狼の居る日々
第26話 八房
権太達が狼の子供を拾って来てから十日が過ぎた。
その間、犬探しに特にこれといった進展は無く……いくら探しても全く、犬が居るという気配すら感じられないので、善右衛門達は犬探しそれ自体を諦めつつあった。
狐達はこれといった動きを見せず、事件らしい事件も無く、平穏無事な日々が続いたが為にその必要性を感じなかったというのも理由の一つであろう。
当然狐達が何かして来やしないかと、善右衛門も町民達もそれ相応の警戒はしていたのだが……それよりも何よりも町民達の関心は新たな町民である、善右衛門によって
八房は乳母の下、元気にすくすくと育っていて……町民達によく懐く、賢く愛らしい狼だった為に町民の皆にとても可愛がられとても愛されていたのだ。
元気に町中を駆け回り、体力が尽きるまで遊び回って、その愛らしさを振りまく八房のおかげで、宿場町はすっかりと明るく朗らかな空気に包まれていた。
そんな日々の中で八房は、どういう訳なのか乳母である狸のおたまよりも善右衛門によく懐いており、善右衛門が町の見回を始めるとすぐに駆けて来て、その足元にまとわりついて一緒に見回りをするというのが常となっていた。
善右衛門としてはそんな風に懐かれる程可愛がってやった覚えは微塵も無く、どちらかというと八房が誰かに迷惑をかけないようにと厳しい態度を取っていたつもりだったので、なんとも言えず複雑な心持ちであった。
とは言え自らに懐いてくれる八房を嫌う道理は無く……そうして今日も善右衛門は、足元を駆け回る八房と共に町の中を見回っていたのだった。
そんな見回りの最中のこと。
善右衛門が右足を踏み出すと善右衛門の右足を軸に駆け回り、左足を踏み出すと左足を軸に駆け回り……と、なんとも楽しげに遊ぶ八房を見て、善右衛門は厳しさを込めた重い声で八房に話しかける。
「八房、そんな所で遊んでいてはいつか俺に蹴飛ばされるか、踏み潰されるかしてしまうぞ。
遊ぶならもう少し離れて遊べ」
「ひゃわう!」
「お前はいつも良い返事をするが、返事だけがいくら良くても意味は無いんだぞ。
言いつけはちゃんと守ってこそ意味があるんだ」
「ひゃわう!」
「ええい、だから歩いている最中の俺の足の纏わりつくなと言っているだろう……!」
「ひゃわーーう!」
そうやって狼に話しかけている善右衛門の姿は、傍目には全く馬鹿者のそれに見えるのだが……しかし全く意味の無い行為という訳でもない。
八房には何処か人語を解していると思わせるふしがあったのだ。
妖怪変化の乳を飲んでいるせいなのか、駄目だと言葉で教えてやればそれを理解し、厠はここでしろと言葉で教えてやればそれを理解し、けぇ子の尻尾や耳は齧っては駄目だと言葉で教えてやればそれを理解し……全く教えた覚えのない、難しい言葉なんかに対しても確かな反応を示していた。
ある時、善右衛門が書き物をしている際に、ついうっかり
『そこの筆を取ってくれ』
と、遊びに来ていた八房に話しかけてしまったことがあったのだが、それを耳にした八房はすぐさまに筆を口に咥えて、善右衛門の下へと持って来てみせたのだ。
筆という言葉も、取ってくれという言葉もその時始めて八房に聞かせた言葉のはずだったのだが、どういう訳だか八房はその言葉を理解し、そして善右衛門の為にその言葉に従って見せた。
以来善右衛門は八房に対し言葉が通じるものと判断し、言葉での躾を行っていたのだった。
それでは何故、今程の八房は善右衛門の言葉に従っていないのか。
……それは単純に善右衛門と遊びたいが為の子供心から来るものだったのだろう。
見回りの最中、善右衛門はただただ真面目に、町の様子にばかり注意を払っていて、八房がどんなに声を上げても、八房がどんなに可愛い仕草を見せても、それでも善右衛門は決して八房のことを構おうとしないのだ。
それは仕事中の善右衛門にとって極々当たり前のことだったのだが……しかし八房としてはそれが面白くなく、そういう事情で八房は善右衛門が声を上げざるを得なくなるような、危ない真似をしでかしているに違いない。
しかしその行いは……八房にとって致命的な失策となってしまう。
善右衛門はそんな事ばかりする八房を見て、また自分の言葉を蔑ろにする八房を見て、怒りとも失望ともまた違う……悲痛によく似た感情を抱いてしまったのだ。
そうして善右衛門はその気持ちを声に乗せて、
「……危ないことばかりして、言うことを聞けないのであればもうお前とは歩かんぞ」
と、そんな言葉を口にしてしまう。
「ひゃわん!?」
途端に悲鳴に近い声を上げる八房。
そうして八房は己の行為を反省し……また善右衛門に嫌われたくないという気持ちを抱き、その耳と尻尾をくたりと下げながら、善右衛門のすぐ脇をとぼとぼと大人しく歩く。
そんな八房を見た善右衛門は、仕方ないやつだと溜め息を吐き……そうしてしばらく歩いてから、小さくぼそりと言葉を漏らす。
「後で遊んでやるから、そう気を落とすな。
……ただし、またぞろ危ない真似をしたなら、その時は遊んでやらんからな」
すると途端に八房は、嬉しそうに顔を上げて耳を上げて、その尻尾を激しく振り……狼というか犬のような態度で嬉しそうに、善右衛門から少し離れた場所を駆け回り始める。
そんな八房を見た善右衛門は、やれやれとまた大きな溜め息を吐くのだった。
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