第76話 山の中にある、そのお宿の名前は……
「様々な妖怪がいて、何柱かの神がいて、鬼まで居る。
江戸の世にあるとはとても思えぬ、この世ならざる宿場町。
……桃源宿や楽土宿などが妥当か?」
悩んだ末にそう口を開いた善右衛門に対し、けぇ子はなんとも言えない渋い顔をする。
納得していないような、しっくりきていないというような、そんな顔をし続けたけぇ子はおずおずと口を開き、言葉を返す。
「あの……なんだか、大層な名前過ぎてしっくり来ない感じです。
私達は別に桃源の仙人様って訳でもないですし……」
けぇ子のその言葉に、めでたい名前を考えたのだがなと、眉をくいと上げながら唸る善右衛門。
「……ならばいっそ妖怪宿か?
人妖宿というのもいまいちだしな……」
そう言って顎をぐいと撫で上げる善右衛門に対しけぇ子は、
(ああ、この人はあまり名付けが得意ではないのですねぇ。
思えば八房ちゃんも、有名な作品からの引用でしたしねぇ)
なんてことを思い、心中でため息を吐き出す。
そうしてぶつぶつと今ひとつしっくりとこない名前を上げ続ける善右衛門に対し、けぇ子はため息まじりの言葉を投げかける。
「もうちょっとこう、普通の名前でいいですよ、普通の名前で。
自然な感じ、と言いますか……無理に凝らなくても良いと思いますし……」
それはけぇ子なりに善右衛門を助けてやろうと、その思考の一助になればと思っての言葉だったのだが、その言葉をただ真っ直ぐに受け止めた善右衛門は、
「自然宿」
と、そんな言葉を吐き出してしまう。
その言葉を受けてけぇ子はその大きなため息を隠すこと無く盛大に吐き出し、日当たりの良い縁側で、丸まりながら二人の様子を見守っていた八房は大きく口を開けて、大きなあくびを吐き出す。
「……じゃぁもう、それで良いですよ」
そうしてけぇ子の口から出てきた諦めの気持ちで染まり上がったその言葉に、善右衛門は不快そうに顔を歪めて、鼻息を荒く吐き出す。
「それで良いとはなんだ、それで良いとは……。
折角の名付けだ、そんな心持で付けて良いものでは無いだろう」
「そうは言いますがねぇ……善右衛門様の名付けはどれもこれも大層な名前過ぎて、今ひとつぴんと来ないんですよ。
もう少しこう、それなりの工夫があって、それでいて自然で、あるがまま、無理のない名前……そういうのって無いんですか?」
「あるがまま、自然……?」
けぇ子とのそんな会話の中で、何か思うところがあったらしい善右衛門はそう言って、瞑目し、額にぺしんと手を当てて、額から顔、顔から顎までをぐいとその手で撫で下ろす。
「ならばこれだ、
これしか無いだろうな」
そうして善右衛門の口から出て来たその名前に、けぇ子はきょとんとし、八房はふさふさとその尻尾を振り回す。
「むかう……ですか?
浅学なのでよく知らないのですけど、そのむかうという言葉は一体どういう意味を持っているのですか?」
「俺も詳しくは知らないが……確か大陸生まれの教えの中にあった言葉だ。
『何』も『無』いが『有』る
そこは何もかもが自然のままで、あるがままの姿をしていて、穏やかな時が流れている理想郷であるらしい。
自然の中にあり、古来からの神があり、動物達が住まい、動物たちが編む物に囲まれた宿……。
理想郷という意味でも客足が『向かう』という意味でも縁起の良い名前だろう」
善右衛門がそう言葉を返すと、けぇ子は「悪くないかも」といった表情となって、その言葉を噛みしめるように頷きながら何度も呟く。
そうやって何度も何度も呟くうちに、しっくりと来るものがあったらしいけぇ子は、もう一度しっかりと、大きくうなずいて口を開く。
「はい、善右衛門様にしてはとても良いお名前だと思います!」
つい先程まで頭を悩ませていたせいか、歯に衣着せぬ言葉となってしまっているけぇ子に、善右衛門は苦笑しながら「そうか……」とだけ返す。
そんな善右衛門の苦笑に気づかないままけぇ子は、ばっと勢いよく立ち上がり、そのままの勢いで屋敷から駆け出ていってしまう。
そうしてその場に残されることになった善右衛門の側に、太陽の光をいっぱいに浴びてその毛をふっくらとさせた八房がとことこと近付いてくる。
『中々良い名前だと思うよ』
とでも言いたげな表情で近付いてくる八房を見て善右衛門は、小さくため息を吐き出しながらその頭をがしがしと撫で回してやるのだった。
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