僻地宿場町のお奉行様 今日も妖怪変化相手に御沙汰を下し候
風楼
出会いと始まり
第1話 出会い
その男は不器用な男であった。
父親、縁者の働きかけで、若くして町奉行という役職に就けたというのに……お上におもねることも無く、媚びることも無くただただ真面目に真摯に職務に向き合う、そんな不器用な男であった。
その男がどのくらい不器用なのかと言えば……お上が見逃せと、お上の覚えめでたい商家の跡取り息子が起こした犯罪を見逃せと、そう命じてきたにも関わらず、被害者達が泣いているからと見逃さず、厳しい刑罰に処すべしとの調書を作り、上奏してしまう程に不器用な男だった。
当然の結果として、その男の行いは問題となった。大問題となった。
お上は怒り狂ったし、父親も縁者も……男の妻さえもが怒り狂った。
だが男は謝らなかった。誰にどんな言葉を投げかけられても決して男は譲らなかった。
そもそも男は不器用なのだから、そんなことができようはずが無い。
男が何かを間違ってしまったと言うのであれば、そもそも町奉行になどという立場に就いたことが間違いだったのだ。
大工にでもなって長屋に住み、慎ましい暮らしをしながら、そこいらで起きた喧嘩の仲裁でもしているのが、男の性分にあった生き方だったのだ。
そうして男は覚悟を決めていた。
腹を切る覚悟を決めていた。
……だが男に切腹の命が言い渡されることは無かった。
お上は警戒していたのだ、ここで男を下手に切腹させてしまえば、またぞろ市井の中でおかしな噂となり……そのことが幕府批判に繋がってしまうのではないか、と。
忠臣蔵然り、ねずみ小僧の件然り、市井の者達は実際に何が起きていたかよりも、噂として仕上がりの良い美談を求める傾向にある。
太平の世となり講談や演劇が盛んになってからは特にその傾向が顕著であり、そんな世間の流れの中で、日々を真面目に働き、正当な裁きをすることで知られていたその不器用な町奉行を殺せば果たしてどうなってしまうのか、腹を切らせれば果たしてどうなってしまうのか。
また変な方向に話が捻じくれるのでは無いか。
出鱈目でとんでもない噂が飛び交うのでは無いか。
お上の評判を著しく下げてしまうのでは無いか。
どうもお上はそんなことを恐れて、男に切腹を言い渡さなかったようだ。
……わざわざ切腹を言い渡さずとも、男を罰する方法はある、男の命を奪う方法はある。
そうして男は、地震と流行病と怪事件とで、すっかりと寂れて誰も居なくなってしまった、さる山奥の、温泉で有名だった宿場町の町奉行になれと任じられたのだった。
そこにはもう何年も人が暮らしていない。
そこは山奥で周囲にはまともな人里などありはしない。
そこは山奥で……そこに何年か男を放り込んでおけば、飢えるか病むかして死んでくれるに違いない。
仮に死ななかったとしても、ある程度の月日が経てば、そんな男が居たということなど市井の誰もが忘れているに違いない。
その男が不器用で、真面目過ぎる男であることはお上もよく知っている。
男がそこから逃げ出す心配をする必要は無かった。
ゆえにこれは外向きには栄転としながらの一種の島流しであったのだ。
切腹を覚悟していた男は、その命を受けて不服を申し立てることは無かった。
何も言わずただ受け入れて、粛々と支度を整えるだけだった。
父親と別れ、縁者と別れ、妻と別れ、家屋敷を始末して……そうして身一つで僅かに残った財産と、精神から来るものか酷い頭痛のする頭を背負って、そうやって男はその山奥の宿場町を目指し旅立った。
江戸を離れ、街道を歩き、山を登り……そうしてどれ程の月日が経ったのか。
そうやって男はその誰も居ない山奥僻地の宿場町へと辿り着く。
その場町へと足を踏み入れた男が、最初に思ったのは「ここはもう町では無いな」ということだった。
山の奥深くへと向かいながら細くなっていく一本の街道。
その街道の両脇に並ぶ黒塗りの木造りの家々。
当然、何年も人が住んで居ないのだから、そこは荒れ放題に荒れて、目を覆わんばかりの惨状になっていた。
街道は街道で無くなり、草木に覆われて、並ぶ家々も相応に劣化し、崩れ落ちてしまっている家まである始末。
男はそんな町の様子を見て深く心を沈めるが……そんなことをしていても何の得にもなるまいと考えるのを止めて、赴任先となる奉行屋敷を目指して歩み始める。
その奉行屋敷は町の最奥にあり……こんな山奥にある家にしては立派な、しかして江戸の町の家々と比べてしまうと途端に侘びしく見えてしまう、そんな小屋敷だった。
その小屋敷を見た善右衛門は、思わず絶句してしまう。
どういう訳なのか、街の様子とは打って変わって屋敷と屋敷の周囲が小奇麗に片付けられているではないか。
家の周囲にはごみは無く、雑草は無く、屋根の上も綺麗なもので、戸や壁には極々最近に補修したような形跡が見て取れる。
はて? と男は首を傾げながら、がらりと黒塗り雨戸を開けて屋敷の中に足を踏み入れる。
何年も人が住んでいない屋敷にそうしたのであれば、酷い埃の匂いを感じるはずなのだが……どうしたことだろうか、屋敷からは爽やかな編んだばかりの畳の匂いが漂ってくる。
黒塗りの廊下は光を反射するほどに綺麗に磨かれていて、障子も一枚たりとも破られておらず……それはまるで新品のようですらある。
これは一体? と男は訝しがる。
なんとく、嫌な予感がして……腰の刀に手が伸びた折、一つの気配が男の前に躍り出る。
その気配の小ささに子供か、と男は判断を誤る。
仮にそれが子供だとして、一体どうして子供がこんな所に居るというのか。
男は自らの愚かさを自嘲し、そして心を落ち着かせてから……改めてそれを見やる。
それは二本の足で立ち、おずおずとその手を擦り合わせる一匹の狸だった。
「……お、お待ちしておりました!
町奉行……
お願いでございます! どうかどうか、この私達を助けてくださいませ!!」
高く響く、女性のような声でそう言った狸を見た善右衛門は……なるほど、これが妖怪変化に化かされるということかと、そんなことを思いながら、すらりと刀を抜き放つのだった。
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