第12話 青とピンク

 * * *


 良いことと悪いことは、正反対と見せかけて仲睦まじい。いつでも一緒にいたがるから、持ち上げられたり落とされたり、人間は振り回されてばかりで困る。


 電車を降りて歩き出してすぐ、雨がぽつぽつと落ちてきた。

 今年の十月は夏が恋しいようで、やけに夕立が多い。朝から緊張の結衣は雨への備えが足りなかった。 


 あたふたと走り、相合傘なカップルの横を駆け抜けると「結衣ちゃん?」と声をかけられた。


 振り向くと、相合傘の左側はひな子だった。

 ならばと確かめるまでもない。右に立つのは木田だ。


 高校に入ってからはずっと疎遠だったのに。結衣が意識し始めた途端、ひな子とばったり会うことが増える。この世にはそういう見えない調律みたいなものがきっとある。


 部活帰りなのだろう。制服姿のひな子は鞄から折り畳み傘を取り出した。


「よかったら、使って?」


 傘を持っていながら、あえて使わずに相合傘。難易度SSのカップル仕草に感服する。ぎこちなく初デートをこなした結衣とは大違いだ。


「すぐそこだし走るから大丈夫。ありがとね」

「そう? 気をつけてね」


 傘の下で手を振るひな子に手を振り返し、結衣はふたりに背を向けた。


「佐伯」


 木田の声にびくりとする。彼から呼びかけられるのはいつぶりだろう。それほど珍しいことだった。


「良かったな。本命と付き合えて」

「……ぇ?」

「まさか古澤とはな。すげぇ高望み」


 何を言われたか全く理解できなかった。

 高校で教え込まれる現代国語が、日常会話まで難しくするとは知らなかった。結衣の理解力のなさか、木田と結衣の意思疎通の問題か。こんな会話がテストに出たらかなりうならされる。


 結衣が怪訝に思いながら振り向くと、木田はふいと目をそらした。相変わらず彼は結衣を視界に入れたがらない。

 気まずい空気になったふたりの間に、あたふたとしたひな子が割って入ってくる。


「結衣ちゃん、急がないと風邪ひいちゃう!」

「あ、うん。じゃあね、ひな子」


 ざわざわと騒ぎ始める胸を押さえ、結衣は走り出した。

 雨はすぐに本降りになる。キャンバス地のスニーカーがぱちゃぱちゃと水を吸い上げていく。


 クマをお迎えしなくて本当に良かった。こんな雨に濡れたら、風邪を引かせてしまうところだったから。

 やっぱりピンク色は、結衣には縁のない色なのだ。



 * * *



 走っていく幼なじみの背中を見送ってから、ひな子は彼氏に向かって頬を膨らませた。


「なんでそんな言い方しちゃうのかなぁ」


 木田は弁解も謝罪もなく、傘を握り直して歩き出す。


「あんな格好したら……雰囲気、変わるもんだな」


 雨音に木田の抑えた声音が溶ける。何を今さらと内心で笑って、ひな子は彼の袖をぐいっと引っ張った。

 彼がデートをすっぽかした日も、結衣はスカートだった。そんな結衣の姿を拾い損ねると決めたのは、彼自身だ。


「追いかけたい?」

「……まさか」


 苦笑する彼氏と腕を絡め、ひな子はほっとした顔を作ってみせる。


 簡単だった。

 佐伯 結衣には、他に好きな人がいたはずなのに、と。戸惑う幼なじみの顔を作ってひな子がそう言えば、木田 陽太はすぐに結衣と距離を取り始めた。


 木田はその程度だったから。

 ひな子のものにしても、結衣の深い傷にはならないはずだった。


 ひな子の誤算は、木田が明確な区切りをつけていなかったことだ。彼が結衣との交際を自然消滅としていることを、夏休みが明けるまで知らなかった。


 ――ごめんね。


 十月になってもなお、結衣の目が木田を追いかける。このままでは駄目だと、ひな子は交際を明かす方向に舵を切った。

 あえて結衣に、七月にはもうひな子のものだったのだと伝えた。そうすれば、結衣の傷はちゃんと癒える。傷つく価値のない相手だったのだと、いつか思える。


 幼なじみに元気になってほしい。それは心からのひな子の願いだ。古澤 悠がその一助になるなら、どんなに近づいてもかまわない。結衣が楽しく過ごせるなら、友人の輪に自分がいなくてもいい。


 でも、と。

 ひな子は前を、結衣が消えた雨の中を見据える。


 ――そんなのは、良くないよ。結衣ちゃん。


 結衣にしては珍しい、可愛さと上品さを備えたようなふわりとしたスカートが、まだそこに見える気がした。


 

 * * *



 プリンセスは、いつも川上 ひな子のものだった。


 ジャングルジムのてっぺんで待つ悪役と姫がいて、五色のヒーロー、レインボーブラザーズが姫を救うために立ち上がる。オリジナルの戦隊ヒーローごっこである。


 結衣はレインボーブルー。短い中にレインボーとブルーが同居するネーミングは、凝り固まった大人の頭ではひねり出せまい。


 可愛らしくジャングルジムのてっぺんで救助を待つのは性に合わず、一度きりの姫体験では、プリンセスパンチで自ら悪を成敗した。結衣姫はたいそう強く、それはヒーローになりたい男子諸君のプライドを傷つけた。


「ブルーがスカートはいてるー」


 リボンをつけている。

 ピンクの持ち物を持っている。

 フリルのついた服を着ている。


 からかわれるようになったのはその後からだ。こうしていつの間にか、ブルーが結衣専用カラーになった。


 ブルー専任に不満はない。クールに見せて中身は熱く、必ず最後のトドメをレッドに譲る。「ここはオレにまかせて先に行け」担当である。


 不満はない。

 けれど、公園を一歩出た結衣は、それでもブルーなのか。

 その疑問の答えはひな子が持っていた。ひな子はどこにいてもピンクのプリンセスだったから。


「ひな子ちゃんなら似合うけどなぁ」

「佐伯はやっぱり青だろ」


 レッドに昇格するほど運動能力に伸び代はなく。知略のグリーンに乗り換えられる賢さ方面もパッとせず。イエローになるには牛乳早飲みが必須条件だった。それじゃあホワイトだろうなどと言ってはいけない。小学生のルールは理屈ではない。


 素早さのブルー。

 佐伯 結衣はずっとそうだった。夕暮れに伸びる自分の影法師は「それでいいの?」と問うけれど、そのほうが喜ばれると知っていたからそれでいい。


 元気なブルーにふさわしい佐伯 結衣は、スカートを選ばない。リボンは使わない。持ち物はシンプルに、色はブルーらしく青系に統一して。


「なぁ、なんでブルーなのに髪長いの?」

「髪が長いのはプリンセスだ」


 そんなことを言い出したら、結衣はそもそもレインボー『ブラザーズ』になり得ないのだが。やっぱり、小学生のルールは理屈ではない。


 ショートヘアは結衣の定番に。

 ふわふわとしたロングヘアもピンクも、すべてひな子のためにある。

 




 七月が青なら、結衣は彼氏とおそろいのクマを買えた。青いリボンは一月、ひな子の誕生月だった。

 うまくいかないものだ。


「残念、残念」


 仕方がない。クマを一般家庭で飼うのは無理な話だ。クマを満足させるだけの量の鮭を年中確保できない。今度は犬を探そうか、猫がいいか。まだ見ぬペットに想いを馳せていたら、結衣の足はマンホールの上を滑った。


「ったぁぁ……やっちゃった」


 雨の中でべしゃんと両手両ひざをついて、誰がみているわけでもないのにへへっと笑う。濡れた指で両頬をきゅっと押し上げた。


「らしくないぞー私」


 悠が今日を素敵な日にしてくれた。そんな記念日だから、笑顔で終わりたい。

 

 ざらついた悪意の滲むような、あんなよくわからない元彼からの言葉の意味を考える必要はない。

 結局みんなひな子を選ぶんじゃないかなんて、昔からさんざん味わってきたものに、今さら足をすくわれてどうする。


 クレープはちょっとお腹に重くて最高に美味しくて、レモンもゆずもぎゅっと酸っぱくて、悠が美顔で眼福だったし、結衣のスカートは朱莉からもらった品質保証付き。


 何より、悠は来てくれた。

 休日にわざわざ、結衣に会いに来てくれたのだ。


 いいことばかりがありすぎた。マンホールで転んだぐらいでバランスが取れるなら、今日の神様は優しい。


 立ち上がったら膝が痛むけれど、明日は日曜日だから絆創膏でも貼ってぼんやりすればいい。

 雨の雫がしたたり落ちるけれど、短くなった髪はもう首にまとわりついたりしない。


 走って暑くなった体に雨は心地良い。胸の奥深くまでひんやりとさせてくれる。

 ただ少し冷えすぎたかもしれないから、家に帰ったら、結衣は優しい彼にメッセージを送る。


 素敵な一日をありがとう、と。

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