第13話 二人の仲

 脱衣所で服を脱いだ善右衛門と、狸の姿へと戻ったけぇ子がゆったりと湯に浸かっていると、脱衣所と湯殿を隔てる戸ががらりと開けられて……戸の向こうに白い湯着に身を包んだこまが姿を見せる。


 人の姿のまま、変化したままの姿のこまは、戸の向こうからしばしの間、無言で善右衛門達のことをじっと見つめて来て……そして何も言わずに、湯殿に足を踏み入れること無く、今し方開けたばかりの戸を閉めてしまう。


 一体何がしたかったのだろう? と善右衛門とけぇ子が首を傾げていると再び戸ががらりと開けられて……銀狐の姿に戻ったこまがしずしずと、とことこと湯船の方へと近付いてくる。


「わたくしもご一緒してもよろしいでしょうか」


 と、何処か恥ずかしげにしながらこまの声でそう言う銀狐に、善右衛門は好きにせよと一言、片手を上げながら応える。


 そんな快諾を受けてこまは湯船の中へと入り……湯の心地よさに目を細めながらぷかりと湯に浮かぶ。


 そうやって湯を堪能し……十分に堪能し、溜まった疲れを吐き出すかのように大きな溜め息を吐いてから、こまが声を上げる。


「……しかしお二人は本当に仲がよろしいのですね。

 一緒に暮らしていることと言い、昼間の遠慮の無いやり取りと言い……。

 少し妬けてしまうと言いますか、まだ会って間もないのでしょうにと不思議に思ってしまう程です」


 そんなこまの言葉を受けてぷかりと浮かぶけぇ子がふふんと得意気な顔になる中、瞑目した善右衛門は、しばらくの間そうしてから目を開け、口を開く、


「こんな僻地で世捨て人が一体何の為に気兼ねをする必要があるのか。

 その上相手は狸、そもそも気兼ねなど出来ようはずも無い。

 ……気兼ね無く隔心が無ければ、その仲が縮まるのは極々当然のことだ」


 狸相手だから気兼ねをしない。

 喜んで良いのか悪いのか……そのなんとも言えない善右衛門の言葉に、けぇ子がきつい渋面を浮かべるが、善右衛門は気にすることなく言葉を続ける。


「同じ家に住み、身の回りの世話をして貰い、飯の世話をして貰い……隔心が無い上にそこまでいけば最早それは家族のようなものだろうな。

 ……それとあれだ、けぇ子が変化した際のあの顔。

 何処かで見た覚えがあるとずっと気がかりだったのだが……幼い頃、近所に住んでいた者の顔によく似ていて、何処か懐かしく思えるのもあるのだろう。

 ……あれは女ながら武芸に優れ、博覧強記な変わり者だったな……」


「へぇ……そんなお方がお江戸に……。

 そのお方は今どちらでどうしておいでなのです?」


 と、こまに問われた善右衛門は、小さく失笑してから言葉を返す。


「さてな。

 端くれとはいえ武家の嫡男である俺に、遠慮の無い拳を見舞うような女だ。

 今頃何処ぞで打首にでもなっているのではないか?」


「こ、拳を、善右衛門様に……?」


「……ああ。

 表情が悪い、態度が悪い、仕草が悪い、言葉が悪い、思惑が悪い。

 他者を見下すな、尊大に振る舞うな、貴様など所詮は人の世の木っ端だと事あるごとに脳天に拳を叩きつけられたな」


 まさかそんな御冗談でしょうと、そんな言葉を言いかけて……そしてそのまま飲み込むこま。


 いつかの時にあったであろうその記憶を、なんとも懐かしげに思い出す善右衛門の顔が、嘘を言っているようにはとても思えず……またそんな善右衛門の邪魔をしてしまうのが躊躇われた為だ。


「うふふ、きっと私によく似た美人だったのでしょうねぇ」


 呑気なのか何なのか、そんなことを言うけぇ子に呆れながらこまは、どうやらその女が今の善右衛門の在り方にいくらかの影響を与えているようだと思いを巡らせる。



 それから三人はそれぞれ言葉を発さなくなり、会話の無いまま静かに湯を楽しんで、湯から上がり、身を清めてから整えて、湯殿を後にする。


 それから寝所へと入る善右衛門に、こまがご一緒したいと言い出し、けぇ子が憤り……善右衛門が毛皮枕代わりになるなら良いと言い出し、こまが憤り、そうしてけぇ子が笑うといった騒動があったりしながら、一人寝所に入った善右衛門は、枕に頭を預けながら、湯殿での会話のことを思い返す。


 そう言えばあの女、名はなんと言ったか。

 えらく風変わりな名をしていて……その名を耳にした近所の老人達はやれ不敬だとかそんなことを言っていたような……。


 ……ああ、全く、幼い頃の記憶とはどうしてこう朧気なのだろうか。

 江戸の町人達の名であれば、今でもその全てを抜かり無く思い出せるというのに……。


 

 そうやって女の名を思い出そう思い出そうとする善右衛門だったが、結局思い出すことが出来ぬまま、湯に温められた身体の発する眠気にやられてしまい、夢の中へと落ちてしまうのだった。

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