも心配しなくてだいじょーぶ。安心してちょーだい」


 織音の謎理論に、ひな子がぽかんと口を開けてかたまる。通り過ぎる人が、なんだなんだと視線を投げてくる。


 さっさとこの場を退散したい結衣なのだが、今、左手をひな子、右手首を織音に掴まれている。大岡裁きの様相を呈してきた。本当の母は右手か、左手か。どちらでもない。結衣の母は今頃職場でせっせと接客中だ。


 織音の鋭い視線にひな子は何度も首を振る。そんなつもりは欠片もないのだと、無実を訴えるように。間に挟まる結衣はいたたまれなさでみぞおちが痛い。


 決着のつかない裁きの場に、樹生の大声が飛んできた。


「織音ぉ! オレの英和辞典!」


 階段ホールまで走ってきた樹生は、両手を引かれて動けない結衣を見てしばし沈黙した。


「……大岡裁き?」


 発想が結衣と同じレベルだった。

 樹生の言葉を聞いた織音が、パッと結衣の手を離す。すかさず織音の手を掴んだ樹生は、その手を天井に掲げた。


「勝者、三原 織音。真のお母さんです」

「ッしゃァ!」


 敗者ひな子が、古典的に『ガァン』という擬態語をつけたくなるような顔をしている。

 なんなんだ、この裁きは。


「アホなことしとらんと。授業始まるし、オレの英和辞典!」

「もー。十万六千語ぐらい常々頭に詰めときなさいよ」

「人の英和ちゃん誘拐しといて何をしゃあしゃあとぬかしとんねん」


 さり気なくひな子の手をとき、結衣も流れに乗って動き出す。階段に一番近い五組の教室に入った織音は、英和辞典を窓から樹生に押し付けた。


「励めよー!」

「追試組に言われたぁないわ。励むけど」


 いつの間にかいいコンビになっているなぁと笑いながら、五組の前を通り過ぎる。樹生がいるせいか、ひな子はやや居心地が悪そうだ。男子を不得手とするところは変わっていないのだろう。


 左手に辞書を抱えた樹生は、自身の右手をしげしげと眺めながら廊下を進む。


「樹生くん、手、痛めた?」

「ん? あー、ちゃう。なんか……さわれるもんやなぁと思て」


 先ほど、織音の手を掴んだことを思い出しているのだろう。


「織音ちゃん、髪以外は触られても大丈夫だから」

「……確かに、本人もそない言うとった。けど、いざ接触すると、なんとも人体の不思議よなぁて」


 出会い始めの勉強会では決裂したかに見えた樹生と織音だが、やたらと波長が合うようで。トラウマを抱えた織音に、そんなことを包み隠さず明かせる男友達ができたことが嬉しい。


 ぱっぱと右手を結んで開いてする樹生の手から、ふと英和辞典に視線を移した。辞典の外箱には、音符のシールが貼ってある。


 ――織音の……私物マーク!?


 結衣の視線に気づいた樹生がぱちんと片目を閉じて、すぐに素知らぬ顔をした。

 まいったなぁ、と。友人たちの優しさをしみじみ噛みしめる。同時に、打ち合わせもなしにそんなひと芝居を打てるふたりに感心した。どれだけ相性がいいのか。果てはコンビで芸能界に飛び込めるのではなかろうか。


 八組教室前で「じゃあね」と手を振ると、名残おしそうなひな子が小声でつぶやいた。


「結衣ちゃんは、そのままでいいんだよ」


 ひな子の言う『そのまま』は青色なんだろうなと、結衣は苦笑混じりに教室の扉を閉めた。


 出会ってからの時間の長さなんて、関係ないのだとしみじみ思う。小さい頃からずっと一緒だったのに、ひな子とは即興の芝居なんて打てそうにない。

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