第77話 温泉を



 宿場町の名前が無何有と決まった翌日。

 宿場町は一際の賑やかさに包まれていた。


 かつての町の名前の書かれた看板や、道案内、表札などが次々と撤去され、妖怪変化達がそれぞれの力でもって作った『無何有』と書かれた品々が設置されて……そうやって町が新しい町へと生まれ変わっていたのだ。


 善右衛門としては、そんなに急いで生まれ変わらせなくても……と思うのだが、自分達の町の名前を手に入れた妖怪変化達としては、町の名前が決まったことがただただ嬉しく、居ても立ってもいられなくなってしまっているようだ。


 そんな様子を道端でぼんやりと眺めていた善右衛門は……このまま作業が進んでいけば本当にこの町が宿場町として客を迎えられるようになるかもしれないな、なんてことを思い……そしてあることに気付いてはっとした表情となる。


 この宿場町、建物は相応の数があり、それらに手を入れればそれなりの宿は確保出来るのだが、しかしながら肝心要の温泉の方が奉行屋敷にしか引かれていないのだ。


 宿場町が出来るきっかけとなった山の恵。

 その後愚かな奉行が自らの屋敷でもって独占した癒やしの湯。


 訪れた者があれを楽しめないのであれば、そもそもこの宿場町に何の価値があるのか……と、そんなことを善右衛門考えていると、山から切り出してきたのか大きな岩の塊を抱えた熊変化の一団が山の方からえっほえっほと歩いてくる様子が見える。


 そもそも現状の奉行屋敷のあの風呂では、新しく増えた町の面々、あの熊変化達が湯に浸かるのも難しいのでは……と、その姿をじぃっと眺めた善右衛門は、熊変化達が抱える岩に刻まれている文字を見るなり、大慌てでの大声を上げる。


「おいっ!? それは一体何のつもりだ!?」


 その大声を受けるなり、足を止めてきょとんとした表情をする熊変化達。

 更に大声を聞きつけた近くの家の者達や、道を行き交っていた者達までがきょとんとしながら善右衛門やその岩へと視線を向けて来て……そうして熊変化以外の者達が、善右衛門が声を大声を上げた理由を察し「そりゃぁそうなるだろ」と言ったような表情となる。


『天下の名奉行 暖才善右衛門が宿場町 無何有宿』


 その大岩には妖力で刻み込んだのか、そんな文字の書かれていて……熊変化達の様子から見るに恐らくは、それを宿場町の入り口に立てて町の看板にするつもりだったのだろう。


 当人達としては全く悪意無くそうしたのだろうが、名前を書かれてしまった善右衛門としてはたまったものではない。


 個人的な感情としても、処分を受けてここに来た身としても、そんな看板を立てられては困ったことになると、熊変化達に対し声を荒らげる善右衛門。


 すると善右衛門を見下ろす程の大男姿の熊変化達は、なんとも申し訳なさそうにぺこりぺこりと頭を下げて、善右衛門への謝罪の言葉を口にする。


 筋骨隆々の大男たちがそうする光景は、なんとも言えず目を引く光景であり……町の人々が注視する中、善右衛門は熊変化達に指示を出し、抱えている大岩を一旦地面へと置かせて、刻み込んだそれらの文字を削り取らせ、そうしてから新たな文字を刻み直させる。


『宿場町 無何有宿』


「……何も無いが有るとまで標榜しているのだ。

 変な言葉などで飾り付ける必要は無い。

 その岩も変に飾らず適当に置いておいたほうが良いだろう」


 その作業が終わるなり、そう言う善右衛門に「分かりやした」との返事をする熊変化達。


 そうして再度大岩を抱えようとする熊変化達に善右衛門は、この力があれば……と、思い立ったことがあって言葉をかける。


「……ところで、だ。

 この宿場町の売りとも言える温泉についてなのだが、お前達の方でどうにか湯殿を拡げるなり、新設するなりは出来ないか?

 来るかどうかは分からないが、仮に客が来た場合に、気軽に入れないでは困ったことになるだろう。

 お前達のような大柄な者達が気軽に入れるようにもする必要があるだろうし……どうにかして湯を引いて、上手くやってくれると助かるのだが……」


 そんな善右衛門の言葉を受けて、再度きょとんとした熊変化達は、しばらく考え込んだ後、その一人が代表する形で声を返してくる。


「岩風呂であればまぁ、どうとでも出来やすが……そんなことをしてしまって良いんですかい?

 下手をすれば奉行屋敷の湯量が減っちまうでしょうし、独占も出来なくなっちまいますが……」


「湯量に関しては……ことが自然の業だ、なるようにしかならない話であるし、とりあえずやるだけやってみて後のことは後で考えれば良いだろう。

 そして独占に関しては……前の奉行がそう望んでいたというだけで、俺の望みではない。

 町民や客達が入りやすくなったほうが俺の望みに適うと思ってやってみてくれ」


 なんとも軽い態度でそう言う善右衛門に対し、熊変化達は勢いよく頭を下げながら『へい!』と異口同音での声を返す。


 そんな熊変化達に対し、善右衛門は


「忙しいところに悪いがお前達にしか出来ないことだ……頼んだぞ」


 と、言い残しその場を立ち去っていく。


 その背中を見送った熊変化達は、改めて文字を刻んだ大岩を見つめて……その岩の隅の方に『命名 天下の名奉行 暖才善右衛門』との文字を勝手に付け足してしまうのだった。

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