第93話 祝言後の遊教
夫婦の散歩を兼ねた見回りを終えて、善右衛門とけぇ子が奉行屋敷へと足を向けていると……奉行屋敷の隣、遊教達の住まう屋敷の前に、雪の中ぽつんと立つ遊教の姿がある。
その姿を見て善右衛門とけぇ子が、こんな寒空の下で何をしているのだろうかと首を傾げていると……そんな善右衛門達の気配に気付いた遊教が、冬用の厚袈裟を揺らしながら善右衛門達の下へと歩いてくる。
「どうした? 祝言を上げてまだ間もないというのに、もう夫婦喧嘩をしたのか?」
善右衛門がそう声をかけると、寒空の下で立ち尽くしていたせいか、血色の悪い顔色をした遊教は暗く重い声を返してくる。
「……善右衛門、拙僧はどうしたら良いんだ」
その言葉を聞いて、これは夫婦喧嘩だなと確信した善右衛門は、小さな揉め事の解決も奉行の仕事だろうと、遊教の長話に付き合う覚悟を決める。
「一体どうした、どんな理由で喧嘩をしたのだ?」
そう善右衛門が尋ねると遊教は、くわりと目を見開き、声を荒らげる。
「喧嘩などするものか! つくしとは仲良くやっているわ!
気立てがよく、気が効いて、拙僧のこともよく分かってくれるし、拙僧の好みにも付き合ってくれる良い妻だとも!
だがな、だがな善右衛門。それはそれとして拙僧は……拙僧は遊びたくて仕方ないのだ!」
その言葉を耳をするなり、善右衛門は拳をぐっと握る。
それに気付いて慌ててけぇ子が腕をとって制止する中、遊教は更に言葉を続けてくる。
「遊びたい、どうしてもどうしても遊びたいのに、いざそうしようとすると、意欲が萎えてしまって、足が動かんのだ!
つくしへの罪悪感がそうさせるのか、つくしへの想いがそうさせるのか……拙僧は一体全体どうしてしまったと言うのだ!?」
両手のひらを上に向けて、わなわなと震わせながらそんなことを叫ぶ遊教。
それを受けて善右衛門は、大きなため息を吐き出して……さて、どうしたものかと頭を項垂れる。
するとそんな善右衛門を見てか、けぇ子が小さく囁いてくる。
(……これも本能の仕業、なのでしょうかね?
良い奥さんがいて、その仲も良好で、なのに外で遊びたくなるだなんて……)
けぇ子の声にはいくらかの不安の色が込められていて……善右衛門はアレと一緒にしてくれるなと、自分はそんな男ではないから不安に思う必要はないぞと、そんなことを思いながら囁きを返す。
(いや、どう考えても本能ではなくて煩悩によるものだろう。
妻を、家族を愛そうという本能はつくしによって満たされているはず。
だというのに……それでも尚この坊主の煩悩は、留まることを知らず、自重することを知らず、アレの心の中で暴れに暴れているようだ。
目の前のアレを男の見本と思われては困る……アレは稀有な例……のはずだ)
そう囁いてから善右衛門は、遊教の方へと足を進める。
努めて友好的な、穏やかな表情を浮かべながら遊教の目の前まで歩いていって……そうしてから遊教の肩にそっと手を置く。
「遊教、お前は間違っている。
夫婦となった以上は外で『遊ぶ』なんてことはすべきではないし、どうしても娯楽を求めるというならば妻と二人で楽しめる、妻と一緒でも問題の無い、全く別の娯楽を求めるべきだ。
幸いにして最近の無何有宿には、寒くなったこともあって演劇やら何やら、室内で出来る娯楽を増やそうと頑張っている者達がいる。
そうした娯楽を夫婦二人で楽しみ、夫婦の時間を過ごすべきだろう」
尚も穏やかに、優しくも見える態度でそう言う善右衛門に、遊教はふるふると震えながら言葉を返す。
「駄目だ、それでは駄目なんだよ、善右衛門!
拙僧は一人で、自由気ままに、後腐れのないお遊びをしたくてしかたないのだ!
だというのに、だというのに何故拙僧の体は拙僧のその想いに応えてくれないのか!」
「……遊教、それはどうしてもか?
どうしても遊びたくて仕方ないのか? その考えを……煩悩を捨てることは出来ないのか?」
「煩悩をそう簡単に捨てることが出来たなら! 誰も仏に頼りはしないだろうよ!
煩悩は俺の一部……いや、根幹だと言っても良い重要な部分だ!
そう簡単に捨てられる訳がないだろう!!」
遊教の力強いその一言を受けて、善右衛門は「分かった」とそう呟いてこくりと頷く。
善右衛門のその態度に……妙に大人しいというか、静かというか、何もしてこない善右衛門の態度に小さな予感を、ちょっとした嫌な予感を抱いた遊教は、善右衛門の目を……何かをやらかしてやろうとしているような目を見て、その身をぶるりと震わせる。
「お、おい、善右衛門。
お前一体何をしようと……一体何を企んでやがるんだ」
震える声でそう言ってくる遊教に対し善右衛門は、にこりと微笑み……屋敷の方へと向かって大きな声で、
「つくし!
お前の旦那が、お前に構ってもらえぬ寂しさのあまり、家出をしようとしているぞ!
構ってやれ!」
と、そんなことを言ってしまい……そうして遊教は、屋敷の中から駆け出てきた笑顔のつくしに捕獲されてしまい、そのまま屋敷の奥へと引きずり込まれてしまうのだった。
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