夏の日々

第41話 夏の始まり


 祭りが終わり、それから数日が経って……善右衛門達は何事も無い、ただただ平和で、静かで、穏やかな日々を過ごしていた。


 けぇ子が懸念していた山の目達が町にやって来るといった様子は全く無く、これといった事件も起きず、奉行としては暇で暇で仕方なく、その事がなんとも喜ばしく思えてしまう……そんな日々。


 そうした日々の中でいつの間にやら梅雨は過ぎ去って、宿場町はすっかりと夏盛りとなっていた。

 

 太陽が激しく照り、蝉が五月蝿いくらいに鳴き、涼むためにと狸達が作った川の水を流す為だけの割竹の道が町の中を貫き、その道からさらさらとした水の音が絶え間なく聞こえてくる……そんな夏のある日の朝の事。


 朝餉を終えて食後の茶を飲んでいた善右衛門が、何かあったのか茶碗を傾けたままぴたりと硬直し「うん?」との声を上げる。


 向かい合って座るけぇ子がその様子に気が付き、


「どうかしたんですか?」


 と、声をかけると善右衛門はその首を右へ左へと傾げて「うぅむ」と唸る。


「……いや、何かこう、忘れてしまっていることがあるような気がしてな。

 思い出せ思い出せと気ばかり逸ってしまって、一体何を忘れてしまっているのやらな……。

 ……うぅむ、最近はこれといった仕事も無く、忘れてしまって困るようなことも無かったはずなのだが……」


 歯切れ悪くそう言う善右衛門が苦悩する顔を、少しの間見つめていたけぇ子は、善右衛門が思い出すきっかけになればと考えて、適当に思いついた言葉をつらつらと口に出し始める。


「お日様、蝉、生姜、大葉、きゅうり、茄子、冬瓜、冷やうどん、冷やお蕎麦、冷やお茶漬け―――」


 けぇ子が口にするそんな言葉達を受けて善右衛門は顔を顰める。

 

 その食欲に偏った言葉達は一体何なのだと表情で訴える善右衛門だったが、けぇ子はそんな善右衛門の表情にも内心にも気づかないまま言葉を続ける。


「どじょう、うなぎ、ヤマメ……あ、今日の夕餉はヤマメの塩焼きにしましょうか。

 さいかち、蝉……あ、蝉はもう言いましたね。

 八房ちゃん、こまさん、権太さん―――」


 早速飽き始めてしまったのか、集中力を失ったのか、そんな余計なことを言い出してしまうけぇ子。


 そんなけぇ子の言葉を聞いているうち、けぇ子の顔を見ているうちに、なんだか全てがどうでも良くなってしまった善右衛門が、思い出すのを諦めて、重要なことであればそのうち思い出すだろうと、そんなことを考えた―――その時、けぇ子の口から一つの言葉がこぼれ出る。


「―――九尾の狐」


 その言葉を受けて、ハッとなった善右衛門は茶碗をとんっと畳の上に置き、大きな声を上げる。


「それだ! 

 あれから色々とあったせいですっかりと忘れてしまっていた!

 あの狐共が復活させようとしていたその九尾の狐とやらは、確か殺生石を集めると復活するとかなんとか……そんな話をこまがしていたはずだ。

 江戸まで飛んでいける奴らが八房に拘り、この町に、俺に拘ったことから考えると、恐らくは残りの殺生石がこの近くにあるのではないか?

 そうだとすれば一刻も早くそれらを見つけて、あの厠に放り込まなければならんはずだ!」


 そんな善右衛門の大声を受けて、一瞬驚いたような顔をしたけぇ子は、うふふと小さく笑ってから、善右衛門に言葉を返す。


「そのことでしたらご安心ください。

 すでに権太さん達が調査を始めていますので……近くにあればいずれ見つけてくれるはずです。

 それにそもそもの元凶である狐達はもう力を失ってしまいましたし……殺生石の一つが厠神の下にある今、九尾の狐が復活するなんていう心配をする必要はありませんよ。

 何しろ厠神様のお腹の中にあっては、どんな大妖怪でも手が出せませんし、たとえそれが神様であっても手を出すことは出来ないはずです。

 それ程に厠神様の徳と神格は高いのです、そんじょそこらの神様が束になっても勝てない程の神格なのです」


 なんとも自慢げに、なんとも誇らしげに胸を張りながらそう言うけぇ子。


 厠神が凄い神なのだという事はなんとなく分かったが、何故それでけぇ子がそんなに自慢げになるのかと、そんなことを思うが……あえてその思いを表には出さず、腹の中へと飲み込んだ善右衛門は、


「……なるほど」


 と、それだけの言葉を返す。

 

 するとけぇ子は、そんな善右衛門を見て、とても嬉しそうな……なんとも誇らしげな笑みを浮かべ始める。


 そんなけぇ子の笑顔を見やりながら善右衛門は、今度権太達と会ったら何か気になることは無かったか、おかしなことは無かったかなどの細かい話を聞いてみるかと、そんなことを腹の中で思うのだった。

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