第75話 町の名前
一通りの行脚を終えて、人別改帳をとりあえずの形で完成させた善右衛門は、屋敷へと戻り、居間にて改帳に書き込んだ情報を一から見直していた。
どかりと腰を下ろし、八房を傍らに控えさせ、がぶりと湯呑を傾け、そうしながら改帳の名前と、記憶の中にあるその顔を一致させていく。
そうやって奉行としての務めを果たしていると、そこに着物をいつもより少しだけ厚手に、少しだけ派手な柄へと変えたけぇ子がやってくる。
その手にある盆を見るに、どうやら善右衛門が飲んでいた柿の葉茶のおかわりを用意してきてくれたようだ。
善右衛門は礼を良いながら湯呑をそっと差し出して……そうしてけぇ子の顔をじっと見つめ、今更の驚愕の表情を浮かべる。
「……けぇ子、その髪、いつのまにやら異様なまでに伸びていないか?」
そんな善右衛門の言葉に対し、けぇ子はむすっとした顔になりながら小さなため息を吐き出し、湯呑に茶を注ぎながら声を返す。
「夏頃にもお話しませんでしたっけ?
夏毛になれば髪の毛が短くなり、冬毛になれば髪の毛が長くなるんですよ。
ちょっと前からじわじわ伸びていたのに、お気付きになられなかったんですね。
狸姿だって、ほらっ、こんなに違うんですよ!」
と、そう言って茶を淹れ終えたけぇ子は、盆をそっと置いてからぼふんと白煙を上げて狸の姿へと変化する。
その姿は初めて出会った頃に比べて、一回りも二回りも大きくふっくらとしていて……見る角度によってはまるで丸っこい饅頭のようですらあった。
「……それは太った訳ではなく、毛だけがそうなっているんだよな?」
「まぁーー!! なんてことを言うんですかっ!
食事に関してはいつも善右衛門様と一緒に、同じものを食しているというのに、なんだって私だけが太ったりするんですか!!」
ふっくらとした毛を逆立ててそう言うけぇ子に……善右衛門は一言「すまん」と謝罪する。
するとけぇ子はその毛を落ち着かせて、狸姿で小さなため息を吐き出してから、再びぼふんと白煙を上げて、人の姿へと変化する。
「私だけじゃぁなくて、こまさんも、町の皆さんもふっくらしてますし、当然髪の毛も伸びちゃってますよ。
神様だからか八房ちゃんは大きな変化がないままですけど……皆が皆、ぱっと見で分かる程の結構な変化ですよ?
……普段の善右衛門様であれば、すぐにお気付きになられたのでは……?」
と、そう言われて善右衛門は「そうかもな」と呟き、唸り声を上げる。
「忙しかったり、衝撃的な事件があったりで注意力が散漫になっていたのかもな。
うむ、気を引き締め直しておくことにしよう。
……しかしそうなると、今覚えているこの連中も、夏になると様相が変わるという訳か……」
そう言って淹れたての茶をがぶりと呑み、人別改帳をじっと睨む善右衛門。
そんな善右衛門の向かいに腰を下ろしたけぇ子は、自分の分の茶を用意しながら言葉を返す。
「そうなりますねぇ。
私達は慣れているので、そういった変化があっても誰が誰なのか普通に分かりますけれど、人である善右衛門様には難しいかもですね。
私達みたいに匂いで覚えるという手も使え無さそうですし、こればっかりは慣れて頂くしかないかもですね」
と、先程の発言をまだ気にしているのか、少しだけ棘のある声でそう言うけぇ子に、善右衛門は「ふーむ」と唸り声を返す。
そうして人別改帳を睨んで睨んで睨み続けて……そこに記されている情報の海の中へと深く沈んでいく。
そうやって奉行としての顔になっていく善右衛門の顔をけぇ子は茶を飲みながらじっと見つめて……そんな二人の顔を八房が交互に嬉しげに眺める。
そうして少しの時間が過ぎてから……ゆっくりと、少しずつ飲んでいた茶を飲み干したけぇ子が、はっとした顔になって突然の大声を上げる。
「そうでした、そうでした!
大事なお話があるのを忘れちゃってました!!
善右衛門様……こまさん達からそろそろ町の名前を決めてはどうかとの意見が届いています。
町民が増えて本格的な町となっていく中、名前が無いのはどうにも不便だそうでして……何か良い案はありませんか?」
けぇ子の突然の大声に驚き、海の中から半ば無理矢理に引き上げられた善右衛門は、
「……名前?」
と、呟き、自らの顎を撫でる。
「……名前を決めるも何も、この町には既に名前がついていただろう。
確かいくつかの壊れかけの看板にその名前が残って―――」
続けて善右衛門がその名前を口にしようとすると、けぇ子がこほんと咳払いをし、その手をちょいと上げて善右衛門の口を制止する。
「その名を持つ町は既に滅んでしまっていた訳ですし、それを再利用するというのは流石に不吉に過ぎます。
それよりかは、私達の町らしい新しい名前を付けては頂けないでしょうか」
善右衛門の言葉を止めて、真剣な表情となって……いつになく真剣な声でもってそう言ってくるけぇ子に、善右衛門は「なるほど」と返してから考え込む。
この町に相応しい名前、この妖怪変化達の町に相応しい名前。
一体どんな名前が良いのか、一体どんな名前ならけぇ子達は喜んでくれるのか……。
そうして充分過ぎる程に考え込んだ善右衛門は、ゆっくりと口を開くのだった。
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