第83話 手紙


 遊教は逃げた。

 けぇ子とこまは敵となった。

 八房は我関せずと大あくびを上げている。


 孤軍となった善右衛門に打てる手は限られており……限られた手の中から善右衛門は、逃亡の一手を選び取る。


 だがしかし、凄まじいまでの勢いに乗るけぇ子とこまに周囲を囲まれてしまっている今、ただ逃げようとしても制止され、捕らえられてしまうだけだろう。


 そう考えて善右衛門はまずはと、意味ありげにゆっくりと片手を上げる。


 凄まじい勢いでもってあれやこれやと言葉を投げかけていたけぇ子とこまは、一体何事だろうかと言葉を止めて、その手のことをじっと見つめる。


 二人がそうしたのを見て善右衛門はゆっくりと……逃げる為にそうしていると思われないように努めて冷静に、焦ることなくゆっくりと立ち上がり、そのまま尚もゆっくりと数歩前に進み、二人に何か言葉をかけようとしているような、そんな思わせぶりな仕草を取ってから……一気に駆け出し、そのまま庭の外へ屋敷の外へと駆け出てしまう。


 まさかそう来るとは思ってもいなかったけぇ子とこまは、唖然としながら……いくらかの怒りを抱きながらその背中を見送ることになり、そして八房はやれやれと大きなため息を吐き出すことになるのだった。



 

 屋敷を出て街道を進み、町の入り口辺りまで逃げてきて、そこで足を止めた善右衛門が額の汗を着流しの袖でもって拭い取っていると、そんな善右衛門の前に一人の男がまるで立ちはだかっているかのような形で姿を見せる。


 それを受けて善右衛門はけぇ子とこまが放った刺客か、と身構えるが……その頭の上に乗る耳を見るなり構えを解く。


「馬か」


 前後左右に向けて忙しなく動くそれは馬の耳であった。


 よくよく見てみれば男の背後では馬のものと思われる尻尾がゆらゆらと揺れていて……善右衛門は確か馬の妖怪がどうとかと話に聞いたことがあったなと、そんなことを思い出しながら男の姿を改めて観察する。


 面長の、優男と言った印象で、服装は旅装。

 目は切れ長、まつげは立派で……馬らしいと言えば良いのか鉄製の底を持つ履物を履いているようだ。


 確か馬の妖怪は、人の近すぎるがゆえに独特な変化をするとかで……それと行商をしているとも聞いたな、なんてことを思い出しながら善右衛門が口を開こうとすると、目の前の馬はそれよりも早くその大きな口を開く。


「どうもどうも、初めましてでございますね、善右衛門様。

 自分は見ての通りの馬でして、馬仲間の中でも珍しく、行商ではなく飛脚業を生業としております。

 文を運ぶのは普通は鳥達の……こちらであればみみずく達の仕事なのですが、大きな荷物を運んだり、そのついでに文を届けたりなど、そういった仕事は自分達が主となっております。

 と、いう訳で、こちら佐渡島からの文でございます」


 そう言って馬は何かの葉に包まれた文らしき長四角のものを手渡して来て……それを受け取った善右衛門は、眉をひそめ訝しがる。


「……佐渡島だと?

 あんな所に知り合いなどいなかったはずだが……。

 そもそも俺がここに居ると知っている者で、俺に文を送ってくるものなど居るはずが……」


 善右衛門のその言葉に、馬はこくりと首を傾げて、傾げたまま言葉を返す。


「まー、自分も他の飛脚からそれを預かっただけで、誰が送ったとかどういう事情かとかまでは知りませんです、はい。

 葉を開いてみて、宛名部分を確認したらよろしいかと思いますが……まぁまぁ、全ては中を見れば分かるということで一つ、よろしくお願いします。

 自分は当分の間、こちらに滞在するつもりで、温泉を楽しみつつ体を休めておりますので、お返事書き上がったらお声をかけてください」


 そう言って馬は、首を傾げたままゆっくりとお辞儀をして……街道の向こう、町の奥へと足を進め始める。


 その背中をなんとも言えない半目で見送った善右衛門は、兎にも角にも中を確認してみるかと、包まれた葉をゆっくりと開いていく。


 水に濡れるのを防ぐ為なのか、二重三重に包まれた葉を開いていくと、ようやく白い、随分と上質な紙が姿を見せる。


 表にはなんとも達筆な文字で、


『暖才善右衛門様』

 

 と、宛名が書かれており、裏に返して署名を確認してみると、


『団三郎』


 との名が書かれている。


(団三郎……団三郎……。

 親類筋でも仕事筋でも聞いたことのない名だ。

 だがしかし、何処かで、何処かでこの団三郎という名を聞いたことがあったような……)


 そう考えて善右衛門は、手紙を読まず手に持ったまま、己の記憶を……これまで鍛えてきた己の脳みその中の記憶を懸命に探り始める。


 団三郎、佐渡島の団三郎。

 誰にその名を聞いたのだったか。


 ごくごく最近聞いたような。


 最近聞いたということは、最近言葉を交わした、けぇ子かこまか遊教辺りから……。


 と、そこまで記憶を探った所で、正解に辿り着いた善右衛門は、それをそのまま口から漏らす。


「……神に至った八尾の妖怪、佐渡島の団三郎狸……か?

 山神と言い、厠神と言い、八房と言い……神とはこんなに身近にいて良いものなのだろうか……」


 その独り言は誰の耳にも届くことなく、晩秋の強い風の中にかき消えてしまうのだった。

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