降って、積もって、落ちて、恋

笹井風琉

一章 恋は唐突に降るもの

第1話 放課後に落雷

 月曜日、佐伯さえき 結衣ゆいの恋が終わった。


 体育館脇の外廊下に、視線が縫い付けられる。仲睦まじげに歩く男女の背中を、足元が溶けていくような心地で見送る。


 ふたりは二年九組に在籍し、八組の結衣とはおとなりさんである――というだけの間柄なら、どんなに良かったか。


 片方は結衣の幼なじみ、川上かわかみ ひな子。

 そしてもう片方は、結衣の彼氏、木田きだ 陽太ようた

 結衣にとって縁深いふたりの手が、互いに指を絡めあい、貝合せみたいにぴたりとくっついている。


 こうして、結衣の初めての彼女生活は、高校一年十二月に開始し、高校二年十月の今をもって終了した。儚い命であった。


 なお、交際終了宣言を頂いた記憶も、渡した記憶もない。

 今日この時まで、結衣は木田のことを自分の彼氏だと思っていた。


「わーぉぅ」


 謎の奇声ぐらいしか、結衣には語彙ごいの持ち合わせがない。

 傷ついてドサリと落とせる鞄も、顔によよよと当てるハンカチもない。結衣の立ち位置はゴミ捨て場の真ん前で風情ふぜいなく、見上げる空はからりと秋晴れである。

 せめて曇れ。すぐ曇れ。


 もう少し美しい失恋でありたかった。

 ああ、どこまでもヒロインになれない佐伯 結衣。『川上さんじゃないほう』、『ひな子ちゃんのとなり』を幼稚園から中学卒業まで実に十一年も務めた末、ついに『彼女じゃなくなったほう』を手に入れようなど、数分前の自分は想像もしなかった。


「――さん」


 しかも、こんな肝心なときに、結衣ときたら空っぽにしたばかりのゴミ箱を抱えている。グレーのプラスチックに、黒マジックで『二の八』の文字がでかでかと書かれている。

 せめて『二の八』がもう少し掠れていれば哀愁があった。誰だ、きっちり定規を当てたみたいなゴシック体で上書きしたのは。


「――えきさん」


 失恋ムービーの演出なら、最低も最低だ。大炎上待ったなし。

 そもそも結衣が彼女役として三流。見事な大根だったのだからこの結末もやむなしか。


「佐伯さん、聞こえてる?」

「うぁっ! 聞こえました!」


 突然耳朶じだを撫でた柔らかいテノールに、結衣の上半身がしゅばっと伸びる。暴走していた脳内の自分が、銃口を前にしたみたいに両手を上げる。


 返答しながら振り向いた結衣は、口を半開きにしたまま動きを止めた。


 互いのつま先は、たった六十センチの間隔。

 やや高い位置からじっと結衣の顔を見つめてくるのは、はっきりとした二重でやや切れ長の目。まつげは長く、鼻筋はすっと伸び、顔は鋭すぎない逆三角であごのラインが美しい。かっこよく美しく、可愛げまである。天が気合いを入れすぎた造形集なんて本があったら、トップページに載る。


 同学年に在籍している生徒で彼を知らない者がいれば、それはかなりの少数派になる。


 二年九組。古澤こざわ はる


 イケメン俳優ランキングに合成しても遜色ないほど、整いまくっている。結衣の少ない語彙では『美しい』としか形容できない、おとなりクラスの男子生徒だ。


 まず、こんなところに彼が手ぶらで立っていること。

 次に、彼が接点のない結衣の名字を呼んだこと。

 なにより、大の女子嫌いと知れ渡るほどの彼が、わざわざクラスメイトでもない結衣に声をかけてきたこと。


 三段仕込みで状況がわからない。


「なに、か……?」


 結衣が尋ねると、悠はいったん結衣から視線を外した。そして、なぜか、遠く離れ行く木田たちの姿を確かめるように顔を向ける。


「念のため確認だけど。木田は佐伯さんの彼氏?」


 今の今まで、なにも感じなかったのに。他者からの問いで、ようやく結衣の中に実感が湧く。

 もう昨日までとは違うのだ。


「そうじゃなくなったという現実を、なんと今知ったばかりです」


 ついさっきまで彼氏だと思っていた人が、綿菓子みたいにふわっとしたロングヘアで可愛らしい幼なじみと去っていく。


 こんな日にも、結衣の伸びかけボブの襟足はぴこぴこと跳ねまわっている。あご下五センチという長さは、不器用な結衣では制御不能だ。空気を読めない元気いっぱいの髪に、指を通してきゅっきゅと引っ張った。

 口角の突っ張りを感じ取って、自分が笑えていると確かめる。空がこんなに晴れているなら、せめて笑い飛ばしてしまいたい。


 悠は「そう」とつぶやいた後、また結衣の顔を見た。

 厚くも薄くもないスッとした唇が、二度、軽く開いて閉じた。そのあと。


「じゃあ、俺と付き合ってください」


 心地よいテノールは、奇怪きかいな言葉を発した。


「……はい?」

「あ、悪くない。悪くないんだけど、疑問符は付けずに。語尾は下げる感じで返して」

「ごめん。ちょっと待ってもらえますか」

「はい。待ちます」


 結衣はいったん、ゴミ箱をふたりの間に下ろした。訳がわからないが、少なくとも、四十五リットルのペールボックスを抱いたまま聞く話ではない。


 お行儀よく待っている悠の顔には、たくらみとかいたずら心とか、そんなものは見受けられない。むしろ真っすぐな瞳が曇りなく透きとおるほどで、形容するなら『誠実』だ。


「その『付き合う』は、男女交際、彼氏彼女しましょうという意味の?」

「もちろん。気の迷いでも、罰ゲームとかでもないです。佐伯さんが俺に『はい』を返してくれると、喜びで三センチぐらい浮ける」

「それは、呼吸器の肺でも、ランナーが試合後におちいるハイでもなく?」

「はい、いいえの『はい』で」

だくのやつ……」

 

 悠はこくこくと首を上下動させて、淡々とした声音こわねで続けた。


「気楽に『はい』を返していただけたら。全てはそこから始まるので」


 冗談めかした言葉選びなのに、彼の表情はずっと真剣そのものだ。

 

「これって『いいえ』にすると、どのような運びになりますか?」

「その場合、俺は彼氏になれなくて。そうなると、佐伯さんは俺の彼女をしたいかどうかわからないままで……その……なんというか、何も始まらない?」


 筋は通っているような、何かがおかしいような。

 結衣の戸惑いを見て取ったのか、悠はしょげたように軽く眉尻を下げて、ほとんど直角なお辞儀をした。


「無理は承知で。どうか『はい』と言ってください」

「で、でも! 私今フラれたばっかりで、そんな」

「大丈夫。つまり、佐伯さん、フリー。俺、フリー。ほら、大丈夫です」

「大丈夫かなぁ!?」


 悠のお辞儀が、直角を越えてさらに深まる。このまま前屈でもしかねない雰囲気だ。

 その圧力が結衣を追い込む。


 ノーと言えない日本人代表みたいなところのある結衣だ。こんな姿勢で待たれたら、みぞおちがぎゅりぎゅりと言い始める。

 しかも間の悪いことに、体育館から運動部員が数人出てくるのが見える。人の話し声が、じりじりとこのゴミ捨て場に近づいてくる。今の状態を端から見れば、結衣が謝罪を受けているようではないか。


 そのとき、悠の手がじりっとと動いた。汗をこすりつけるみたいに、左右の手のひらが順にスラックスを掴んでいると気づいたら、もう駄目だった。


「っ……『はい』……」


 悠がバッとお辞儀を解く。結衣の顔を見て、ほっとしたように肩の力を抜くのがわかった。


 流されてしまった。

 我が身可愛さか。彼の緊張への同情か。

 誠実に不実を返した。ざらっとした罪悪感が胸にうごめいて、結衣は軽く目を伏せる。


 伏せた視線の先では、悠がスラックスのポケットからスマホを取り出していた。


「佐伯さんのスマホは今どちらに?」

「え、ぇと。こちらのポケットにございます」

「素晴らしい。LINEの交換を願い出てよろしい?」

「よ、よろしい。はい!」


 互いのスマホを突き合わせて数十秒。


「ゆい?」


 突然名前を呼ばれて、何事かと顔をあげる。彼が確認のために結衣のアカウント名を読み上げたのだとわかるまで、たっぷり五秒かけた。頭がすこぶる鈍っている。


「そ、そう。ゆい!」

「ん。登録しました」

「私のほうも、大丈夫……」


 友だち一覧に『こざわ』が増えている。念のために、結衣から気怠げな猫のスタンプを送信する。

 悠の手の中でスマホが震えた。画面に視線を落とした彼は、ぱっちりとした目を細め、眉尻を下げた。満足げにスマホをしまって、流れるような動きで『二の八』ゴミ箱を抱える。


「これで帰るなら、駅までご一緒してよろしい?」


 咄嗟に、結衣は首を左右に振る。一度に受けられる衝撃をとうに超えていて、頭が破裂しそうだ。


「ちょっと、気持ちを整理する時間をいただきたく」

「そう、か。うん。ごめん、俺もいったん落ち着きます。明日の朝までにはLINE送るので、時間あるときに見て。届くの待たずに寝てくれていいし、返事もいらないから」


 早口にぱぱっとそう言って、悠はゴミ箱片手に校舎へ走り去っていった。彼と入れ替わるように、部活に向かう生徒数人が、外廊下へと出てくる。


「……ええと?」


 跳ね放題の襟足をきゅきゅいと引っ張って、結衣もまた、校舎へ向かって足を動かし始める。頭の中にはまだ胸にはめていない現実のピースがぷかぷかとしていて、海を歩いている気分だ。


 体格自慢の柔道部員にぶつかりかけて、慌てて端に避ける。相手はごめんと軽く会釈えしゃくしてくれたのだが、結衣は「いいえぇ」と、町内で有名な世話好きマダムみたいな返事をしてしまった。


 外廊下を抜け、昇降口から校舎に入る。立て続けに起きた事件ふたつを確かめるように、一度背後へと振り向いた。

 誰かにぼやきたい気持ちで、避難口誘導灯にいる緑のピクトグラムをぼんやりと見上げる。


「現実……だよね?」


 ピクト君は当然無言で、光ある未来への一歩を踏み出している。混乱の渦に飲まれている結衣を連れて行ってくれそうにない。


 月曜日、結衣の恋は終わった。

 そして月曜日、結衣の恋が始まった――たぶん。

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